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92 《この物語に、英雄はもういない》

「隊長……どうすれば……!?」


生徒の一人が振り返った。

声は明らかにパニックに染まっている。


「走れ! 止まるなっ!」


ラグノルドの咆哮が廊下に反響する。

その言葉は、絶宣言のように重く響いた。


ハルは息を弾ませながら走る。

肩は痛みで焼けつく。

血が腕にべとつく。


だが、そんなことは――

つい今しがた目にした光景の前では、霞んでしまう。


「ナギ……」


かすれた息が零れる。

彼の唇から、友の名が。


脳裏に浮かぶのは、あの様子――

おかしい。

いや、恐ろしい表情だ。


ナギらしからぬ笑み。

そして、もう誰も戻ってこない闇へと飛び込む姿。


背後で、魔物の咆哮が轟く。

壁は震え、天井から塵が落ちる。


一瞬一瞬が、最後の瞬間のように感じられる。


「ハル、早く!」


誰かが彼の手を掴んだ。

集団の中へ、引き戻される。


足は前に進む。

だが、心はあの深渊の側に、置き去りにされたままだ。


なぜだ?


なぜあんなことをしたんだ、ナギ?!


それでも――

選ぶ余地はなかった。


生きるため。

逃げるため。

この地獄から脱出するため。


たとえそれが――

友を深渊の手に委ねてしまうことだとしても。


叫び声。

足音。

魔物の咆哮。


それらが混ざり合い、悪夢と化す。


ハルの頭の中では、ただ一つの光景がこだまのように繰り返される。


ナギの笑み……

そして、深渊への飛び込み。


石の壁が激しく揺れた。


魔物は依然として後を追ってくる。


だが、前方にかすかな光が揺らめいている――

救いの灯台のように。


「あそこだ!」


騎士の叫びが混沌を切り裂く。

集団は最後の力を振り絞り、前へ躍り出た。


あと一歩――

彼らは外へ飛び出した。


冷たい夜気が肺を刺す。


地下牢の重苦しい闇の後では、

頭上に見える星々が非現実的にさえ感じられた。


生徒の一人が膝を折る。

泣き崩れた。


もう一人は、溺れる者のように

必死に空気を吸い込む。


ラグノルドが最後尾から闇の中へ消える。

重い石板が轟音と共に閉じた。


入口は封鎖された。


轟音は止んだ。


静寂が毛布のように

皆を包み込む。


だが、その静寂は安堵ではなく、

虚無でしかなかった。


「俺たち……

脱出した……」


誰かが震える声で言った。

その言葉には、喜びは一切なかった。


誰の目にも、明らかだった。

幾人かが、欠けているのだ。


ハルは微動だにしない。

地下への入り口を見つめたまま。


風が彼の髪を揺らす。

だが、彼は何も感じない。


ただ、胸の中に穴が空く。

ぽっかりと、何もかもを飲み込んでいくだけだった。


なぜあんなことをしたんだ、ナギ……?


なぜ俺たちを……

俺を置いていった……


ラグノルドが兜を外す。

重々しく。


彼の顔には、隊長としての冷徹な自信はない。

久しぶりに――ない。


刻まれていたのは、

ただ疲労と……

苦痛だけ。


「お前たちは、奇跡的に生き延びたと思え」


声は嗄れていた。


「だが忘れるな」

「我々は仲間を失った」

「この血は、我々の手に付いている」


誰も返事をしなかった。


震える体。

嗚咽。

囁き。


虚ろな沈黙が、重くのしかかる。


そして――

どこか遠くの下で。


封印された石の向こう側で、

かすかな轟音が、まだ聞こえていた。


まるで……。

新たな生贄を飲み込んだ深渊自身が、嗤っているように。

《この物語に主人公はいない》

《誰が死んでもおかしくない――覚悟はできているか?》

※次で消えるのは……お前の推しキャラかもな。

ブクマして見届けろ!

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