第92話「サヨナラの向こう側」後編
ホームベース上で、逆転サヨナラツーランを打った藤川がナインに揉みくちゃにされている。
そんな姿を横目に、ネネは帽子を深く被り三塁ベンチに戻った。
「ざまあみさらせ! バカ女!」
「プロの厳しさを思い知れ!」
「お前みたいな女がプロでやれるわけないんだよ! 引退しろ!」
容赦ない罵声や嘲笑がネネに飛んだが、ネネはその声に抗う気力もなく、よろよろとベンチまで戻っていった。
そんな失意のネネを真っ先に出迎えたのは今川監督だった。
「よく投げた、お疲れさん。身体のケアだけはしておけよ」
ネネは今川監督を恐る恐る見上げた。ネネの目は真っ赤だった。
「お、怒らないんですか?」
「あん?」
「わ、私のせいで負けたんですよ……私のせいで……」
「バカ言うな、負けたのはお前だけのせいじゃね─よ」
今川監督はネネの頭をポンと叩いた。
「次、頑張れや」
「ネネ、大丈夫? 気にしないでね」
毛利が駆け寄ってくる。
「誰もが経験することだ。切り替えろよ」
無口な斎藤も慰めの言葉をかけてくれる。
「ネネ、気にすんな。次、頑張ればいい」
明智や蜂須賀、黒田もだ。誰もネネを責める者はいない。
ネネは、悔しさ、悲しさ、やるせなさ……様々な感情が湧き上がるのを感じた。
「ネネ……」
由紀がネネに声をかけた。
「お疲れ、ネネ、さ、アイシングしよ」
ネネは由紀の姿を見てほっとした。まぶたの裏が熱くなる。その時だった──。
「……藤川さん、同期の柴田投手の200勝を打ち砕く一撃でしたね」
「はい、柴田投手には申し訳ないことをしましたが、コレも勝負ですから……」
不意にヒーローインタビューを受ける藤川の声が耳に飛び込んできて、ネネはその場に立ちすくんだ。
(そ、そうだ……柴田さんの200勝……ただ負けただけじゃない。私が……私が柴田さんの200勝を台無しにした……)
ネネはその時、自分が取り返しのつかない失敗をしたことに気付かされた。
「ネネ……さ、行こ……」
由紀がネネに手を差し出した。しかし、ネネはその手をパン! と振り払った。
「ね、ネネ……?」
由紀は驚いてネネを見た。ネネの顔は真っ青だった。そして次の瞬間、ネネは帽子で顔を隠して、ベンチから通路に向かって走っていった。
カンカンカン!
スパイクの刃の音が通路に響く、走る勢いで帽子が落ちた。ドーム関係者が、何事か? という顔でネネを見た。
背後から「ネネ!」と、自分を呼ぶ由紀の声が聞こえたが、ネネは振り返らず女子更衣室まで一気に走った。
ドーム職員専用の女性更衣室に入るとドアのカギを閉めた。呼吸は荒く、視界が歪む。
(サヨナラ負け……それも、柴田さんの200勝を台無しにするサヨナラ負け……)
目に涙がたまるのが分かった。
(泣くな……泣くな……泣いちゃダメだ……プロになるとき、もう絶対に泣かないって決めたじゃないか……)
ネネは目を閉じて、歯を食いしばり泣くのを耐えた。ここで泣いたら、二度とプロの世界でやっていけないと思ったからだ。
だが、閉じたまぶたの裏に柴田の笑顔が浮かんだ。
(私が……私がすべてを台無しにした。柴田さんの200勝を帳消にした……あと……あと、たったワンアウトだったのに……)
ネネの口から「あ……」と声が漏れた。
その声がきっかけだった。ダムが決壊するように、目から涙がこぼれ落ちた。
「あ、あ、あ……」
ネネはドアの扉に両手を付くと、その場に崩れ落ちた。
「あ……ああ……わあああああ!」
誰もいない真っ暗なロッカールームにネネの泣き声が響き渡った。
「ネネ! ネネ! 開けて!」
ネネがベンチから飛び出して数十分後、女子更衣室の前で由紀がドアを叩いていた。周りには人が集まっている。
「どうしたんだ?」
そこに、ひょっこり今川監督が現れた。
「あ……監督……ネネが更衣室に閉じこもって、出てこないんです!」
由紀が不安そうに助けを求める。
「ああ?」
今川監督が、トントンとドアをノックする。
「お─い、何やってんだ? 早く出てこないと、バスが出ちゃうぞ──」
だが、中から返事はない。
「ど、どうしよう……」
「まあ仕方ないわな。サヨナラホームラン打たれて、更に柴田さんの200勝も台無しにして……それで、落ち込まないやつはいないよ」
あまりにサラッと言うので、由紀が今川監督をキッと睨んだ。
「しかし、これがプロ野球の厳しさだ。そして、これがヤツにとって……」
「つ……通過儀礼って言うんでしょ! い、いい加減にしてよ──!」
由紀は今川監督の首を絞めた。
「く、苦しい……落ち着け……浅井……」
「一体、どれだけネネを苦しめれば気がすむのよ──!」
「な、何やってるんですか?」
そこに柴田が現れた。
「し、柴田さん! ネネが閉じこもって出てこないんです!」
由紀は今川監督から手を離して、柴田に訴えた。
「ネネが……?」
柴田はドアの前に立つと、ドアをトントンとノックした。
「ネネ、そこにいるのか?」
返事はない。柴田はもう一度ドアを叩いた。
「俺だ、柴田だ。話がある。開けてくれ」
すると、しばらく経ってカチャリとカギが開く音がした。
ドアを開くと、そこにはネネが立っていた。顔には正気がなく、目は真っ赤に腫れていて涙の跡が見えた。
「ね、ネネ……!」
駆け寄ろうとする由紀を柴田が止めた。
「……ふたりきりで話をさせてくれ」
そして、柴田は更衣室に入った。
部屋に入ると柴田は電気のスイッチを付けた。ネネはユニフォーム姿のまま無言で立ちすくんでいた。
「どうした、どうした? こんな真っ暗な所に閉じこもって?」
柴田が笑いながら話しかけるが、ネネはずっと突っ立っている。
「座らせてもらうぞ。腰が痛くてたまらん」
柴田が笑みを浮かべ、パイプイスに座った。ネネは両手を握りしめてうつむいていたが、ようやく言葉を発した。
「ご、ゴメンなさい……」
掠れた声で言葉を絞り出した。
「わ、私のせいで、柴田さんの勝ち星が……200勝を台無しにしてしまって……」
ネネの目から、また涙がこぼれる。
「わっはっはっ!」
すると、突然柴田が笑い声を上げたので、ネネは「え?」という顔で柴田を見た。
「何だ何だ、お前、そんなこと気にしてたのか?」
柴田は笑いながらネネを見た。ネネは呆気に取られた顔をしている。
「お前なあ……負けるたびにペコペコ謝っていたら、抑えなんてできないぞ。今日はダメだったから、次、頑張ろう! これくらいの気持ちでいいんだよ」
「で、でも……」
「なあネネ、前も言ったよな。負けて負けて、プロのピッチャーは成長していくって……今日がお前にとって、たまたまそういう日だったんだよ」
柴田の言葉を聞いたネネは涙をゴシゴシと拭った。
「それに、一度負けてみろ、って焚き付けたのは俺だしな」
柴田はニヤッと笑う。
「そ、それは……」
「とにかくだ! 抑えなんてのは、こういうもんだ。ピッチャーに勝ち星を付けてやる日もあれば、消してしまう日もある。だから仕方ないんだよ。俺だって何回抑えを失敗したか分からない。それとな……今日のことが悔しかったら、配球、ピッチング、自身の体調やメンタル……すべてを見直して、次への糧にしろ」
「柴田さん……」
「俺を見くびるなよ、まだまだチャンスはある。200勝は誰の力も借りずに、完投で決めてみせるぜ!」
柴田は右腕を叩いて笑った。ネネはその姿を見て、少し救われた気がした。
「さあ、それじゃあ外に出るか。皆、お前の心配をしてるぜ」
ネネが再びドアを開けると、そこには由紀や今川監督たちがいた。
「ネネ……」
由紀が心配そうな顔で見ている。ネネはさっき由紀の手を振り払ってしまったから、気まずくてうつむいた。
だが、由紀は何事もなかったかのように笑顔で話しかけてきた。
「さ、ネネ、アイシングするよ。身体のケアもプロの仕事なんだから」
由紀の笑顔を見たネネの目にまた涙が浮かんだ。
「ゆ、由紀さん……さ、さっきはゴメンなさい……」
「全然いいよ。ネネ、今日はお疲れ様」
由紀はネネをそっと抱きしめ、背中をポンポンと叩いた。
ネネは涙が溢れるのを必死に我慢して由紀にしがみついた。




