第64話「不安が自信に変わるとき」
マウンドに立つ恐怖心を勇次郎のおかげで克服したネネは、アスレチックスドームのマウンドに立ち投球練習を始めた。
投げてみて分かったのだが、アスレチックスドームのマウンドは実に投げやすい。硬さや傾斜がレジスタンスドームに似ているのだ。
福岡アスレチックスは大手携帯電話会社が経営する球団で、十二球団イチの資本力を有しているため、球場にかけるお金もハンパなく、設備は充実している。よくよく観察すると、人工芝の精度もレジスタンスドームに引けを取らないくらい素晴らしかった。
規定の投球練習を終えると、アスレチックスの一番バッター、国分が左バッターボックスに入り、球場全体からアスレチックスファンの声援が鳴り響いた。
ネネはプレートを踏み、右手を脱力しながら、キャッチャー北条のサインを見つめた。
サインは内角高めへのストレート。一見すると危険なコースだが、試合前のミーティングで、国分は俊足で昨年の盗塁王だが長打力はない。危険なのは、むしろバントやゴロを打たれる低めだ、と確認していた。
また初球に自慢のストレートをズバンと投げ込んで、ドームに詰めかけたアスレチックスファンの度肝を抜くという狙いもあった。
ネネはサインに頷くと、ボールを右手に握りしめ、ゆっくりと振りかぶった。
その瞬間、カメラマン席から一斉にシャッター音が鳴り響き、観客はスマホのカメラをマウンドのネネに向けた。
女子プロ野球選手、羽柴寧々の記念すべき第一球だった。
左足を大きく上げ、右腕を引き絞ると、サイン通り、内角高めにストレートを投じた。糸を引くような速球が飛んでいく。
(よし! 指のかかりもいい!)
ネネがストレートに手応えを感じた時だった。バットを短く持った国分がストレートを強振した。
カキ──ン!
真芯で捉えた打球が大きくライト上空へ舞い上がった。
「オオオオオ!」
まさかの初球攻撃にドームが揺れた。ライト斎藤がフェンス際につくが、やがてあきらめて打球を見送った。
国分が打った打球はアスレチックスファンが占めるライトスタンド上段に飛び込んだ。
まさかまさかの先頭打者ホームランだった。スコアは6対1になる。
打球の行方を見届けたネネは呆然としていた。紅白戦、練習試合でもホームランを打たれたことはなかった。しかも、指のかかりは良く、最高のストレートを打たれた。それもホームランバッターではない国分に。
またキャッチャーの北条も同じく呆然としていた。なぜなら、国分の昨シーズンのホームラン数は0本。もっといえば、過去にホームランを打ったことがなく、これがプロ初ホームランだったからだ。
「た……タイムだ」
北条は早くもマウンドに向かう。
「ネネ、気にするなよ」
意気消沈しているネネに声を掛けた。
「北条さん、コースが甘かったですか?」
「いや、コースも球威も充分だった、アレは交通事故みたいなもんだ」
「交通事故……?」
「ああ、あんなのはマグレ当たりだ。恐らくストレートにヤマを張って、振り抜いたバットにボールが上手く当たっただけだ」
「そうですか……」
だが、ネネは納得いかない顔をしている。
(当たり前か……いきなり初球を、しかも渾身のストレートを非力なバッターにスタンドまで運ばれたんだからな……今まで積み重ねてきた自信が揺らいでもおかしくない……)
北条はネネの様子に一抹の不安を抱いた。
一方で、初回に六点取られて意気消沈していたアスレチックスベンチは、国分の一発で息を吹き返し、松尾は石川を笑いとばしていた。
「何が甘くない、だ。あの非力な国分がホームランだぞ。大したことないぜ、あのオンナ」
盛り上がるアスレチックスベンチ。だが、ホームランを打った当の本人の国分は、ひとり戸惑っていた。
それは、なぜネネの球が打てたのか自分でも分かっていなかったからだった。
初球、内角のストレートにヤマを張り、イチ、ニのサンで、思い切りバットを振り抜いたら真芯に当たった。
それがホームランの真相だった。北条の言う通り、交通事故のようなホームランだった。
しかし、流れというのは恐ろしい。
ネネは自分のストレートが、本当にプロ相手に通用するのかという疑問を持ち、逆にアスレチックスナインたちは、あの非力な国分がホームランを打ったのだから、羽柴寧々は全然大したことない、と感じるようになってしまい、自信が揺らいだネネは、続く二番と三番にフォアボールを連発し、瞬く間にノーアウト、一、二塁のピンチを招いてしまった。
「あらら……やっとマウンドに行けたと思ったら、大分、自信を失ってんな、アイツ」
「? どう言うことですか?」
ベンチ内で分析を始める今川監督に由紀が問いかけた。
「見ての通りだよ。いきなりホームランを打たれたから、アイツ、自分の球がプロに通じるかどうか不安になってやがる」
今川監督はヘラヘラしながら答えた。
「だ……だったら、マウンドに行って、ネネに声をかけて励ますくらいしなさいよ──!」
由紀は今川監督の首を絞めた。
「や、やめろ! これもアイツの通過儀礼だよ! 不安を自信に変えるためのな!」
「え……?」
由紀は首を絞める手を離す
「誰もが通る道なんだよ。本当に自分はプロの世界で通用するのか? やっていけるのか? ってな……そうして、自問自答を繰り返しながら、皆、プロ野球選手になっていくんだ」
今川監督は首を押さえながら、マウンドに集まっているネネと内野陣を見た。
マウンドには北条の他に、黒田、蜂須賀、明智、勇次郎と内野陣も集まっていた。
「どうしたネネ、急にコントロールを乱して。どこか調子でも悪いのか?」
北条が声をかける。
「い、いえ……そうじゃないんです」
「だったら、なぜ?」
「いきなりホームランを打たれたから、私、自分の投げる球に自信がなくなって……そうしたら、急にストライクゾーンに投げるのが怖くなってしまって……」
すると、ネネの言葉を聞いた黒田は笑い声を上げた。
「ちょ、ちょっと……黒田さん、人が落ち込んでるのに、そんなに笑わないでくださいよ……」
「ははは……悪い悪い、いや、どこか調子悪いと思ってたから心配したが、それなら安心だ」
「え……?」
「よく見ろよ、俺を含めてここにいるメンバーは皆、お前に抑えられているんだぜ」
「あ……」
「ああ悪い、勇次郎は対戦したことがないから別だな」
黒田が勇次郎を見て苦笑するが、黒田や皆が知らないだけで、実は勇次郎はネネから二回、三振を奪われている。その事を思い出した勇次郎はムスッとした顔をした。
「あのホームランは出会い頭だ。たまにはそんなこともあるぜ」
黒田はネネの頭をグラブでポンと叩く。
「俺たちを信じろ、お前の球は通用するぜ」
黒田が言うと、明智や蜂須賀も頷いた。
「ネネ、打たれてもいい。まだオープン戦だ。やり直しはきく。俺のサイン通り、全力で投げろ」
北条も微笑みながら言った。
「長いタイムでしたね」
北条がキャッチャーポジションに戻ると、四番バッターの城崎が声をかけてきた。
城崎純也、普段は五番に座るクラッチバッター。オネエ言葉が特徴的だが、個性派揃いのアスレチックスナインをまとめる頼れるキャプテンだ。
「お前を敬遠するか、話し合ってたんだよ」
北条は煙に巻く。
「あら、イケズですね。勝負してくださいよ」
城崎はホホホと笑い、北条はサインを出した。
そして、マウンド上のネネは北条が出したサインに驚いていた。
(え……? そ、そのコースですか!?)
(ああ、いいから投げてみろ)
北条は強い意思でミットを構える。
(わ、分かりました……)
ネネはセットポジションから『ど真ん中』にストレートを投じた。
「ストライク!」
ど真ん中に、ストレートがズバン! ときまるが、城崎はバットを振らずに見送っていた。しかし、久しぶりにストライクが入った。
「あら……ウチの国分は大したことないと話してたけど、確かに女の子が投げる球じゃないわね」
城崎が感心したように呟いた。
(……さすが、常勝アスレチックス軍団の主将だな。一球でネネの球の本質を見抜いたか。だが悪いな、お前にはネネの自信回復の生贄になってもらうぜ)
北条は再びサインを出すが、そのサインにネネは再び驚いた。
(北条さん……さっきと同じコースですよ?)
しかし、北条はサインを再び強い意思でミットを構え「いいからサイン通り投げろ。但し全力でだ」とメッセージを込めた。
(……分りました。全力ですね)
ネネはセットポジションから、左足を強く踏み込み、指先に力を込めてストレートを投じた。
(いけえ!)
弾丸のようなストレートが飛んでいく。
(な……また、ど真ん中あああ!?)
城崎は一瞬躊躇するが、すぐにスイングを始動させる。
とらえたあ! と城崎が確信した瞬間、ネネのストレートは唸りを上げホップした。
ガキン!
鈍い音をしてボールは真上に舞い上がった。どうやらボールの下を叩いたらしい。
「オーライ!」
北条はマスクを脱ぎ捨てると、高く上がったボールをキャッチした。
キャッチャーフライ、これでようやくワンアウトだ。
「あらら……あの娘、見た目とは違い、えげつない球を投げるわね」
城崎は苦笑しながらベンチに戻り、ようやくワンアウトを取ったネネは安堵の表情を浮かべていた。
(……だから、言っただろう、出会い頭だって)
ボールを返球しながら、北条も笑みを浮かべた。
(通用する。私のストレートはプロの男相手にも通用する)
ネネの不安は自信に変わった。




