第43話「一軍対二軍」⑩
「ありがとう。由紀さん、前田さん、毛利さん。私、もう大丈夫だよ」
ネネは笑顔を見せると、ゆっくりと立ち上がって今川監督の元へ向かった。
ネネの常人とは思えない回復ぶりに、由紀たちは氷が溶けた氷嚢を手に呆気に取られていた。
「お、お前、大丈夫なのかよ?」
戸惑う今川監督の前にネネは右手を差し出した。
「何だ?」
「握手するんでしょ? 手を出して下さい」
「あ、ああ……そうだったな……」
今川監督も右手を差し出す。
(……ハッタリだ。力が入るわけがない)
ネネは今川監督の右手を握ると「ハッ!」と力を入れた。
「い、痛てて! 痛え、痛え!」
思わず、今川監督が叫んだ。
「痛え! 離せ! 離せバカ! 分かった……分かったよ!」
ネネは右手を離した。ハアハア、と力を入れた反動で呼吸が荒いが顔は笑っている。
次いでベンチ内から、わあっ! と言う歓声が上がった。
「ね……ネネ──!」
由紀は思わずネネに抱きついた。そして、ネネの身体から熱が引いていることに気付いた。
「お──痛え、お前、何ちゅう握力してんだよ……」
「監督……演技じゃなくて、本当に痛いんですか?」
北条がそう尋ねると今川監督は「演技なんてするか! マジで痛かったんだよ!」と右手をプラプラさせた。
「分かったよ……約束だからな。行ってこい」
今川監督が左手をひらひらと振ると、ネネは「はい!」と返事をして帽子を被った。
「北条……」
今川監督は北条を呼んだ。
「回復したが、まだ安心はできん。一点でも取られたら試合を終わらせる。いいな?」
「はい」
北条は頷く。
その頃、一軍ベンチでは黒田が上機嫌な様子で明智と話していた。
「え? 本当ですか? 羽柴寧々がもう投げれないって」
「ああ」
黒田はニヤリと笑う。
「俺が打ち取られた回に、アイツが大量の汗をかいて足を引きずるのが見えた。アレは昔の俺と同じ症状だ」
黒田は過去の自分の体験談を話し出した。オーバーワークに近い猛練習を重ねた後に急に高熱が出て数日寝込んだことを。そして、その高熱が出る前の症状がネネの今の状態に似ているということを。
「だから、さっきの回にアイツの球数を増やすため、カット攻撃を仕掛けたんだ」
「そうなんですか? でもだからと言って、羽柴寧々が黒田さんと同じ状況とは限らないのでは……?」
「いいや、ウラは取ってある。あの女は高熱を出してダウンしている」
「……だったら、羽柴寧々は黒田さんと同じ『体質』を持ってるってことですか? 高熱が出た後、数日間寝込み、体調が回復する頃には、基礎体力が寝込む前より数倍パワーアップする体質を?」
「クク……残念ながら、それはないな」
黒田はほくそ笑んだ。
「俺の筋肉は特別だ。鍛えれば鍛えるほど、高熱と引き換えに強大な力をもたらす。だが、アイツは女……女がそんな『超回復する筋肉』を持ってるわけがない。いや下手したら、このまま再起不能かもしれんぞ」
黒田が楽しそうに話していると、二軍ベンチから選手が飛び出してきた。
(ん? おかしい……? もうピッチャーはいないはず……)
守りにつく二軍選手たちの様子を見て、黒田の顔色が変わった。
「頼むぞ、羽柴!」
「どんどん、打たせろ! バックの守りは任せろ!」
選手たちの激励を背にネネが現れたのだ。
(な、なぜだ……? 前田からの情報ではアイツはダウンしているはず……それと、あの状態になったら、数日間は高熱が出て動けなくなるはずだ。それが、なぜこんな短時間で回復を……?)
黒田は歯軋りをした。
(アイツの方が……アイツの方が俺より優れた筋肉を持っているというのか……? ふざけんじゃねえぞ、女のくせに……!)
黒田の苛立ちはピークに達し、ベンチを蹴り飛ばした。
「お前ら! あんなオンナひとり打ち崩せなくて何がプロだ!? 相手はダウン寸前だ! 早く打ち崩してこい!」
「おい、土田コーチ!」
「は、はい!」
土田は明らかに歳下の黒田にビビり、直立不動になった。
「総攻撃だ! この回、総攻撃を仕掛けて、あの女をKOしろ!」
「は、はいいいいい!」
土田コーチは慌てて、代打を準備しだした。
黒田の指示を受けた一軍は代打を送ってきた。
代打「島優作」、背番号「5」、歳は30歳。
過去にアキレス腱断裂の大怪我を負い、守備に付くことはできないが、バッティングは天才的で、ここ一番の代打の切り札だ。
その島は、フルカウントからのネネのストレートをライト前に運ぶ。
次のバッターは一番に戻り斎藤だ。
(この人、地味に嫌なバッティングをするんだよなあ……)
ネネが警戒したのも、束の間、斎藤は初球をセンター前へ運ぶ。
これでノーアウトランナー、一、二塁になるが、マウンド上のネネは腕を振り、おかしいと言った表情をしている。
「タイム!」
北条はタイムをかけてマウンドへ向かった。
「ネネ、どうした?」
「北条さん……何か身体が変なんです。熱は下がったんですけど、今度は身体がうまく動かないんです……」
「どういうことだ?」
「うまく言えないけど、力を制御できないんです。力が入りすぎるというか……」
ネネの話を聞いた北条はあることを思い出した。それはかつての黒田のことだ。
以前、黒田は話していた。身体を極限まで追い込むと、高熱が出て数日間寝込む。だが、熱が引くと、身体能力が向上することがあると……。
黒田はこの現象を、身体を極限まで追い込んだために起こる『異常なまでの新陳代謝』と言っていた。
(まさか、同じことがネネの身体に起こっているのか?)
「北条さん……?」
「あ、ああ……悪いネネ、それなら次のバッターにはコントロールを気にせずに全力で投げてみろ。フォアボールでも構わん」
「は、はい……分かりました」
北条はポジションに戻る際、推測した。
(俺の予想が正しければ、ネネの肉体は一気に一般女性の身体からアスリートの肉体へと変貌しようとしている。今は急激な肉体の変化に戸惑っているが、それに慣れれば……)
マスクを被り直す、
(アイツの球は更に進化を遂げるはずだ)
タイムが終わり、迎えるは二番バッター。
ネネは北条のアドバイス通り、コントロールを気にせず全力投球する。
しかし、ボール、ボール、ボールとあっという間にスリーボールになってしまった。
だが、ネネは自分の身体がようやく、思うように動くことを実感していた。
(……何だろう? この感覚? 熱が出る前より身体が軽く、力もみなぎってくる)
ネネは戸惑いながらも四球目を投じたが、僅かに外れてボール。
フォアボールとなり、これでノーアウト満塁、迎えるバッターはクリーンナップ三番の蜂須賀だ。
このピンチに、北条はじめ内野陣が全員マウンドに集まった。しかし、当のネネは落ち着いていた。
「ネネ、どうだ調子は?」
「は、はい……大分、慣れてきました、やっと頭と身体が一致したというか……」
北条以外は意味が分からないと言う顔をしたので、北条はネネに起きている身体の変化を説明した
「な……!? じゃあ、羽柴の高熱は身体を酷使したために起こった現象であって、異常な新陳代謝により、身体能力がアップしたっていうんですか!?」
全員が絶句する。そんなことあるのか……? と。
「信じるにしろ、信じないにしろ、事実だ」
北条が断言する。
勇次郎はネネをジロジロと見た。ごく普通の女性の体型だ。しかし、その身体の内部では異常な新陳代謝が進み、この短時間で肉体が進化しているという。
(何だそりゃ? 普通はあり得ないぞ。バケモンか? コイツは……)
話し合いが終わり、皆が元の守備位置に戻ると、ネネはボールを手に馴染ませた。
(最初は戸惑ったけど、大分慣れてきたわ。頼むから言うこと聞いてね、私の身体……)
一方、このノーアウト満塁のチャンスにバッターの蜂須賀は終始冷静だった。呼吸を整えて打席に入る。狙いはストレートに絞った
サイン交換を終えたネネはセットポジションに構えると、左足を大きく踏み出した。
(あ……何か、いい感じ……)
ネネは自分の身体が思い通りに動くのを感じた。右腕をしならせ、指で強烈にボールを弾く。
(よしきた! ストレート!)
ネネのストレートに蜂須賀は反応する。コースは内角低め、バットを強振する。
しかし、ネネの投じたストレートはホップして北条のミットに飛び込んだ。
「ストライク!」
審判のコールが響き、蜂須賀は呆然とした。
(な、何だ? 今の球は? ボールが手元で伸びてホップしたぞ?)
「ネネ! ナイスボールだ!」
北条が返球したボールを受け取ると、ネネは笑みを浮かべた。




