第40話「一軍対二軍」⑦
三回の表、一軍の攻撃、ツーアウト二、三塁で五番黒田を迎えたが、ネネは黒田をピッチャーフライに仕留め、ピンチを脱する。
ネネが小走りでベンチに戻ると、今川監督が笑顔で出迎えた。
「でかした!」
「ネネ、すご──い!」
由紀も満面の笑みだ。
えへへ……。照れ笑いするネネだったが、その時、ベンチの一番奥に前田が大きな身体を屈めて座っているのに気付いた。
「前田さん! 肘は大丈夫だったの!?」
ネネが心配そうに尋ねると、前田は申し訳なさそうな顔でペコリと頭を下げた。
「医者の見立てでは、特に大きな怪我ではないみたい。ただ本人が痛がってるなら、病院でしっかり検査したほうがいいって……」
付き添った由紀が説明する。
「そっか……良かった」
ネネはホッとした顔を見せた。
「前田、このまま病院に向かっていいぞ」
今川監督が前田に話しかける。
「あ……監督、大丈夫です。僕のせいで皆に迷惑をかけているのだから、帰るわけにはいきません。痛みも落ち着いてきたので、このまま試合を見させてください」
前田は病院を拒否する。
「そうか……なら好きにすればいいが、痛いようなら、いつでも帰れよ」
今川監督がベンチ前に戻る。その時、ふと由紀はあるモノに気付いた。前田の手元にスマホが見えたのだ。
通常、試合中はスマホの使用は禁じられている。それなのになぜ……?
だが、試合が気になったので、それ以上の詮索はやめて、由紀も試合観戦に戻った。
その後、試合は硬直した。
五回まで終わって大きな動きはなし。勇次郎は歩かされ、俊足の毛利は徹底的にマークされ、塁に出ることが叶わなかった。
また一軍も、ネネのストレートと時折混ぜるドロップの前に三者凡退を繰り返した。
そして回は進み、六回に入る。一軍の攻撃は三番蜂須賀からの好打順だ。
蜂須賀がバッターボックスに入る前に、黒田が蜂須賀と明智に何かを耳打ちしており、話が終わると蜂須賀は右バッターボックスに入った。
(蜂須賀さんは足が速いから、できれば塁には出したくないなあ……)
ネネは振りかぶる。
すると、モーションの途中で、蜂須賀はバントの構えをした。ネネはその動きに動揺し、ボールは外れてワンボールとなる。
(気にするな! バントはフェイクだ!)
北条はボールを返球する。
(まずいな……ネネには圧倒的に実戦経験が少ない。こういう揺さぶりに耐性がないため、ピッチングに影響がでないといいが……)
気を取り直したネネは、二球目を投げようとモーションに入るが、蜂須賀は再びバントの構えをした。
ネネの投げたボールはまた大きく外れて、カウント2-0に変わる。
バントはネネを揺さぶるためのフェイクだが、頭では分かっていても気になって集中できなかった。
(……ちょっとリズムを変えたいな)
北条はドロップのサインを出した。蜂須賀は依然バントの構えだ。
ネネはサインに頷きドロップを投じるが、蜂須賀はバットを引いてヒッティングに切り替えた。
カキン!
ドロップの落ち際を叩いたボールは快音を残すと、三遊間を抜けていった。
蜂須賀が出塁したので、ノーアウト一塁となる。一番出してはいけない俊足の先頭打者を塁に出してしまった。
その光景を見て、ベンチの黒田が笑みを浮かべた。
(いくら凄い球を放っても、所詮は女。プロの怖さをとくと思い知れ!)
そして、四番の明智を迎えた。
ランナーの蜂須賀は、一塁ベース上でネネの動きをじっと観察した。
(球は速いが、マウンド捌きは素人同然。モーションを盗むのも難しくはない。さあて、もっと混乱してもらうか)
蜂須賀は打席に立つ明智にサインを出した。
ネネは一塁へ牽制を繰り返す。
北条から「バッター集中」のサインが出るが、ランナー蜂須賀の足が気になって仕方ない。
ネネは何とか気を取り直して、セットポジションから第一球を投げる……と、同時に明智がバントの構えをした。
(え……!?)
ネネの手元が狂い、ボールは大きく外れる。明智はバットを引いてニヤッと笑う。
「ヘイヘイ、ピッチャー考えてるよ! 対応できてないよ!」
一軍ベンチからヤジが飛ぶ。黒田はネクストバッターサークルでニヤニヤしている。
(くっ……コイツらネネをとことん揺さぶるつもりだな)
北条は返球しながら対応を考え、ネネは落ち着こうとマウンドで深呼吸をしている。
(ネネは平静を装っているが、頭はパニックだろう……)
北条はどうすればネネが落ち着くか、頭脳をフル回転させた。
グラウンドでネネが動揺している中、ベンチでは今川監督が腕組みして戦況を見つめていた。
(育成サバイバルゲームの時は、ここまでの揺さぶりはなかった。いくらホップするストレートという武器があっても、それだけではプロの世界では通用しない。しかも、男性より力が劣るお前がプロの世界で活躍するには、男性よりも多くの壁を乗り越えなければいけない。今日の試合はその壁のひとつだ。頑張れ、ネネ!)
(一塁ランナーは俺が抑える。お前はバッターに集中しろ!)
北条はストレートのサインを出し、外角に構えると、無言のメッセージを送った。
ネネは北条の意図を汲み、大きく息を吐き出すとセットポジションからモーションに入った。だが、その瞬間、一塁ランナーの蜂須賀がスタートをきった。
ネネは走り出したランナーに気をとられて、またコントロールが乱れる。審判の頭上を超える大暴投だ。
ガシャン! と激しい音を立てて、ボールがバックネットに当たる。
この間に蜂須賀は俊足を飛ばし、一気に三塁へ到達、これでノーアウト三塁となった。
「た、タイムだ!」
堪らず北条がタイムをかけて、マウンドに駆け寄った。他の内野陣もマウンドに集まる。
蜂須賀と明智に揺さぶられ、ネネは完全に我を失っている。顔面は蒼白だ。
(どうしよう、どうしよう……私のミスでノーアウト三塁。これ以上、点はやれないのに、相手が何をしてくるのか不安で気になって投げれないよ………どうしよう、どうしよう…)
「ネネ、ネネ! 落ち着け!」
(北条さんが声かけしてくれる。でも、ダメ、頭では分かっていても身体が言うことを聞かないの……)
ネネは目をギュッとつむった。完全にパニックに陥っている。
(ククク、意外と脆かったな)
ネクストバッターサークルで、黒田がほくそ笑んだ。その時だった──。
ボカッ!
突然、勇次郎がミットを手に持ち、ネネの頭をポカリと叩いた。
あまりの突飛な行動に、グラウンドとベンチの全員が呆気にとられた。
いきなり頭を殴られたネネは勇次郎を睨んだ。
「い……痛ったあ〜! いきなり、何すんのよ!」
「目が覚めたか? この化け猫」
「だ……誰が化け猫よ!? 失礼ね!」
「……お前、何を勘違いしてんだ」
「は!?」
勇次郎は腕組みをしてため息をついた。
「お前なんか、全っ然、プロのレベルじゃねえよ。それなのに、一丁前にランナー警戒したり、バント警戒したり、色気付いてんじゃねえよ」
「あ……」
ネネは急速に頭が冷えていくのを感じた。
「いきなり、アレもコレもできるわけないだろう? まずは、自分にできることだけをしっかりやれよ」
(そ、そうだ……私は何を勘違いしてたんだ。私はまだまだプロでやっていけるレベルじゃない。私のやれることなんて限られてる。今はそれをひとつひとつ、それをこなしていくしかないじゃないか……)
勇次郎に言われて、ネネは目が覚めた気がした。
「大丈夫か!? ネネ!」
北条が心配するが、ネネは顔を上げて微笑んだ。
「はい! ゴメンなさい! もう大丈夫です!」
その声にもう脅えはない。いつものネネが帰ってきた。
「今の私にできることをします!」
ネネが立ち直ったので、内野陣はポジションに戻った。
(しかし、織田のヤツ、よくネネを立ち直らせたモンだな……)
サードのポジションに付く勇次郎を見て、北条は感心した。
(案外、あのふたり、波長が合うかもな)
そして、キャッチャーマスクを被り直すとクスリと笑った。
「……何を話したか分かんないですけど、所詮は素人のオンナ。アイツはもう終わりですよ」
打席に立つ明智が北条に話しかけてきた。
「普通の女ならな。だが残念だったな、アイツは普通の女じゃないぞ」
(ふ──ん……評価が高いもんだな。じゃあ、もっと混乱してもらうか……)
明智は三度、バントの構えをして、三塁ランナーの蜂須賀はリードを大きく広げた。
(ネネ、惑わされるな。俺を信じろ、バッターに集中しろ)
北条がサインを出す。
「ヘイヘイ! ピッチャー、ボロボロだよ!」
一軍ベンチから野次が飛ぶ。しかし、ネネは先程とはうって変わって動じない。
(勇次郎の言う通りだ。自分がやれることをやればいい。今の自分がやれること……それは、北条さんを信じてミット目掛けて投げることだ!)
素早いモーションから、北条のミットだけを見て、ネネはストレートを投じた。
(いけえ!)
外角低め……アウトローに、ズバン! とストレートが決まった。
野次を飛ばしていた一軍ベンチは静まり返った。
(……やればできるじゃね─か)
サードの守備につく勇次郎は腕組みをして笑みを浮かべていた。




