第30話「父と娘」中編
北条は夢を見ていた。
九年前、その日はレジスタンスの首位攻防の三連戦の初戦。その試合を勝利で飾り、喜びに沸くロッカールームに大慌てで職員が入ってきた。
「北条さん、北条さん……!」
「どうした?」
「北条さん……落ち着いて聞いてください。娘さんが……娘さんが……!」
パチッ、夢はそこで覚めた。
冷たいフローリングの床の感触。居酒屋で飲みすぎて、何とか部屋までたどり着いたはいいが、そのまま倒れ込むように寝てしまったらしい。
そして、また「あの日」の夢を見た。全てを失くしたあの日の夢を……。
北条は悪夢を振り払うように、よろよろと冷蔵庫を開けてペットボトルの水を取り出すと、一気に飲み干した。
そして、キャンプ二日目の朝、ネネは由紀の運転する車で練習場に着いた。
「ねえ、ネネ、今日も北条さんに話しかけてみるの?」
「う、うん……今川監督からも言われてるし、もうちょっと頑張って話してみるよ」
ネネは微笑みながら車を降りた。
球場に向かうユニフォーム姿のネネを見つめながら、由紀は昨日の父との電話を思い出していた。
……九年前、北条は選手として最盛期を迎えていた。
リードは冴え、レジスタンス投手陣を引っ張り、レジスタンスは十年ぶりの優勝に向けて快進撃を続けていた。
北条には当時五歳になるひとり娘がいた。名前は萌音。
そんなある日、萌音は居眠り運転のトラックに轢かれるという事故に遭った。
当然、父である北条の元に連絡が入るはずが、当時のレジスタンスの監督はそのことを伝えなかった。
なぜなら、その事故があったのは、首位攻防初戦の試合中。監督は北条離脱による戦力低下を防ぐため、故意に事故の連絡を遅らせたのだ。
北条が事故を知ったのは、試合終了後のロッカールームだった。
慌てて病院に向かった北条が見たのは、息を引き取り冷たくなった萌音の姿……。
北条は萌音の亡き骸にしがみつき号泣した。そして、娘の死に立ち会えず、野球をしていた自分を責めた。
車を停めた由紀はスタンドに座り、誰もいないグラウンドを眺めた。
先程の北条の話には続きがある。誰も知らない真相を父が教えてくれた。
北条は故意に事故の事を伝えなかったことを知り、当時の監督を殴った。
監督殴打事件は球団により揉み消されたが、代わりに北条は干されることになり、長い長い二軍暮らしが始まった。
そして、その日以来、北条は酒に溺れるようになった。妻との折り合いも悪くなり、妻は家を出ていった。
そのシーズン、北条を失ったレジスタンスは失速し、最終順位は四位に終わった。
当時の球団は酷かった、と父は言った。また、監督を殴ったのに、解雇されなかったのは北条の能力の高さを物語っている。
北条の頭の中には、当時の全球団の打者のデータが全部入っていたらしい。
北条のことは他球団も高く評価していた。球団はトレードや自由契約で北条のデータが他球団に流出するのを防ぐため、故意に二軍に幽閉し、飼い殺しにしたのだ。
(何てひどいことを……)
父から話を聞いた由紀は絶句した。
北条は二軍で死んだように生き続けた。球団に所属していることで最低賃金は得られると、割り切っていたようだ。
しかし、ここに来て風向きが変わった。
当時、北条の頭に入っていた他球団の主力バッターは球界を去り、北条も衰えたため、もう北条のデータを恐れることはなくなった。
本来であれば、昨シーズン中に北条は解雇されるはずであったが、今川監督が白紙に戻したという。
但し、球団側も一年の期限を設けた。そのため、北条の自由契約は時間の問題だ、という話だった。
北条のあまりに過酷な過去を知り、ネネが同情や躊躇することを恐れて、由紀はネネに北条の過去を話すことは止めた。
しかし、そんな北条とネネを組ませることに何か意味があるのだろうか?
由紀には今川監督の真意が理解できなかった。
そして、グラウンドでは、一番乗りしたネネが白い息を吐きながら身体を動かしていた。
ふとベンチに目をやると、昨日の場所にまた北条が寝ているのが見えた。
(よく分からない人だなあ……また飲んでるみたいだけど、球場には一番乗りしている。全くやる気がないわけじゃないのかな?)
ネネは北条に近づいた。昨日と同じく、グウグウとイビキを立てて寝ている。
(本当に何で今川監督はこの人と組むように言ったんだろう?)
ネネは疑問を感じながらも、北条の名前を小声で呼んだ。
「お……お──い……北条さ─ん、起きてくださ─い、朝ですよ──……」
その頃、北条はまた幸せな頃の夢を見ていた。
家で寝ていると、娘の萌音が腕を引っ張る。
「おと─さん、キャッチボールしよ──よ!」
妻が洗濯を干しながら笑う。
「萌音ちゃん、お父さんは疲れてるから、もう少し寝かせてあげて」
幸せだった頃の思い出だ。
「ねえ、おと─さん、おと─さん……」
(萌音の声が聞こえる……いや、これは夢だ。気のせいだ。萌音はもうこの世にはいない……)
「……さん、……さん」
(でも萌音が俺を呼んでいる。そんなバカな……)
北条はガバッと起き上がった。
「キ……キャアアアア!」
突然、起き上がった北条にネネはびっくりして、後ろに飛び去った。
「び、びっくりしたあ……」
びっくりしたのは北条も同じだった。
(萌音の声だと思ったら、コイツの声だったのか……)
「……誰だ、お前?」
北条は頭を押さえながらネネを見た。
「は、羽柴寧々です。てか、昨日も挨拶してると思うんですけど……」
ネネは少し不機嫌そうに答えた。
「ああ、そういえば、そうだったな……」
北条は頭をガリガリとかいた。
「で? その羽柴とやらが、俺みたいな終わったキャッチャーに何の用なんだ?」
「あ、あの……私、ピッチャーなんです。それで、今川監督から言われたんです。北条さんと組め、って」
(今川監督? タケさんから?)
今川の名前を聞いた北条は即座に反応した。今川監督には現役時代、可愛がってもらった。監督を殴ったとき、真っ先にかばってくれたのも今川監督だった。
(コイツと組めって? あの人がそう言ったってことは、俺にコイツの面倒を見ろっていうことだ。昔からあの人は、見どころがあるピッチャーの教育を俺に任せてきた。しかし、今回のコイツはない。だってコイツは女だぜ……)
北条はバカにしたように笑った。
「ははっ、女のくせにピッチャーだって?」
しかし、ネネは気にせずに、ニコニコと笑いながら答えた。
「はい。私、女ですけど、ピッチャーなんです」
(は? 何がピッチャーだ……女のくせに)
北条は段々と腹が立ってきた。
(タケさん……アンタ一体、何を考えてるんだ……?)
「羽柴寧々……とか言いやがったな?」
「はい!」
北条は枕代わりにしていたキャッチャーミットを手に持った。
「そんなにお望みなら、お前の球を受けてやるよ」
北条はゆっくりと立ち上がった。




