第3話「運命のドラフト会議」前編
石田が目を覚ますと、そこは聖峰高校内の保健室のベッドの上だった。
(な、何が起きたんだよ……?)
身体を起こすと、頭に痛みが走り、チームメイトたちが自分の名前を呼ぶのが聞こえた。
「雅治! 大丈夫!?」
目の前にネネの心配する顔が見えた。
「あ、あれ……? 何で俺、ここに……?」
「私の投げたボールがキャッチャーマスクに当たって、その衝撃で後ろに倒れて気を失ってたの……」
ネネが申し訳なさそうに説明した。
「え? それじゃあ、試合はどうなったんだ……?」
「雅治が倒れたから、人数がいなくてコールドゲームに……」
「あ! でも凄かったんですよ、羽柴先輩! あの織田勇次郎から三振を奪ったんですから!」
「え!?」
後輩が会話に割りこんできた。石田が驚くとネネは後輩を睨んだ。
「……だから、アレは偶然だって言ってるでしょ。高めのボール球を相手が油断して振ってくれたって」
「それでも三振は三振っすよ! 羽柴先輩、マジすげえっす!」
後輩たちはやんややんやと騒いでおり、それをネネがたしなめていた。
だが、石田はネネの言葉に違和感を覚えていた。
(高めのボール球……?)
先程のネネのボールの軌道を思い浮かべた。
(高め……じゃなかったぞ。ネネの投げた球はど真ん中だった……)
石田がぼんやりしていると、周りからネネを茶化す声が上がった。
「いや──、でも、羽柴先輩、本当に凄いっすよ! このまま男のフリして、投げてくださいよ。これなら甲子園も夢じゃないっすよ!」
「そうそう! 羽柴先輩、胸がないから女性に見えないし、バレっこないですよ!」
「な……何、失礼なこと言ってんのよ! アンタたち! 今日の反省も込めて、これから帰って猛練習よ!」
ネネが怒る声が聞こえて、後輩たちからは「え──!?」という悲鳴が上がった。
石田はその光景を呆然と見ていた。
「雅治、どうしたのよ? ぼ─っとしちゃって」
ネネの声で石田ははっと我に返り、現実に引き戻された。五月の風景は消え失せて、目の前には制服姿のネネと清々しい秋晴れの空が広がっていた。
「あ、ああ……何でもない。ちょっと考え事をしててな」
「変なの」
ネネはスタスタと歩いて行く。石田は足を止めて、前を歩くネネの後ろ姿を見つめた。
聖峰三軍との練習試合で、結局最後までネネが女だということはバレなかった。
また、織田勇次郎の三振も怪我明けということで特に話題にもならず、織田勇次郎を三振に仕留めた謎のピッチャーは皆の記憶から忘れられた。
だが、石田はあの日、ネネの投げたボールの残像が頭から離れなかった。
確かに一瞬ボールから目を切ったが、ミットはボールの軌道上にあったはずだ。それがなぜミットにかすりもせずにキャッチャーマスクに当たったのか?
その答えはひとつしかない。
ネネの投げた球は浮いた。つまり『ホップ』したのだ。
物理上、ボールがホップすることはあり得ない。
しかし、ネネの投げたボールは確かにホップした。そうでなければ、ど真ん中の球を捕り損なうわけがない。
そして、自分以外にもボールがホップするのを見た人間はもうひとりいる。それは……。
織田勇次郎だ。
奴はど真ん中のストレートを完璧にとらえたと思っていたが、ボールはホップしてバットは空を切った。
あれほどのバッターがど真ん中のストレートを空振りしたのは、ボールが想定外の動き……ホップしたからに違いない。
石田は再び前を歩くネネの髪を見つめた。
(あの日、ネネは髪を切って、女であることを隠しマウンドへ立った。ネネをそこまで追い込んだのは、俺たちが不甲斐なかったからだ……)
あの日のことを思い出すと、胸が痛くなる。
「あ、雅治、結構時間ないよ。急ごう」
ネネは早足で学校へ向かっていく。石田はそんなネネを見ながら、あることを考えていた。
(あの練習試合のあと、織田勇次郎は更に猛練習を重ねたと聞く。そして、この夏甲子園で活躍し、一躍高校生ナンバーワンのスラッガーに座に上り詰め、ドラフトの目玉となった。……それならネネは? その織田勇次郎から三振を奪ったネネは? もしかしたら、ネネはとてつもない力を持っているのかもしれない……あのホップするストレート。あの球を自由自在に投げることができたら、ネネもプロの世界で……)
(いやいやいや!)
石田は首を振った。
(ネネがプロ野球選手? 馬鹿げてる。あまりに夢物語だ。それに女性がプロ世界選手になるなんて、前例がない……)
石田は自分に言い聞かせるように、心の中でそっと呟くと、ネネの後を追いかけていった。
そして、午後三時。注目のドラフト会議がスタートした。
聖峰高校では、今年のドラフト会議の目玉である織田勇次郎が、どの球団に指名されるのか、その結果を待っていた。
「第一回選択希望選手……」
各球団が一位指名の選手の名前を読み上げていく。その中には当然のように織田勇次郎の名前があった。
セリーグでは、まずは球界の盟主「東京キングダム」、そして地元名古屋の「東海レッドソックス」が指名。
そして、パリーグでは昨年の日本シリーズの覇者「福岡アスレチックス」、それから、高校生の育成には定評がある「北海道ブレイブハーツ」が織田勇次郎を一位指名した。
だが、セリーグからはもう一球団、全くノーマークの球団が織田勇次郎を指名した。
その球団とは『大阪レジスタンス』だった。
『大阪レジスタンス』
大阪に本拠地を置き、プロ野球創成期にキングダムと同時に設立された歴史ある球団。
過去にはキングダムとの試合は伝統の一戦と言われていたが、それも今や遠い昔話。レジスタンスはここ20年近く優勝はなく、また10年連続Bクラス、三年連続最下位、と悲惨な成績を残している。
それにしても、レジスタンスがドラフトで目玉選手を指名するのは予想外の出来事で、マスコミ各社もざわめき合っていた。
いつもは目玉選手を避け、冒険をしないドラフト戦略がウリなのに、今年は競合上等! とばかりに織田勇次郎獲りに参戦したからだ。
そんなレジスタンスが強気の指名を行なったのには理由があった。
それは、来季からレジスタンスの監督に就任する「今川猛」の強い意向があったからだ。
「今川猛」、三十九歳、元大阪レジスタンスの内野手。
高校卒業後にレジスタンスに入団し、勝負強いバッティングで一年目からレギュラーに定着。
その年は新人王、その後、打点王二回、ホームラン王を一回獲得。「闘将」の異名を取り、レジスタンスを代表する選手だった。
晩年はケガに悩まされるも、代打の切り札として活躍。二年前に引退したが、一年間の浪人生活を経て、レジスタンス復活の切り札として、三十九歳の若さで来季のレジスタンス監督に就任した。
性格は豪快で親分肌、見た目は一歩間違えればチンピラ風。今日もド派手なスーツに金のネックレスという格好でドラフト会議に臨んでいた。
全球団の一位指名が終わり、最終的に織田勇次郎を指名したのは大阪レジスタンスを含めた計五球団だった。
指名が重複した時は、くじ引きで獲得指名権を決めることになる。
織田勇次郎を一位指名した五球団の代表がモニターの前に整列した。監督、球団社長、GM……と、くじを引く人は自由だ。
レジスタンスは今川監督が代表として立った。
五人の前に大きな白い箱が置かれた。箱の上部には穴が空いていて、穴から手を入れて、中にある封筒を取り出す。
封筒の中には白い紙が入っており、そこに「交渉権獲得」の赤いハンコがあれば当たりで、当たりくじを引いた球団が一位指名した選手の入団交渉権を得られるシステムになっている。
くじを引く順番は今季のチームの順位が反映される。レジスタンスは最下位であったため、一番最初にくじを引くことができる。
今川監督はスーツの袖をまくると、白い箱の中に勢いよく腕を突っ込み一番上の封筒を取った。続いて二人目、三人目……と順に封筒を取っていく。
くじ引きの様子はテレビで生放送されており、五人がくじを引く姿を、聖峰高校にいる織田勇次郎は固唾を飲んで見守っていた。
やがて、球団を代表する五人全員が封筒を取り終わると、司会者の声に促されて一斉に開封した。
ひとり……またひとりと自分の開けた封筒の中身が真っ白と分かると、顔を見合わせた。
誰が当たりくじだ……? と各自、他球団の代表の挙動に注目した。
すると、突然ひとりの男がドヤ顔で高々と紙を頭上に掲げた。
その紙には赤字で「交渉権獲得」という文字が書かれていた。
織田勇次郎の当たりくじを引いたのは、何と大阪レジスタンスの今川監督だった。
会場全体はざわめき「織田勇次郎はレジスタンスだ!」の声が響いた。
一方でレジスタンスが交渉権を得た映像を見た勇次郎は、あからさまに不快な表情を見せた。
ドラフトの目玉選手である織田勇次郎の結果を報道するために、高校の応接室にはテレビ局のディレクターやカメラマンたちが同席していた。
ディレクターは織田勇次郎にドラフトの感想を尋ねようとしたが、同じく同席していた野球部の監督がそれを遮った。
織田勇次郎は監督に付き添われ、無言で席を立った。表情には出さなかったが、苛立っているのは明白であった。
「かわいそうに。よりによって、レジスタンスが優先交渉権を獲得するなんてな……」
ディレクターとカメラマンは顔を見合わせてそう呟いた。
こうして波乱のドラフト会議は幕を閉じた。
そして、その日の夜、羽柴家ではリビングでネネの父親がビールを飲み、テレビのニュースを見ながら、Tレックスが織田勇次郎のくじを外したことにブツブツ文句を言っていた。
ニュースでは、織田勇次郎はレジスタンスの入団を拒否の構え、と報じている。
「全くレジスタンスは余計なことをして……レジスタンスに入団したい選手なんているわけないじゃないか」
「そんなに、レジスタンスはひどい球団なの?」
ビールを口にする父親にネネが尋ねた。
「ああ……三年連続で最下位、しかも10年連続Bクラスだ。選手たちのモチベーションも低く、とても野球に集中できる環境じゃないだろう」
父親は渋い顔をした。
「でもさ、プロ野球選手になれるんだよ。だったら、どの球団でもいいと思うんだけど……」
「まあな……でも織田くんには絶対にレジスタンスに入団したくない理由があるんだろう」
父親はそう言うと、グラスにビールを注いだ。
(プロ野球かあ……)
テレビのニュースを見ながら、ネネは子供の頃を思い出していた。
子供の頃、誰もが無邪気に夢を見ていた頃、ネネの将来の夢は、もちろんプロ野球選手だった。
(でもいつからだろう。その夢を見なくなったのは?)
中学に入ると身長は止まり、体格も男と差が出るようになり、力もかなわなくなった。シニアでもピッチャーをはく奪され、男と女の壁を痛感することになった。
そして、いつしかプロ野球選手の夢を見ることを止めた。
……それなのに、最近また夢を見るようになった。
それは、あの織田勇次郎との対決がきっかけだった。
あの日……あの練習試合の日。ネネはマウンド上で、かつてない興奮と高揚感を感じていた。
織田勇次郎という超高校級のバッターを相手にして、全身の血液が沸騰するかのようだった。恐怖よりも強打者に投げる喜びが勝っていた。
三球目のストレートを投じる時、まともに投げていては打たれると思い、石投げの投げ方を意識して投げた。石を投げるときと同じようにボールを真上から強く弾いた。
ボールはど真ん中へ飛び、一瞬、打たれた! と思ったが、マウンドから見ていて、自分の投げたボールが浮いたように見えた。
そして……その球を織田勇次郎は空振りした。
ネネは目を閉じた。あの日の光景と指の感触は、今でも鮮明に思い出すことができる。
(私が投げた球をドラフト一位の選手が空振りした。あのストレートを投げることができたなら、もしかしたら……もしかしたら、私もプロの世界で……)
(いやいやいや!)
ネネはその考えを即座に打ち消した。
(やれるわけがない……女の私がプロの世界でなんて絶対に無理だ……)
1991年、日本プロ野球機構(NPB)は女子のプロ野球選手の参加を正式に許可した。
つまり実力さえあれば、女子でもプロ野球選手になれて、男子に混ざり試合に出れるのだ。
だが、現在に至るまで女子プロ野球選手がNPBでプレイしたという記録はない。
ルールでは認められているのだが、そこには性別、特に基礎体力というハンデが立ちはだかっている。男性と女性の間には、どうしても越えることができない大きな壁が立ちはだかっているのだ。
ネネはソファーから立ち上がり、自分の部屋に戻ろうとした。すると……。
ピンポーン。
突然、玄関のチャイムの音が鳴った。
「誰かしら? こんな時間に……」
台所で洗い物をしていた母親が玄関に歩いていった。
「……はい」
母親がドアを開けると、そこにはスーツを着た体格の良い中年の男性が立っていて名刺を差し出した。
男が差し出した名刺には「大阪レジスタンス」の名前が載っていた。
「夜分遅くに申し訳ございません。私、大阪レジスタンスの東海地区のスカウトを担当している伊藤と申します。羽柴寧々さんは、ご在宅でしょうか?」
「は、はあ?」
予想外の訪問者に母親は呆気にとられた。