第27話「ネネの自主トレ」
由紀の家に泊まった翌日、ネネはコーヒーの匂いで目が覚めた。
起きてキッチンに行くと、テーブルの上には、和食と洋食が所狭しと並び、傍にはコーヒーと紅茶のポットがあった。
(わあ……朝から豪華なご飯……!)
ネネが目を輝かせていると、エプロン姿の由紀が現れた。
「おはようネネ、よく寝れた? 朝は和食か洋食派か分からないから、両方作っちゃった……好きな方、食べて」
その言葉を聞いたネネはニッコリと笑った。
「私、和食も洋食も好きだから、両方いただきます」
「あ──、美味しかった。ごちそうさま」
ネネは大量にあった朝ごはんをペロリと平らげてしまった。そんな姿を見た由紀はネネの底知れぬ食欲に改めて感嘆した。
「昨日も思ったけど、貴女、本当によく食べるわね……男性並の食事量だわ……」
「由紀さんの料理が美味しいからだよ」
ネネはニコニコして、コーヒーと紅茶に砂糖とミルクをいっぱい入れて飲んでいる。
(不思議な娘だなあ……)
幸せそうな顔でコーヒーと紅茶を飲むネネを見て、由紀は笑みを浮かべた。
(出会ったばかりなのに、愛嬌があるから昔からの付き合いのように思える。史上初の女子プロ野球選手っていうから、我が強くて気も強いと思ってたけど、会ってみたら全然違う印象だわ……)
由紀はネネを優しい目で見つめて微笑んだ。
朝食を食べ終わると、ネネは運動ができる服に着替えて、野球道具をまとめた。
プロ野球はペナントレースと呼ばれる公式戦が終わると二月の「キャンプ」と呼ばれる全体練習までは休みに入る。
だが、休みといっても、ずっと休んでいては身体が鈍ってしまう。そのため、自分たちで自主的にトレーニングし、二月のキャンプですぐに動けるようにするのだ。これを通称、自主トレという。
そして、それはネネにとっても例外ではなく、育成選手から支配下登録選手になった以上、次は二軍から一軍に上がるためキャンプでは首脳陣にアピールしなくてはいけない。
そのため球団に頼み、キャンプまでは自主トレのため、レジスタンスの二軍練習場を使用する許可をもらっていた。
ネネは由紀の運転で二軍練習場に向かう。
「ゴメンね、由紀さん、運転手させちゃって」
「何言ってるのよ、私はネネのお世話係なんだから、全然気にしないでいいのよ」
由紀は笑みを浮かべながらハンドルを握る。
市内から約三十分で、車は二軍練習場に着いた。
駐車場にはたくさんの車が停まっていた。レジスタンスの二軍練習場は施設が充実しているため、各選手から人気があり、また自主トレは必ずしも同じチームの選手と行なう必要はないため、他のチームの選手も利用することが多かった。
受付で名前を名乗り、室内練習場に入ると、選手たちが各々の自主トレをしていた。
由紀はネネに付いて練習場に入った。ネネの姿を見ると、皆が練習の手を止めてネネを見た。ヒソヒソと何かを話す選手もいる。皆、女子プロ野球選手としての羽柴寧々が気になるのだ。
由紀はまるで自分が見られているような気がして猫背になったが、当の本人のネネは、全く気にする素振りはなく、背筋を伸ばしてスタスタと歩いていた。
(……強いなあ、私もこうなれたらなあ)
由紀はネネを羨望の眼差しで見た。
室内練習場のストレッチルームで、ネネはまずストレッチを始めた。
地面に座ったネネは開脚して、その背中を由紀が押した。ネネの身体は柔らかく、背中を押すと、上半身がペタっと地面に着いた。
(か、身体、柔らかっ!)
ネネの身体の柔らかさに由紀は驚愕し、子供の頃に飼っていたネコを思い出した。
入念に身体をほぐした後、ネネは外のグラウンド周りを走ってくると、由紀に伝えた。
「由紀さん、私に気にしないで自由にしてていいからね。他に仕事とかあったら、そっちを優先して。何かあったらタクシーで帰るから」
ネネはそう言い残すと、外に走りにいった。
手持ち無沙汰になった由紀は、室内練習場に設置してあるベンチに腰掛けた。
他に仕事、と言われたが、自分に与えられた仕事はネネのお世話係のみで、他には何もなかった。
室内は暖房が効いていて暖かい。急に睡魔が襲ってきた由紀は知らない内に眠りに付いていた。
その後、目を覚ました由紀は慌てて手に巻かれた時計に目を落とした。時計の針はネネが走り出してから、一時間以上が経過していた。
ネネの姿が見えないので、外のグラウンドに出て見ると、そこにはグラウンドの外周を黙々と走るネネの姿があった。
コートを着ていても寒さが堪える寒空の下、ネネはジャージ姿のまま走っていた。
(ええ!? 一時間以上、走りっぱなし?)
由紀が驚いていると、ネネがランニングを終えて戻ってきた。
「あれ? 由紀さん、どうしたの?」
「あ……ネネが帰ってこないから、どうしたのかな? って思って……それより、いつもこんなに走ってるの?」
「最近、走ってなかったから今日は長く走っただけだよ。走るのはピッチャーの基本だし」
寒空の中、走っていたから、ネネの顔は少し赤くなっていたが、額には汗が滲み、身体からは蒸気が上がっていた。
その姿を見た由紀は、ネネの基礎体力に改めて感心した。
ランニングが終わると、ネネは室内に入り、大きな移動式ネットとボールが入ったカゴを持ってきた。
「今から何をするの?」
「ネットスローをするの。ボールをネットに投げてフォームのチェックをするのよ」
ネネはグラブをはめてボールを握った。
「由紀さん、私のことは本当に気にしないでいいからね」
ネネは笑顔を見せると、ネットにボールを投げ出した。
(本当は誰かとキャッチボールをするのが、一番いいんだよね……)
ネネがネットにボールを投げる姿を見ると、由紀は胸が痛み、自分の手を見た。
指先には派手なネイル。服はヒラヒラした格好、足元にはブーツ。
(これじゃあ、キャッチボールなんて、できないか……)
何か後ろめたくなり、女子トイレに向かうと個室に入った。
便座に腰掛けて、もう一度自分の手を見た。
(いつから、こんな派手なネイルをするようになったんだろう?)
由紀は神戸にいた頃の銀行員時代を思い出していた。
就職して、銀行の規則が厳しく、仕事の責任も大きく、人間関係にも疲れていた。
事務ミスが続き、落ち込んでいた。出社するのが嫌になった。そんな自分にヤル気を出させるために、ネイルをしたり、外見を着飾るようになった。
銀行を辞めて、父の口添えでレジスタンスの広報部に入っても、外見を着飾ることはやめなかった。
怖いのだ。内面に自信がないから、外見を良くすることでしか自分を保てなかった。というか、いつしかオシャレをして派手な格好をすることに依存するようになっていた。
そして、自分でも分かっていた。これは偽りの自分なんだと。自分の弱さを隠すために、派手な格好で武装しているのだと。
トイレの個室でそんなやるせない思いを抱えていると、聞き慣れた声が聞こえてきた。それは同じ広報部の先輩ふたりだった。
「ねえ、聞いた? 浅井さん、またやらかしたみたいよ」
「ああ、アレ? 羽柴寧々の住むところの件?」
由紀はピクッと反応した。
「ホント、あの人、使えないわよね。広報部のお荷物だわ。水商売みたいな格好して。だから羽柴寧々の付き人なんてやらされるのよ」
「羽柴寧々も生意気そうだし、ちょうどいいんじゃない?」
ふたりは由紀が個室にいることに気づいておらず、言いたい放題だ。
由紀は悲しくなり、涙が出てきた、すると……。
「あ、あら羽柴さん?」
由紀は顔を上げた。何とトイレにネネが入ってきたようだった。ふたりの先輩は今までの会話を誤魔化すためにネネに話を振った。
「羽柴さん、聞いたわよ。浅井さんのミスで住む家の手配できていなかったって……大変だったわね」
「浅井さんはホント、ミスが多くて、皆、困ってるの。羽柴さん、嫌だったら、私たちにいつでも言ってね。球団の上の人に言ってあげるわ」
ネネは由紀が個室にいることを知らない。由紀はネネの本心が気になった。
すると「……そうですね、確かに昨日は大変でしたよ」と、ネネが笑いながら話すのが聞こえた。
その言葉を聞いた由紀は裏切られた気がして、目の前が真っ暗になった。
(ああ、この娘も一緒か……表向きは良い事言っても、裏では私のことをバカにしている……)
由紀はますます悲しくなった。しかし……。
「でも、由紀さんはそのミスを帳消しにするくらい優しくしてくれました」と、ネネが続けた。
「嫌なことなんて、ひとつもありませんよ。私、由紀さんのことが大好きです」
ネネの明るい声が響いた。
「あ……それならいいのよ」
そう言うと、先輩ふたりはコソコソと出て行った。
(ネネ……)
由紀はネネの言葉が嬉しくて涙が出た。そして、しばらくしてから、涙を拭くと個室を出た。
練習場を覗いてみると、ネネはひとりでネットスローをしていた。
由紀はネネの役に立ちたい、と心から思い、ネネの自主トレに何かできることがないかを考えた。
安易な考えだが、ネネはピッチャーだ。ネネのピッチング練習にはキャッチャーが必要だろう。
そう考えた由紀は、自主トレ中のキャッチャーの人にネネの相手を頼もうとした。
(とりあえず、片っ端から頼んでみよう)
すると、キャッチャーマスクとレガースを付けている選手を見つけた。由紀は勇気を出して話しかけた。
「あ、あの……すいません……」
「あん?」
振り向いた相手は若手の選手のようで、どうやらレジスタンスの選手ではなさそうだった。
「何だよ、お前?」
小柄だが、色黒でがっしりした体型な男は圧のある声で問いかけてきた。
「あ……あの……ぼ、ボールを受けてほしくて……」
「あん? 何言ってんだよ? 何で俺がアンタのボールを受けなきゃいけないんだよ?」
「い、いえ、私じゃなくて……」
由紀が必死で説明をしようとしていると、背後から他の選手が現れた。
「あれ? どうしました石川さん? おっ、いい女じゃないすか、相変わらず手が早いすね」
(石川……?)
その名前を聞いた由紀は自分が話しかけた選手が誰なのか、ようやく分かった。
話しかけた「石川」という選手は、確かにキャッチャーだった。だが、レジスタンスの選手ではない。昨年、パリーグの優勝チームであり、且つ日本シリーズで東京キングダムを倒して、名実ともに日本一のチームになった「福岡アスレチックス」所属の選手だった。
中でも石川はレギュラーキャッチャーではないが、高卒五年目で昨年から二番手キャッチャーとして売り出している選手だ。
「いや、この女が相手してくれって、逆ナンしてきたんだよ」
石田はニヤニヤしながら、背後から現れた選手に話しかけた。どうやら同じアスレチックスの選手のようだった。
「へ──、そうなんすか。じゃあ、今晩の相手を探す手間が省けましたね」
「ち、違います……自主トレの相手を……」
由紀は否定するが、石川は「何言ってんだ。こんなヒラヒラした服を着て、男漁りしやがってよ」と由紀の肩に手を回した。
「いいぜ、相手してやるよ」
(い、嫌……誰か助けて……)
由紀が石川から顔を背けた、その時だった──。
「由紀さん、どうしたの?」
ネネの声がした。振り向くとネネが後ろに立っていた。
「ね、ネネ……」
「ねえ、あっちに行こう」
ネネは由紀の腕を掴んだ。
「何だテメェ!? 邪魔すんなよ!」
石川が声を荒げると、もうひとりの男がネネをジロジロと見て、口を開いた。
「あ、あれ? この女、どこかで見たことありますよ……」
「あん?」
「あ! コイツ、羽柴寧々ですよ! 史上初の女子プロ野球選手って騒がれてた!」
「何い?」
石川は由紀から手を離すと、ネネを舐めるような目つきで見た。
「へ──、結構可愛いじゃん」
そして、ネネに手を伸ばした。
「や……止めて! ネネに触らないで!」
由紀はネネを守るように抱き抱えた。
「大丈夫だよ、由紀さん」
しかし、由紀に抱きしめられたネネはニッコリと笑顔を見せた。
「自主トレ中にナンパしてくる男なんて、怖くないから」
「な、何だと!? テメェ、俺を舐めてんのか!?」
石川は血相を変えてネネに詰め寄ったがネネは動じない。代わりに持っていたボールを差し出した。
「そんなに腹が立つなら、私の自主トレに付き合ってよ」
「何だと!?」
「あなたキャッチャーなんでしょ? 私の投げる球を受けてくれない? オンナの投げる球くらい余裕で取れるでしょ?」
ネネはニッコリ笑った。
ネネは室内練習場のブルペンのマウンドに立った。キャッチャーマスクと防具を付けた石川が叫ぶ。
「おう! 大口叩きやがって! 俺を誰だと思ってる? 常勝、福岡アスレチックスのキャッチャー石川だぞ!」
だが、ネネは無視して、マウンドの土をスパイクで慣らしている。
「テメェの投げるボールなんぞ余裕で捕ってやるわ! そん時は俺に無礼な口を聞いたことを詫びてもらうぞ!」
「へへ……石川さんにケンカ売りやがってバカな女だ」
由紀は逃げれないように、もうひとりの男に腕を掴まれていた。
(……ネネ、何を考えてるの? 石川は売り出し中の若手のホープなんだよ!)
「さあ投げてみろ! バカ女!」
石川がマスクを被り直し、ミットを構える。それを見たネネはゆっくりと振りかぶった。
その時、由紀は初めてネネの投球フォームを見た。それは、まるで肉食獣が獲物に襲いかかる動作のようだった。
そして、しなやかなフォームから、弾丸のような球が放たれた。
地を這うような低い球が飛んでくるが、その軌道を見た石川はうすら笑いを浮かべた。
(ケッ、オンナにしちゃ速いが、大した球じゃねえ!)
だが、石川が油断した瞬間、スピンが効いたボールは激しく唸り、ホップした。
(……なっ!?)
ガン!!
ホップしたボールは石川のキャッチャーミットを弾きマスクに直撃した。あまりの衝撃に石川は尻もちをつき、ボールは転々と練習場に転がった。
(す、すごい……!)
間近でネネの球を見た由紀の身体に電流が走り鳥肌が立った。
想像以上の球だった。由紀の腕を掴んでいた男も呆然としたまま腕を離した。
「さ、由紀さん、帰ろ」
そして、いつの間にかマウンドから降りたネネが由紀の手を引っ張っていた。その光景を見た石川は我に返り叫んだ。
「は、バカにしやがって……おい! そのふたりを帰すな!」
すると、そこにひとりの男が現れた。
「お前の負けだよ、石川。それと、これ以上、俺の庭で場を乱すな」
石川に声を掛けた男は長身でスラッとしたモデルのような体型。また髪は茶色に染めていて、甘いマスクをしていた。
「あ、明智先輩……」
石川の顔色が変わった。
「あ……あれは『明智隼人』……」
由紀は驚きの声を上げた。
「由紀さん、知ってるの?」
「知ってるも何も、レジスタンスの遊撃手を守るレギュラー選手よ、そして……」
由紀は明智を見つめた。明智は口元に笑みを浮かべている。
「……レジスタンスの不動の四番打者よ」




