第20話「サバイバルゲーム」⑥
九回表、一点ビハインド、ツーアウト二塁の場面。
丹羽はゆっくりと右打席に入ると、大きく深呼吸すると周りを見渡した。
(さあ、どうする?)
野手は前進守備だ。
(自分ならどう攻める?)
丹羽は自分が置かれている状況を冷静に分析し、頭脳をフル回転した。
ツーアウトながら同点のランナーは二塁。次のバッターは女の羽柴。
(自分なら、歩かせて次のバッターの羽柴と勝負だ。それなら……)
丹羽は痛みをこらえて、真っ赤に腫れ上がっている人差し指を強引に曲げると、バットを強く握った。
Bチームのマウンドには小柄なピッチャーが立っていた。ネネと同じで、今季育成契約したばかりという、試合開始前に今川監督に質問していたピッチャーだった。
その小柄なピッチャーは、キャッチャーのサインに頷くと、不機嫌そうな顔でセットポジションに構えた。
ピッチャーの表情から、丹羽はサインの内容を予想した。
(恐らく、次の球は「アレ」に間違いない。それなら、あとは度胸一発だ……)
丹羽はバットを構えると、わざと少しホームベースから離れて立った。
Bチームのピッチャーが第一球を投げた。と同時にキャッチャーがゆっくり立ち上がった。「敬遠」だった。
しかし、丹羽はこの敬遠球を待っていた。
(羽柴のバッティングは素人同然、自分を敬遠して羽柴と勝負するのが正解だ。だが、このピッチャー、七回の登板時から強気なピッチングだった。この敬遠も恐らく納得していないだろう。となると、明らかに外したボールは投げないはずだ)
丹羽の読み通りだった。敬遠に納得しない態度のピッチャーが投げたボールは明らかなボール球ではなく、ストライクゾーンから、ほんのわずかに外れただけのボールだった。
(これだ! このボールを打つしかない! 一度きりのチャンスだ!)
覚悟を決めた丹羽は指の痛みをこらえ、思い切り左足を踏み込むと、その敬遠球を叩いた。
カキン!
快音を残し、ボールは一、二塁間に飛んだ。敬遠球を打たれたピッチャーとキャッチャーは驚き、前進守備のセカンドが必死でボールに飛びつくのが見えた。
「抜けろ!」
丹羽は叫びながら一塁まで全力で走った。
丹羽の打ったボールはセカンドのミットをかすめてライト前に飛んだ。
ツーアウトのため、二塁ランナーは自動的にスタートを切っている。ライトの選手が全力でバックホームするが、返球より先に二塁ランナーがホームベースを踏んだ。
同点!
土壇場で丹羽のタイムリーが飛び出し、スコアは8対8の同点になった。
「うわあああ!」
Aチームベンチから大歓声が上がった。打った丹羽は一塁ベース上で喜びのあまり両手を突き上げ、対照的にBチームのピッチャーはグラブをマウンドに叩きつけて悔しがった。
無理やり指を曲げてバットを握りフルスイングしたことで、丹羽の人差し指の痛みは更に激しさを増していたが後悔はなかった。
ネクストバッターサークルで大喜びしているネネに向かい、丹羽は右手を突き出した。
その後、ネネは三振に倒れ、逆転には至らなかったが、Aチームの負けは無くなり、同点のまま最終回、九回裏の攻防を迎えることになった。
「おい、最後の守りだ。頼んだぞ」
ベンチではネネに噛み付いていた背番号001のピッチャーがネネに声援を送っていた。ネネのピッチングは、いつしか敵対していた選手をも虜にしていた。
「はい! あ、そういえば丹羽さんは、どこに……?」
「ちょっと用があるみたいで、ベンチ裏にいる。だがそれよりもこの回、ランナーが出ると松下に回る。ヤツには気をつけろよ」
「松下……さんですか?」
「ああ、ミート力があり支配下登録に一番近い選手だ。奴に回ると厄介だぜ」
その頃、丹羽はベンチ裏で誰にも気づかれずに、左手の人差し指をテーピングでグルグル巻きにしていた。
(あと、一イニングだ。頼む……もってくれよ、俺の指……)
丹羽は祈るように人差し指をミットに強引に押し込むと、ダッシュでグラウンドに戻った。
丹羽が戻って来たのを確認したネネは、味方の声援を受けながら、九回裏のマウンドに立った。
Bチームの先頭バッターは、いきなりバントの構えをしている。
Bチームの出した結論は、ネネをとにかく揺さぶり、甘い球を狙い打つこと。いくら球が速くてもマウンドさばきは素人……ネネの焦りを待つ作戦だった。
しかし、ネネはそんな揺さぶりにも動じる様子はなかった。
最終回ということもあり、いつも以上に指先に力を込めてストレートを投げ込んでいく。
また丹羽のリードも冴え、内角、外角と厳しいコースを要求。バッターはネネを揺さぶるどころか、逆にツーストライクまで追い込まれ、最後は高めのストレートに空を切らされた。
まずはワンアウト、しかも八回から数えて、圧巻の四者連続三振だ。
「いいぞ、羽柴!」
痛みを堪えて丹羽は返球するが左手はもう限界に近かった。ネネの球を捕るたびに痛みが脳天を突いた。
続くバッターが打席に入るが、再びバントの構えをしている。どうやら、とことんネネを揺さぶる作戦のようだ。
ネネは第一球を投じる。バッターはそのボールをバントしようと試みたが、ボールがホップしたためバントは失敗し、キャッチャーの後ろに上がる小フライになった。
(よし! これでツーアウトだ!)
丹羽はマスクを脱ぎ捨て、自分の後方に上がったフライを捕ろうとした。しかし……。
ズキン!
急に指の痛みが襲ったため、ボールを見失ってしまった。
ボールはグラウンドに転々と転がり、助かったバッターは安堵の表情を浮かべた。
「す、すまん! 羽柴!」
丹羽は悔しさと指の痛みを堪えてネネに謝る。
「ドンマイです! 丹羽さん!」
ネネは丹羽から返球されたボールを受け取ると、何事もなかったかのように、にっこりと微笑んだ。
仕切り直しで投げたネネの二球目を投じる。コースはアウトローへのストレート。バッターは見送ったが、これがコースギリギリに決まりストライクとなる。これで一気にツーストライクまで追い込んだ。
丹羽は痛みでクラクラする頭をフル回転して、三球勝負の決め球にドロップを要求。
バッターはバットを短く持ち、何とかバットに当てようとするが、ドロップのキレはすさまじく、バットは空を切った。
空振り三振、これでツーアウト……と、誰もが思った瞬間、丹羽は指の痛みでボールから一瞬、目を切ってしまい、ボールをキャッチできずに後逸してしまった。
丹羽がボールを撮り損ねたのを見たバッターは、すぐさま一塁に走り抜けてセーフ。
結果、振り逃げでサヨナラのランナーを塁に出してしまった。
丹羽は、しまった……と渋い顔をした。先程のファールフライといい、今回の後逸といい、ことごとくネネの足を引っ張っている。
そして、いくら鈍感なネネでも流石に丹羽の異変に気付いた。
(おかしい、丹羽さんに何かが起こっている……もしかして怪我とか……?)
本来ならツーアウト、ランナーなしのはずが、ワンアウト、ランナー一塁と逆転のランナーを出してしまった。
ネネはセットポジションに構え、背中越しに一塁ランナーの動きに注意し、牽制を二回繰り返した後、第一球を投げた……と、同時に一塁ランナーが二塁に走った。
「走ったぞ!」
ファーストが丹羽に大声で指示を送るが、盗塁を警戒したネネは外角に大きくボールを外していた。
(丹羽さんの肩なら刺せる!)
だが次の瞬間、ネネは自分の目を疑った。なぜならボールをキャッチした丹羽はその場で固まってしまい、ボールを投げる素振りもしなかったからだ。
ランナーは悠々と二塁へ到達し、ワンアウト二塁となった。
「に、丹羽さん!」
ネネは思わずマウンドを駆け下りて、丹羽の元に向かおうとしたが、丹羽は『来るな!』と、声を出さず手で制止した。
ネネは途中で足を止めたが、嫌な予感がした。
(おかしい……やっぱり、丹羽さんに何かトラブルが起こっている……)
そんなネネを見て、丹羽は明るく声を張り上げた。
「悪いな、羽柴! ちょっと油断しちまった。だがもう大丈夫だ! 全力で来い!」
ネネの不安をよそに、試合は再開される。
バッターは依然として、バントの構え。その様子を見て、丹羽は野手陣に前進守備のサインを出した。
ネネはセットポジションに構えるが、丹羽のことが気になって集中ができない。
素早いクイックからストレートを投じようとしたが、リリースの直前、ボールにうまく指がかからなかった。
(し、しまった!)
いわゆる棒球がど真ん中に飛んでいく。
バントの構えを見せていたバッターだったが、その力のない球を見ると、急遽ヒッティングに切り替え、思い切りボールを叩いた。
カキン!
鋭い打球が三遊間を抜けて、二塁ランナーがスタートを切る。
一打サヨナラ、かと思われたが、前進守備が幸いした。レフトがすぐボールを押さえたため、二塁ランナーはホームには帰れず三塁にストップした。
何とかサヨナラ負けは防いだものの、ワンアウトでランナーは一、三塁、と一打サヨナラのピンチとなった。
その頃、バックネット裏の首脳陣たちも、キャッチャーの動きが悪くなったことに気付きだした。杉山コーチが苦い顔をする。
「あのキャッチャー、恐らく怪我をしたな。ネネの球は取り辛い。以前ネネを特訓した時、伊藤スカウトがキャッチャーを務めたが、ボールを受けた左手は真っ赤に腫れ上がり、かなり辛そうだったからな……」
「じゃあ、あのキャッチャーも……」
岩田コーチが心配そうにグラウンドを見つめる。
「ネネのボールはベース上でホップする。恐らく球を捕り損ねたのだろう」
杉山コーチは以前、ネネの球を受け損なっているので、そのボールの取り辛さを十分に理解している。
「で、でも、もし怪我をしているのなら止めさせないと! 選手生命に関わる怪我かもしれませんよ!」
そんな岩田コーチの発言を遮るように、今川監督が口を開いた。
「今日クビになるかもしれない男に、選手生命が関係あるのか?」
「……!」
「続けるかリタイアするかを決めるのは、あのキャッチャーだよ。俺たちはそれを見守るだけだ」
今川監督はそう言うと、グラウンドに目を落とした。
サヨナラのランナーが三塁まで進んだため、Bチームのベンチは俄然、勢いづいた。
そして、ベンチの声援に後押しされ次のバッターが打席に入った。背番号025、支配下登録選手に最も近いと言われる選手、松下まで打順が回ってしまった。
マウンドのネネは状況を整理した。
(ワンアウト、一、三塁、一打サヨナラの場面、バッターは松下さん。外野フライでも一点。でも確実に一点を取るなら……スクイズもあり得る)
勝ちにこだわるなら、スクイズは十分あり得る戦法だった。
(スクイズが決まればサヨナラ負けだ。何とかしたいが、丹羽さんはどこかおかしい気がする。もし何かトラブルが発生しているのであれば、全力で投げるわけにはいかない。どうしよう、どうすればいいの……?)
考えがまとまらないネネは一旦、プレートを外した。
異変を察知した丹羽はタイムをかけて、マウンドのネネの元に駆け寄った。
「どうした、羽柴?」
丹羽がマウンドに着くと、ネネはうつむいたまま口を開いた。
「な、投げれないよ……」
「何?」
「投げれないよ……丹羽さん、さっきからおかしいよ。もしかして怪我をしてるの?」
ネネの言葉に丹羽は一瞬、ドキッとしたが、すぐに気持ちを切り替えた。
「ば……バカ言え! 俺は怪我なんてしてない! ちょっと気が緩んだだけだ! そんなこと考えずにお前は俺のミットを目掛けて全力で投げろ! このままだと負けてしまうんだぞ!」
丹羽はネネに発破をかけるが、ネネはうつむいたままだ。
「でも……」
「羽柴! 投げろ! 全力で投げるんだ!」
その時だ。突然、バックネット裏から怒りの声が飛んだ。
「バカヤロー! 何、やってんだ、お前!」
ネネは思わず顔を上げて、バックネット裏を見た。
声の主は、織田勇次郎だった。
勇次郎は立ち上がり、ネネを睨みつけていた。




