第176話「嵐の行方」前編
「ネネ──! 優勝、おめでとう!」
「由紀さん!」
優勝決定に歓喜に沸く二軍ベンチ。そこに由紀がタオルを持って入ってきた。
「ちょ……ちょっと! ずぶ濡れじゃない!? 風邪を引くわよ!」
由紀は雨に濡れたネネの髪や顔をタオルで拭いた。
「えへへ……水も滴る良い女でしょ?」
ネネはにっこりと笑った。その笑顔を見た由紀は安堵した。
(うん、もう大丈夫だ。いつものネネが帰ってきた……)
「羽柴! 今日はお前の好投のおかげだ! よくやってくれた!」
広江二軍監督がネネを労った。
「本当だよ、羽柴、ありがとう!」
「ナイスピッチング!」
一軍の好調に引っ張られて、万年最下位だった二軍も今季は優勝を決めたことで、他の選手たちも、皆、喜んでいる。
「ああ、よくやったぞネネ!」
「一軍も二軍もピッチャーがいない中、今日はよく投げてくれた!」
怪我のため二軍で調整中のダブルエース、朝倉と松永もネネを労った。
「後は一軍が勝つばかりだが……」
朝倉がそう言ったので、由紀はすぐさま、一軍の試合をタブレットで確認した。
「九回に入ってる……スコアは10対9。一点リードで島津さんが登板みたい」
「え? 島津は一軍復帰したばかりだろ? それなのにこんな場面で登板か?」
「は、はい……どうやら、今日はかなり投手陣が打ち込まれたみたいで……」
「それじゃあ、キングダム対ファルコンズはどうなっているんだ?」
松永に聞かれ、由紀が再びタブレットを操作した。
「1対0、キングダムが一点リードのまま、九回裏ファルコンズの攻撃が始まるところです」
「き、厳しいな……」
「いくらレジスタンスが勝っても、キングダムが勝ったら終わりだもんな」
朝倉と松永が渋い表情をする。
「最終回のファルコンズは攻撃は下位打線からですから、ちょっと厳しいですね……あ、でも今日スタメン復帰した児嶋さんが八番に入ってますから、児嶋さんに打順は回るみたいです」
由紀はそう答えた。
つまるところ、キングダムの優勝は各球団の試合展開に左右されることになった。
まずは横浜メトロポリタンスタジアムのレジスタンス対メッツ戦。
スコアは10対9でレジスタンス一点リードのまま、九回裏メッツの攻撃中。場面はワンアウト一、三塁。一打同点、もしくはサヨナラ勝ちの場面で、三番ペレスがバッターボックスに入っていた。
(敬遠して満塁策を取る手もあるが、次のバッターは四番のアレックスだ。しかも、延長に入ったら、ピッチャーがいないウチは圧倒的に不利だ)
キャッチャーは藤堂から途中出場した北条に代わっていた。北条は頭脳をフル回転して、考えた末にフォークのサインを出した。
島津のフォークは諸刃の剣……落差が鋭いので、ワイルドピッチで三塁ランナーが帰ってくる可能性もある。だが、北条は『大丈夫だ。絶対に後ろには逸らさない! 腕を振って投げてこい!』というジェスチャーをした。
このピンチに島津は北条を信じてフォークを投じた。島津のフォークにペレスのバットは空を切るが、ボールもワンバウンドする。しかし、北条は身を挺してボールを押さえた。
「いいぞ、島津!」
まずは初球、ワンストライクだ。
島津はボールを受け取ると、口元に笑みを浮かべた。
(やるじゃねーか、オッサン……昔の俺ならキャッチャーの言うことなんて聞かなかったが、俺も変わったもんだぜ……)
続く二球目、北条は島津にあるサインを送った。そのサインを見て島津は驚いたが、すぐに首を縦に振った。
セットポジションから島津は二球目を投じる……その時だ。
一塁ランナーが走った。バッターのペレスは援護の空振りをする。ボールを捕球した北条は直ぐ様、ボールを二塁に送球するが、同時に三塁ランナーが猛然とホームへ走った。
ダブルスチール。一塁ランナーを刺そうとキャッチャーが二塁に送球する際に、三塁ランナーがホームに帰ってくる意表をついたプレーだ。
スタンドから歓声が上がる。
(よし! ハマった! これでまずは同点だ!)
横浜メッツの秋田監督がほくそ笑んだが、すぐに顔色が変わった。
「ま、待て! やめろ! 罠だ!」
北条が二塁に送球したボールをピッチャーの島津がカットしたのだ。
北条はダブルスチールを見抜いていた。島津はすぐにボールを北条に返球した。飛び出していた三塁ランナーは塁間で挟まれ、敢えなくアウトとなった。
その後、島津は四番アレックスを四球で歩かせるも、五番バッターを何とか打ち取り、レジスタンスが10対9と何とか逃げ切った。
「よっしゃあ! よくやった! 島津、北条!」
優勝へ、首の皮一枚つながる勝利にベンチでは今川監督をはじめ全員が大喜びだ。
北条が勝利に安堵し、三塁側ベンチに戻ろうとしたときだった。
「あなた!」
不意に聞き慣れた声が聞こえた。北条が三塁側スタンドに振り返ると、何とそこには離婚した元妻がいた。隣に小さな男の子を連れていた。
「お、お前……?」
それは実に九年ぶりの再会だった。
「ナイスプレー……」
妻は、はにかみながら言った。
「お前も……元気そうだな……」
一緒にいる男の子はレジスタンスの帽子とユニフォームを着てもじもじしている。
(子供……? 再婚したのか……でも幸せそうなら良かった……)
「……可愛い男の子だな」
北条が笑いかけると、妻はにっこり笑った。
「……あなたの子供よ。萌音の弟よ」
そして、神宮球場……。
九回裏ファルコンズの攻撃。ワンアウトランナーなしの場面で、八番に座っている児嶋に打順が回ってきた。
マウンド上には、キングダム抑えのエース、ヤングマンがいた。ヤングマンはセリーグトップのセーブ数をマークしている。160キロのストレートと140キロのフォークが武器の絶対的クローザーだ。
今日の児嶋は三打数ノーヒットだが、ファルコンズ田村監督の信頼は揺るがない。代打を送らず、児嶋をそのまま打席に立たせた。
児嶋はバッターボックスでヤングマンの過去のピッチング内容からヤマを張っていた。
(低めは捨てる。フォークを捨てて、ストレートだけを狙い撃つ)
ヤングマンの初球は低めのフォークだが、児嶋のバットは止まる。外れてボール。
二球目もフォークを見送る。これも振らずにボール。カウントは2-0だ。
ヤングマンのフォークは140キロあり、そのスピードから大抵のバッターはストレートと判別ができず空振りする。そのため児嶋は初めから低めのボールを振らないと決めていた。
児嶋はヤングマンを観察する。雨が降る前の傾向として湿気が強く、ボールのリリースがうまくいっていないのか、イライラしてるように見えた。
(ヤングマンは今季二回セーブを失敗しているが、それはすべてフォークが決まらずカウントを悪くしての自滅だ。フォークがコントロールできないのなら、ストレートでカウントを取りに来るはずだ)
児嶋は頭の中でデータを整理した。
雨の気配がする中、児嶋は今までのことを回想していた。
データマニア……頭で野球をやっていると陰口を叩かれた。
ささやき戦術……二流キャッチャーはそうまでしないと生き残れないのかと、バカにされた。
いつしか、性格は荒んだ。勝つためなら何をやってもいいと信じ込んだ。
だが……その時、児嶋の脳裏にネネの笑顔が浮かんだ。
(羽柴さん……君だけは僕のことを笑わなかった。僕はプロ野球の世界から君を抹殺しようと破滅の変化球を教えたのに君は乗り越えてきた。そればかりか、僕のことを信じてくれていた……)
ヤングマンが振りかぶる。
(君のストレートは効いたよ。僕の卑屈な心を振り払ってくれた。もし、君と同じチームメイトだったら……もっと違う場所で君と出会っていたなら、僕はきっと君のことを……)
ヤングマンの三球目は再びフォークだが、これも外れてボールとなる。
(いや……それは違うな……君には僕以上に君のことを想っている男がいる。その男は不器用で無愛想だけど、君のことをとても大事に想っている……)
児嶋は微かな笑みを浮かべた。
カウント3-0、セットポジションからヤングマンが投球モーションに入る。
コントロールが乱れている。一球待つのがセオリーだ。だが、児嶋はストレートにヤマを張った。
(羽柴さん、僕は僕で君のためにやれることをするよ。それは……)
ヤングマンのストレートが飛んでくるが、コントロールを重視したためか球威はあまりなかった。
(ここでキングダムを叩く! それが僕の君への想いだ!)
児嶋はバットを思い切り振り抜いた。
カキ──ン!
快音を残し、打球はライトへ高々と舞い上がった。ライトスタンドに陣取るキングダムファンの悲鳴が響く。
灰色の空を切り裂いた児嶋の打球はライトスタンドに突き刺さった。
九回裏、起死回生の同点ホームランが飛び出しスコアは1対1。
優勝が懸かったファルコンズ対キングダムの試合は、ここにきて振り出しに戻った。