第171話「泣いたりしないで」
「よいしょ」
由紀はネネの隣に腰掛けた。
「ゆ、由紀さん……何でここに……?」
「何となく。ネネがいるのは、ここかなあって思って」
由紀はニッコリ笑う。
ネネはうつむいて、由紀の腕をギュッと掴んだ。身体が小刻みに震えている。その姿は泣くのを我慢しているように見えた。
「ネネ……」
由紀はネネの手に触れた。
「ゴメンね……ネネが辛い時に一緒にいてあげれなくて……」
ネネは頭をブンブンと横に振ると、うつむきながら言葉を絞り出した。
「ううん……私こそ……私のせいで由紀さんが……」
「前にも言ったでしょ、私は大丈夫だって」
ネネは由紀の腕をさっきより強く掴んだ。
「ねえ、ネネ……話したくないならいいけど、一体何があったの?」
ネネは顔を上げた。その目は真っ赤だった。ネネは名古屋で石田の告白されたこと、キスの現場を勇次郎に見られていたことを話しだした。
「そ、そんなことがあったの……?」
一連の話を聞いた由紀は驚愕した。
マスコミやネット上の誹謗中傷。同じ女子プロ野球選手である伊達美波からのサヨナラホームラン。そこに追い打ちをかけるように、友達だと思っていた石田からの告白と勇次郎からの冷たい言葉……。
18歳の少女にとっては、あまりに過酷すぎる出来事だ。
「ずっと……ずっと、ひとりで考えてたの……私、色んな人を不幸にしている。私が『プロ野球選手になりたい』っていったばかりに色んな人を傷つけている……」
ネネはうつむきながら話した。
「そんなことないよ、考えすぎだよ。ネネ……」
由紀の言葉にネネは首を振った。
「ううん……私がいなければ丹羽さんは解雇されなかった。私がいなければ柴田さんは怪我をしなかった。私がいなければ明智さんはあんなことをしなかった。勇次郎だってキングダムに入団してたかもしれない……」
膝の上で握りしめたネネの拳に涙が落ちた。
「私のせいで由紀さんも広報部にいられなくなるって……全部私のせいなの……わ……私はプロ野球選手になっちゃいけなかったの……」
「ネネ!」
由紀の大声にネネは顔を上げた。目から涙が溢れている。
「バカなこと言わないで! そんな……今までの自分を否定することは絶対に言ったら、だめだよ!」
「由紀さん……」
ネネは涙を拭った。
「お願いだから、そんな悲しいこと言わないでよ……そんなの……そんなのネネらしくないよ……」
今度は由紀がグスグスと泣き出した。
泣いている由紀にネネはハンカチを渡した。
「泣かないでよ、由紀さん……」
「だ……だって、ネネが……」
ハンカチで目元を押さえている由紀を見て、ネネは少し困った顔をした。
「ねえ、由紀さん……私、決めたことがあるの……聞いてくれる?」
「……な、何?」
ハンカチで涙を拭いながら由紀が尋ねた。
「私ね……野球をやめようかと思うの」
「そ、そう……野球をね……え? ええ!? な、何それ!?」
驚いた由紀はハンカチを顔から離し、ネネの両肩を掴んだ。
「私……もうプロ野球の世界から離れようと……引退しようかと思うの……」
ネネは由紀から顔を逸らした。
「な……何で? 何で!?」
「もう疲れたの……色々なことから……」
ミャアミャア……。カモメが鳴く声が聞こえた。
由紀はネネを見つめた。ネネは憔悴していた。
ネネの性格からして、思いつきや勢いで言った言葉ではない。考えた末に出した結論に違いないと思った。
マウンドでの振る舞いや言動から忘れていたがネネはまだ18歳だ。そんな少女が受けた心の傷は簡単に癒せるものではない……。
「そっか……ネネが決めたことなら、私は反対はしないよ」
由紀は必死で笑顔を作った。
「由紀さん……」
「でもね……女性なのにホップするストレートを投げて、プロの男連中相手に三振を築いていく……それはネネにしかできないことなんだよ。そんなネネの活躍に元気づけられてる人はたくさんいるよ。私もそのうちのひとりなんだよ……」
「ありがとう由紀さん。でもね……私…、もう投げれないの……ゴメンね……」
ネネはうつむいた。
「……分かったよ。ネネの気持ちは分かった」
その言葉にネネは顔を上げた。
「由紀さん……私が野球をやめて、実家に帰っても友達でいてくれる?」
「うん、当たり前だよ」
「ありがとう……ただね……野球をやめる前にひとつだけ心残りがあるの……」
数十分後、由紀は助手席にネネを乗せて神戸の郊外に車を走らせていた。
助手席に座るネネはカバンの中から手紙を取り出した。それは先程、港で見ていた手紙だった。差出人名は「宇喜多明里」と書いてあった。
「いつも手紙をくれる女の子だよね?」
ハンドルを握りながら由紀が尋ねた。
「うん……小学五年生の女の子でリトルリーグのエースを務めてるの」
「毎週、手紙をくれるなんて、その娘よっぽどネネの大ファンなんだね」
「でもね……手紙がバッタリと途絶えたの……」
「え? いつから?」
「私と……明智さんのことが新聞記事になる少し前から……」
ネネは目線を落とした。
「きっと、あの記事を見て私に愛想をつかしたんだと思う……」
「まだ、そうと決まったわけじゃ……」
ネネは首を振った。
「ううん……きっとそう……だからこそ、野球をやめる前に、この娘だけにはしっかりと謝りたいの……」
ネネはバッグからレジスタンスのユニフォームとボールを取り出した。
「何、それ?」
「私が初めて公式戦で勝利した時のユニフォームとボール……こんなの渡したら迷惑かな……?」
由紀はふふっと笑った。
「明里ちゃん、喜ぶよ、きっと」
明里の家は神戸市の郊外にあった。
近くの駐車場に車を停めると、ネネと由紀は「宇喜多」と書かれた表札の一軒家の前に立った。
由紀がインターホンを押すと「はい、宇喜多ですが……」と、母親らしき女性が出た。
「あの……私、大阪レジスタンス広報部の浅井と申します。宇喜多明里さんに会いたいのですが……」
『レジスタンス』という言葉に反応したのか、女性はすぐに玄関のドアを開けた。そして、由紀の後ろに立つネネの姿を見て驚いた。
「え……? は……羽柴……羽柴寧々選手……?」
ネネはペコリと頭を下げた。
出て来てくれた女性は明里の母親と名乗り、ネネと由紀はリビングに通された。
「レジスタンスの羽柴さんに来ていただくなんて恐縮です……」
明里の母は緊張しながら、お茶を出した。
「い、いえいえ! 突然、お邪魔して本当に申し訳ございません……いつも明里ちゃんの手紙に励まされています」
ネネは深々と頭を下げたが、由紀は家に上がってから、ある違和感を感じていた。それは家に子供のいる気配がないことだ。どう見てもひとり暮らしの印象を受けた。
「明里ちゃんはまだ学校ですか?」
由紀が母親に尋ねると、一瞬、母親の動きが止まった。
その様子を見て、由紀は益々、不信感を高めた。しかし、明里の母は「いえ……娘は家にいます。どうぞこちらへ……」と、ネネと由紀を別室へ導いた。
暗い廊下を通り、ふたりはある部屋に通された。
そして、案内された部屋に入ったネネと由紀はその光景に言葉を失った。