第167話「Still Love Her」前編
優勝が懸かる対キングダム初戦はキングダムの劇的なサヨナラ勝ちで幕を閉じた。
九回裏に飛び出した四番渡辺と女性スラッガー伊達美波の二者連続ホームラン。しかも伊達が同じ女性の羽柴寧々から打ったサヨナラホームランはインパクトが大きかった。
新聞では評論家たちが、ネネのストレートにキレも伸びもなく、スキャンダルによる精神的な不調が原因だと騒ぎ立て、インターネット上でも、心ない人たちから再びネネは叩かれていた。
その翌日、ネネはチームから離れて、ひとり新幹線に乗っていた。再び二軍行きを命じられたからだった。
そして、それは今シーズンのネネの一軍での登板はないことを示唆していた。
キングダムドームでの対キングダム三連戦の後は雨天で中止になり延期された二試合が予定されている。
10月5日、横浜スタジアムで横浜メッツ戦。
10月6日、レジスタンスドームにて、地方試合で雨天延期になった東京キングダム戦。
しかし、この日程が問題なのだ。
ネネが二軍に落ちたのは9月28日、二軍に行くと10日間は一軍に戻ることができない。つまり10月7日が最短で一軍に戻れる日なのだが、その時には既にペナントレースは終わっているのだ。
今年は隔年でクライマックスシリーズが無い年なので、日本シリーズは別として、ペナントレースでネネが投げることは不可能な状況になっていた。
ネネはぼんやりと新幹線の窓から流れる景色を見ていた。昨日のドームでの悪夢のような出来事は身体の全細胞に残っていた。
(終わった……私の今シーズンは終わった……)
不思議と涙は出なかった。
渾身のライジングストレートを伊達美波に完璧に打たれ、完敗したネネは抜け殻のようになっていた。
大阪への帰り道、ネネは名古屋駅で降りた。球団から、実家で少し静養するよう指示されたからだ。
ネネが新幹線を降りて名古屋駅南口のロータリーに向かうと、赤の軽自動車がスーッと近づいてきた。運転席にはネネの母親が乗っていた。約九ヶ月振りに見る母の姿だった。
「お母さん……」
「おかえり、ネネ、荷物はこれだけ?」
母は車から降りて、ネネの荷物を持とうとした。
「あ……大丈夫だよ、自分で入れるよ」
「いいのよ、さ、貸しなさい」
母はネネの荷物を車の後部座席に運んだ。
(お母さん……)
心身ともに傷ついていたネネは、久しぶりに見た母の姿に安心し、目に浮かんだ涙を腕でグイッと拭った。
「今日は土曜日だから、お父さんも菜々も珍しくあのキキも家にいるわ」
ネネが助手席に乗り込むと、運転席に座った母が笑いながら言った。
「お母さん……みんな元気……?」
「うん、みんな元気よ」
そう言うと、車を発進させた。
(明智さんとの新聞記事が出てから、多分、家族の皆にも迷惑がかかっただろう……)
ネネはそう思うと胸が痛くなった。
「お母さん…」
「何?」
「お母さん、ゴメンね……色々と騒がせて……」
すると、母は黙って助手席に座るネネの頭をなでた。
母の手は温かかった。幼い頃からネネが悲しいときには、いつも母がこうして慰めてくれた。
ネネは母に悟られないように再び涙を拭うと「お母さん、私、お腹空いた──」と甘えた声を出した。
その言葉を聞いた母は「はいはい、家まで我慢ね」と笑いながら返した。
名古屋駅から走ること約三十分、羽柴家に到着した。久しぶりの実家だった。
ネネが玄関を開けると、父と姉が出迎えてくれた。
「おお、ネネ! 久しぶりだな!」
父が満面の笑みを見せる。
「ネネ、おかえり。洗い物はこれかな?」
姉の菜々が荷物を持っていこうとする。
「あ……! 悪いよ、お姉ちゃん!」
「大丈夫、大丈夫。洗い物したらお母さんと一緒にご飯作るからね」
菜々は荷物を手にニッコリ笑った。
ゴウン、ゴウン……。
菜々が洗濯機にアンダーシャツや下着を入れて洗濯をしている中、ネネは菜々に話しかけた。
「お姉ちゃん、ゴメンね……色々心配かけて……」
「ううん、全然、大丈夫だよ」
「ねえ、お姉ちゃん……本当のことを教えて……私のせいで皆、嫌な思いしてない?」
「……」
「私なら大丈夫。ネットの掲示板でめちゃめちゃ悪口言われてるのも知ってる……だから本当のことを教えて……」
菜々は大きく息を吐いた。
「正直……職場では誰もそのことには触れてこない……でも多分、陰では何か言われてるだろうな、とは感じている……」
「そうだよね……」
「お父さんやお母さんも何も言わないけど、多分、私と同じだと思う……」
「ゴメンね、お姉ちゃん……私のせいで……」
ネネの声が小さくなるのを聞いて、菜々は慌てて振り向いた。
「あ……! でもね、大丈夫だよ。職場では長田さん……ほら、この前ドームで会った先輩だけど、長田さんはネネの味方だよ。新聞記事やネットのニュースはデマだって、言ってくれてるよ!」
「……」
「私たちは大丈夫! だから、ネネは自分のことを考えなさい」
菜々は優しくネネに語りかけた。
姉の菜々は昔からネネにいつも優しい。ネネはこっくりとうなずいた。
「ありがとう……お姉ちゃん」
すると、パタパタと階段を降りる音が聞こえてきた。
「あ! ネネちゃん、おかえり──!」
妹のキキだった。ネネの姿を見て近寄ってくる。
「ただいま……キキ」
「ネネちゃん、新聞記事やネットニュース見たよ──! やるじゃん、プロ野球の男たちを手玉に取って──!」
ネットの掲示板ではネネは複数の選手と関係を持っているとデマを流されている。キキが言っているのはその事だ。マイペースな性格のためズバズバと突っ込んでくるが、決して嫌味な言い方ではない。
「キキ……アンタにも迷惑かけてたらゴメンね」
「え? 何が?」
キキはキョトンとしたが、すぐに「何言ってんの──!? あんな記事が出るなんて、有名人になった証拠じゃん! 妹としても誇らしいよ──!」と言ってケラケラ笑った。
キキは昔から底抜けに明るく、ネネが悩んでいるときは、いつも笑いながら悩みを一蹴してくれる。ネネはついおかしくなってクスッと笑った。
「それに記事は全部デマだしね。ネネちゃんは恋愛に奥手だから、そんな悪女みたいなことはできないでしょ──」
キキが茶化すように言うので、ネネは「ちょ……ちょっと……! アンタねえ!」と怒った。
そんな妹ふたりの姿を見て菜々はクスクスと笑った。
その日の夕食には、ネネの好物ばかりが食卓に並んだ。
「ネネが帰ってくるって聞いたから、お母さん、昨日から張り切って準備してたんだよ」
菜々が笑いながら教えてくれる。
「ネネ、すごいな! 今季は9勝もして! お父さん、嬉しいぞ──!」
父はビールを飲んでご機嫌だ。
「う……うん、でも本当はあと1勝して、10勝までいきたかったけど……」
「何を言ってんだ!? 女性がプロの世界で9勝だぞ9勝! しかもセーブ数は10って……! こんなすごいことはないぞ!」
父の言葉にネネは笑みを浮かべた。
父は昔からいつも自分を褒めてくれる。初めてキャッチボールでストライクを投げた時、草野球で三振を奪った時……父はいつも喜んでくれた。
家族の温かさに触れて、ネネはしばし、自分がプロ野球選手ということを忘れた。
夕食を終えて自分の部屋に入った。ベッドには布団が引いてあった。それ以外は一月に家を出て行ったときと同じだった。
ネネはベッドに横になると、枕元に置いてあるボールを手に取って天井に向かって投げた。
(久しぶりだなあ……)
昔から行なっていた指の感覚を養う遊びだ。ネネは懐かしい気分になった。
シュルル、シュルル……。
天井に向かって投げたボールは手元に落ちてくる。しかし、ネネはあることに気が付いた。
(あれ?)
いつもならボールは天井に当たるか当たらないかまで上がり、投げ終えた手元に寸分狂わず落ちてくるのだが、ボールは天井より低い位置で止まり、更に落ちてくる位置もズレていた。
(……おかしい)
ネネは指先の感覚が微妙にズレていることに気付いた。
(もしかして……もしかして打たれたのは、コレが原因……?)
ネネが指の感覚に疑問を感じたとき、スマホにLINEが入った。
それは、幼馴染の石田雅治からだった。