第146話「破滅の変化球」後編
ネネはレジスタンスベンチ前で、北条相手にピッチング練習を始めた。
北条の後ろには杉山コーチが立っている。だが、ネネの投げるボールを見て首を振った。
(ダメだ……ホップするストレートが戻らない)
ネネは力なく北条からのボールを受け取った。
「わああああ!」
すると、ドームに歓声が響いた。勇次郎がセンター前にヒットを打ったのだ。
ネネは塁上の勇次郎を見た。勇次郎は一塁ベース上で肘当てを外していた。
(そうだ……勇次郎はいつも自分のやるべきことをやっている……)
ネネはキッと顔を上げた。
(泣き事を言っている場合じゃない。取り戻さなくっちゃ……ホップするストレートを……指先の感覚を……!)
勇次郎がヒットで出塁したため、ツーアウト一塁になった。バッターボックスは五番の黒田。少しでもネネの時間を稼ぐために粘っている。しかし……。
ガキン!
鈍い音が響いた。板倉の勝負球、スライダーをひっかけてファーストゴロ。レジスタンスの攻撃は無得点で四回裏の攻撃が終わった。
「終わったか……さあ、いくぞネネ」
北条に促され、ネネは五回表のマウンドに向かう。一方でベンチでは今川監督と杉山コーチが話し込んでいた。
「まだダメか」
「はい……ホップするストレートは、まだ復活していません」
「杉山コーチ、こうなったら意地でもネネは交代させんぞ。実戦でカンを取り戻してもらう」
「分かりました」
五回の表、ファルコンズの打順は七番からの下位打線だが、ホップするストレートが戻らないネネは連打を浴びて、ノーアウト、一、二塁となる。
ライジングストレートが投げれない今、ネネのストレートは打ち頃の球でしかない。
続く九番のピッチャー板倉は初球を手堅く送りバントして、ワンアウト、二、三塁になり、打順は一番に戻った。一番バッターは明智と同期の岡本だ。
北条は「ボールになってもいいから際どいコースに投げろ」とサインを出した。
ネネはコーナー、ギリギリに投げ込むが、選球眼が良い岡本はフォアボールを選び、ワンアウト満塁に変わる。
「ボロボロですね、ネネのやつ」
ヘルメットをかぶりながら、三番バッターの西田が児嶋に話しかけた。
「ああ、一度失った指先の感覚は戻らない。ホップするストレートが投げれなくなったアイツの選手生命は終わりだよ」
(……恐ろしい人だな、あれだけ親しげに接していたのに、こんな残酷な戦法を考えていたなんて)
西田は改めて児嶋の恐ろしさを知った。
ワンアウト満塁で、ファルコンズは二番バッター梅田慎太郎を打席に迎える。
35歳のベテラン、背番号は23。30歳のときにファルコンズからメジャーへ渡ったが、昨年、日本球界に復帰した。パンチ力もあるバッターで左打席に入る。
(一発もあるし、小技も得意だが、ここは長打は避けたい。まずはこの球で様子を見るか)
北条は外角低めにミットを構える。
ネネは頷き、ストレートを投じた。しかし、その球を梅田は上手く捉える。
カキン!
流し打ったボールは鋭くレフトの前へ飛んだ。すると、レフト浅野が頭から打球に突っ込んだ。
グラウンドにダイブした浅野は見事打球をキャッチした。しかし、その態勢を見たファルコンズ三塁コーチャーは「ゴー!」と手を回した。
三塁ランナーはタッチアップ。浅野が素早く立ち上がると、サードの勇次郎が手を上げているのが目に入った。
「浅野さん!」
「……頼む!」
浅野からのボールをカットした勇次郎はすぐさまホームに矢のような返球。三塁ランナーが突っ込みクロスプレーとなり、北条が必死でタッチを試みる。
「アウトォ!」
審判の手が上がる。間一髪でアウト、スタンドからは大歓声。この回もネネは何とか無得点で凌いだ。
「ナイスガッツです、浅野さん」
勇次郎が浅野を待ち構えて、グラブタッチをする。
「へっ、出番が少ないから、ここらで活躍しとかないと忘れられちまうからな」
浅野はニヤッと笑う。
浅野昭明は一昨年の大卒ドラフト一位選手、ポジションはレフトで背番号は8、一年目からレギュラーを張っていて、地味ながら味のあるプレイヤーだ。
「よくやった! 浅野、勇次郎!」
ベンチで今川監督が手を叩き、ネネもふたりに頭を下げた。
「さあ、いくぞ、ネネ!」
杉山コーチが声をかける。
「はい、あ、でも……」
ネネは北条を見た。五回裏は六番の斎藤からの打順なので、八番のキャッチャー北条までは確実に打順は回る。
「杉山コーチ。俺、受けますよ」
すると、レガースを着けた背番号2の選手が声をかけてきた。それは、昨年まで正捕手を務めていた、もうひとりのキャッチャー藤堂俊介だった。年齢は28歳。
持病の腰痛を持つ北条と併用され、朝倉や松永といった中堅選手と組むことが多い。
「ネネ、いくぞ」
「ありがとうございます……藤堂さん」
ネネはベンチ前に向かっていく。
ネネが一塁ベンチ前でピッチング練習を始めだすと、キャッチャーの児嶋はニヤッと笑った。
(いくら投げても無駄だよ。田村監督が言っていた。あのスライダーは破滅の変化球。速球派のピッチャー殺しの変化球だと……)
六番の斎藤がレフトフライに倒れ、七番の浅野が粘っている。そんな中、ネネは渾身のストレートを投げ込むが、ボールは伸びない。
「やっぱりダメか……」
杉山コーチが藤堂の後ろで首を振る。
由紀は心配そうにベンチからネネを見つめた。すると、ネネがボールを持ったままベンチの今川監督の元に歩いてきた。
「どうした?」
ネネは目に涙をためながら口を開いた。
「な……投げれません。ホップするストレートが……私……これ以上、チームに迷惑をかけたくありません……こ、交代させてください…」
「ダメだ」
しかし、ネネの懇願を今川監督は即座に断った。
「お前のストレートが復活するまで、交代はさせない」
「そ、そんな無茶な……」
「ここで交代したら、お前は二度とあのホップするストレートを投げることが出来なくなる。そうなったら、お前のプロ野球人生は終わりだ。本当にそれでいいのか?」
「で……でも、どうしても投げれないんです……」
「なあ、ネネ、思い出すんだ。お前だって初めから、ホップするストレートを投げてたわけじゃない。何かきっかけがあったはずだ。思い出せ、それは何だ?」
「き、きっかけ……?」
(い、いつからだ? 私がホップするストレートを投げ出したのは?)
その時、自陣ベンチからネネに向かって大声が飛んだ。
「19対0! あとウチが1点取ったら、この試合はコールドだ!」
その声の主は勇次郎だった。バットとヘルメットを持ってベンチから出てきている。
「ノーアウト満塁、代打、織田勇次郎だ。投げてみろよ、ヘボピッチャー」