第143話「猫の首に鈴を付けろ」⑥
二回裏のレジスタンスの攻撃、四番の勇次郎がツーベースを放ち、続く五番黒田は深いセカンドゴロで、その間に勇次郎は三塁へ。
そして、六番斎藤が犠牲フライを打ち、レジスタンスが一点を先制した。
三回表はファルコンズ七番からの攻撃だったが、ネネは瞬く間にふたりをアウトに仕留め、九番のピッチャー板倉を迎える。
しかし、好投するネネとは裏腹にベンチで由紀は首をかしげていた。
「どうした? 浅井」
今川監督が声をかける。
「いや……今日のネネはいつもより三振が少ないなあって思って……」
そう、この日のネネはバッターを追い込むが三振が取れていなかった。
キン! 会話の最中、ツーストライクまで追い込まれた板倉が鋭い当たりを放った。ボールは一、二塁間に飛んでいく。
しかし、深い所で蜂須賀がボールを押さえ、素早く一塁に投げてアウト。この回もネネは無失点に押さえた。
ネネは蜂須賀とグラブタッチをしてベンチに戻る。
(確かにおかしいな。アイツがピッチャーにあれだけ良い当たりをされるなんて……しかも、今日はゴロが多い。アイツの球質ならバットはボールの下を叩きフライになるはずだが……)
今川監督も異変に気付き、北条を呼んだ。
「北条……今日のネネは何かおかしくないか?」
「いや……特には……」
「今のところノーヒットだから、気のせいか……」
「……ただ、ちょっと気になることはあります」
「何だ?」
「今日のネネのボールは……何というか凄みがありません。スピードは140キロ出てますが……」
「ふ──む……」
今川監督は腕組みして厳しい顔をした。
一方のファルコンズベンチでは、児嶋が防具を付けながら板倉に話しかけていた。
「さっきの羽柴寧々の球はどうだった?」
「はい、児嶋さんのいう通りの球でした」
「そうか」
児嶋はニヤッと笑った。
「よし、この回をしっかり押さえて、化け猫退治といくか」
三回裏、レジスタンスの攻撃は八番北条からだったが、三者凡退で終わり、四回表ファルコンズの攻撃は一番に戻り岡本からだ。
ここまでファルコンズはネネの前にノーヒットに抑えられている。この回もネネはテンポ良いピッチングで、岡本をツーストライクまで追い込んだ。
(何か迫力がないと思っていたが、気のせいか……)
北条は決め球に、内角高めのホップするストレートを要求。ネネは振りかぶると、ライジングストレートを投じた。
糸を引くようなストレートが内角高めに飛んでいく。
(よし! 伸びろ!)
だが、北条がそう思った瞬間、岡本のバットが一閃した。
カキーン!
快音を残し、ボールは左中間に飛んでいきフェンス直撃。岡本は悠々と二塁に到達し、ツーベースヒットだ。
(な、何だ今の球は……ネネの球がホップしなかったぞ……)
北条はスピードガンを見た。表示は140キロ。
(スピードは出ている……なぜだ……?)
ネネも不思議そうに自分の指を見ている。
次は二番の梅田。北条は沈むストレートを要求し、際どいコースを突き、カウント3-2のフルカウントに持ち込む。
(ストレートの調子が悪いなら……コレだ)
決め球は外角からストライクゾーンに落ちる『懸河のドロップ』を要求する。
ネネは頷き、左打席に立つ梅田にドロップを投じた。
ドロップは、外角から鋭く曲がり、ストライクゾーンに……落ちなかった。
ドロップが曲がらず、ボール。フォアボールにしてしまい。ノーアウト一、二塁で三番西田を迎えてしまう。
西田は左打席に入るとバットを構えた。北条は外角のアウトローにホップするストレートのサインを出した。
(初球から振ってくるぞ。いきなりホップするストレートで黙らせろ!)
ネネはセットポジションから、アウトローにライジングストレートを投じた。
アウトローにストレートが飛ぶ。
(コースは甘いが、ここから伸びてホップする!)
ミットを構えた。だが、ネネのストレートは伸びもホップもしなかった。
(な……何い!?)
カキン!
アウトローの甘いストレートを西田は思い切り引っ張り、打球はレフト前に飛んだ。
「ストップ! ストップだ!」
一気にホームを狙おうとした二塁ランナー岡本を三塁コーチャーが止めた。当たりが良かったことに加えて、レフト斎藤から矢のような返球があったからだ。しかし、このヒットでノーアウト満塁となってしまった。
「タイム!」
このピンチに北条をはじめ、内野陣がマウンドに集まった。
「どうした、ネネ? なぜホップするストレートを投げない?」
北条が声をかけるが、ネネは青い顔で口を開いた。
「な……投げてます……で、でも……」
「何だ?」
「指が……指がボールにかからないんです……い、いつものようにボールを弾けなくて……」
「な、何い!?」
思わず全員が声を上げた。
「ま、まさか、投げれないのか? ホップするストレートが……?」
ネネは青い顔で頷いた。
北条も青ざめた。
女性のネネが男だらけのプロの世界でやっていけるのはホップするストレート……ライジングストレートがあるからだ。その唯一無二の武器が投げれないということは、ネネは並以下の投手に成り下がり、投手生命の終わりを意味する。
「ほ、北条さん……わ、私……どうすれば……?」
ネネは今にも泣きだしそうな顔で北条を見つめた。
「お……落ち着け、ネネ!」
北条はネネを落ち着かせる。
「……とにかく、今、できることで、この回を凌ごう。ウイニングショットにドロップを使って……」
「そ……そのドロップも指がうまくかからないんです……」
「な、何い!?」
北条は先程のドロップの軌道を思い出した。確かにネネが投じたドロップはいつもの鋭い変化ではなかった。
(ストレートだけじゃなく、ドロップもだと? 一体コイツに何が起こってるんだ……?)
「それならツーシームとスライダーで抑えるしかないんじゃないか? それで、この回を凌いで、その間に指先の感覚を取り戻すしかないよな」
明智が提案して、皆が頷いた。
「ネネ……」
北条がネネに声をかける。
「とりあえず、ツーシームとスライダーで、この回を凌ごう」
ネネは力なく頷いた。勇次郎はその光景を無言で眺めていた。
内野陣が自分のポジションに戻る。状況はノーアウト満塁、迎えるバッターは四番児嶋だ。
バッターボックスに入る児嶋に北条が声をかけた。
「テメエ……ネネに何をしやがった?」
「いやだなあ、北条さん。僕は何もしてませんよ」
児嶋はニコニコしながら、バットを構える。
児嶋を睨みながら、北条はサインを出した。
(本当にホップするストレートが投げれないのか、確かめるしかない……)
マウンドのネネは顔面蒼白のままセットポジションに構えた。
北条のサインは、ボールになる高めのストレート。但し「思い切り腕を振れ」の指示だ。セットポジションに構えたネネは、幼い頃からの日課だった「石投げ」を思い出していた。
(大阪に出てきてからは一回も石投げをしていない。それで指の感覚を忘れてしまったのか? いや、そんなことはない! 子供の頃から何百……いや何千回も投げてきた石投げは私のルーツだ!)
左足を踏み出し、右腕を引き絞ると、いつもと同じようにボールを強く弾いた。
(いけえ!)
渾身のストレートがミットに飛び込んだ。しかし、ストレートが伸びない。ホップしない。
「ボール!」
審判のコールが無情に響く。
ネネはマウンドに呆然と立ち尽くすと、自分の最大の武器が失われたことを知った。