第125話「私を野球に連れてって」中編
7月7日の日曜日、菜々はこの前のボーナスで買ったお気に入りの白いワンピースを着て、二階の部屋から一階に降りた。
「菜々、誕生日おめでとう。今日はご飯いらないんだよね?」
玄関に向かおうとすると、台所から母の声が聞こえてきた。
「う、うん……友達と食べてくるから……」
そう答えると「ケーキは予約してあるから、夕方、取りにいってくるからな」と、リビングで父がスポーツ新聞を見ながら声をかけてきた。
「あ、ありがとう、お父さん」
いそいそと家を出ようした菜々だったが、トイレから出てきた妹のキキに見つかった。
「あれ──? すごいおめかしじゃん。メイクもバッチリだし」
キキは菜々の格好をジロジロと見た。
「う、うん、ちょっとね……」
菜々がそう答えると「あ、そ──か! 菜々ちゃん、今日、誕生日だもんね! 彼氏とデートかあ!」とキキが声を上げ、その言葉を聞いた父は、広げていた新聞をバサッと落とした。
「ち、違うよ!」と菜々はしどろもどろで答えると「行ってきます!」と言い、そそくさと家を出て行った。
「な、菜々がデート……」
男の影が全くなかった菜々がデートと聞いて、父は呆然としている。
「まあまあ、親父殿、姉上も今日で22だ。彼氏のひとりやふたりいてもおかしくなかろう」
キキはニヤニヤしながら父の肩を叩くと、冷蔵庫からアイスを取り出し、ソファーに寝転ぶとスマホをチェックしだした。
「全く……逆にアンタは遊びすぎなのよ」
台所の母がため息をつく。
三女のキキは自由人でマイペース。恋愛に奥手な菜々やネネと違い、コミュ力がお化けなため、恋愛にも積極的で彼氏が途切れたことがない。
「あれ?」
すると、突然キキがスマホを見て声をあげた。
「どうした?」
「ネネちゃんからLINE来てたよ……あ! やっぱり菜々ちゃん、彼氏とデートみたいだね。しかもドームで野球観戦だって」
その言葉を聞いた父は新聞を拾い上げた。
「え? 菜々がドームに? キキ、本当かそれ!?」
「うん、ネネちゃんが誕生日プレゼントにドームのチケットを送ったって」
「え……!? じゃあ、この事を菜々は知ってるのか!?」
父はスポーツ新聞を開いて見せた。母親も何事かと新聞を覗き込む。
「え! ええ!?」
記事を見て、キキと母親は驚きの声を上げた。
そして、待ち合わせ場所の地下鉄「ドーム駅前」の改札口。菜々は白いワンピースを着て立っていた。
目の前をTレックスのチームカラーである赤のユニフォームや応援グッズを持った人たちが通り過ぎていく。
菜々は時計を見て時間を確認した。
(ああ……緊張する。まさか、長田先輩とふたりで野球観戦に来ることになるとは……)
昨日、ネネに長田先輩と一緒に野球観戦に行くことになった、と報告のLINEをしたら「やったね! おめでとう!」というメッセージが入り、彼氏じゃない、と説明するも既読スルーされた。
(さっきはキキにからかわれるし、全くウチの妹ふたりは……)
と菜々はため息を吐いた。
「羽柴、悪い悪い、遅くなって!」
待ち合わせ時間より五分遅れて、長田が到着した。
「だ、大丈夫です。私もついさっき来たばかりだから……」
緊張のあまり待ち合わせの三十分前に来ていたとはとても言えない。
長田はTレックスの赤のユニフォームを着ている。ふたりは連れだって長い地下通路を歩きドームに向かった。
駅の出口から地上に出ると、目の前に巨大なTレックスドームが見えた。
「え? 羽柴はTレックスドームに来るのは、初めてなのか?」
「は、はい……父や妹はよく来てましたが、私はあまりプロ野球に興味がなく、実はTレックスドームは初めてなんです……」
菜々はおずおずと話した。
「そっか……じゃあ今日は誘って悪かったかな?」
「い、いえ! 全然! 妹の試合も何度か見ているし、野球もルールは分かるから大丈夫です!」
「そっか、それなら良かった」
長田はホッとした顔で笑った。
指定された入場口に着き、セキュリティゾーンを通過してドームへ入場すると、無料のユニフォームが貰えた。赤色の可愛いユニフォームだった。
「今日は七夕だから、こういうイベントをやってるんだ」
と長田が説明する。
「羽柴、羽織ってみろよ」
長田に促され、菜々は白いワンピースの上から真っ赤なユニフォームを羽織った。
「お──、やっぱり女性用っていうだけあって、可愛いな」
可愛いと言われ、菜々は照れた。
「写メ撮ってやるよ。そこに立ってごらん」
長田が写メを撮ってくれた。
「うん、いい感じだ。後で写メ、送るよ」
恋人みたいな雰囲気で菜々は嬉しかった。
チケットの番号を見ながらスタンドに入った。球場内は冷房が効いていて涼しく、眼前には緑の人工芝が広がっている。
指定された席に着いてみて長田は驚いた。そこは何とバックネット裏の席だったのだ。目の前からマウンドが見える特等席だ。
「え……!? この席はシーズンシートで、一般じゃ販売されてないレアシートだよ! まさか、こんないい席で見れるなんて夢みたいだ!」
長田はとても喜んでいる。
「うわ〜、テンション上がるわあ、羽柴の妹さんに感謝だよ」
「良かったです。喜んでくれて……あ、ネネにお礼のLINEを送っておきますね」
菜々はネネにLINEを送ろうとしたが、長田が「あ、妹さんに連絡するのは試合の後の方がいいと思うよ。今日は先発みたいだから」と口を開いた。
「え? 先発?」
「あれ? 知らなかったのか? ほらアレ」
長田がオーロラビジョンを指さした。そこには予告先発投手の名前があり「大阪レジスタンス 羽柴寧々」の文字が映し出されていた。
「え? えええええ!?」
菜々は思わず声を上げた。
「きょ、今日はネネが投げる日だったの……!?」
「あ……知らなかったんだ。そうだよ、今日は妹さんが投げるんだよ」
(全く知らなかった……)
グラウンドを見ると、ビジター用のユニフォームに身を包み、レジスタンスの選手が練習をしていた。
「じゃ、じゃあ、ネネはどこ?」
「妹さんなら、あそこにいるよ」
長田がライト方向を指さした。そこにはひとりだけ小柄な背番号41の選手がいた。ネネだった。キャッチボールをしている。
ネネを生で見るのは三月のキングダムドーム以来で、元気そうなネネを見て菜々はホッとした。
「しかし、すごいよね」
長田が感心しながら言った。
「え……?」
「妹さん、ライトからレフトへキャッチボールしてるだろ。あの距離を投げるなんて、普通はないよ。相当、肩が強い証拠だよ」
「そ、そうなんですか……」
「しかも、投げたボールが全然失速してない。かなり良いスピンがかかってるよ」
ネネのことを褒められた菜々は嬉しくなった。
「でも、妹さんが投げるなら今日は複雑だな。どっちも応援しないといけないし」
長田は苦笑する。
「いえ! ネネには申し訳ないですが、今日だけはTレックスを応援します!」
「そうか、じゃあ腹も減ったし、買い出しに行こうか? 美味しい味噌串カツの店があるんだ」
「はい!」
ふたりは仲良く買い出しに出かけた。
そして、試合開始の一時間前、ミーティングが終わったレジスタンスナインは各々リラックスしていた。
「どうした? ネネ。今日は嬉しそうだな」
北条がネネに声をかけた。
「えへへ、分かります? 実は今日、ウチのお姉ちゃんが試合を見に来てるんです」
ネネはニコニコしている。
「へ──、お前、姉ちゃんいるんだ。似てんのか?」
明智が声をかけてくる。
「いいえ、全然。お姉ちゃんは私と違って、おしとやかでとても優しいです」
「ウチの兄貴が言うには、かなり美人だって言ってたぜ」
勇次郎も会話に加わってきた。勇次郎の兄はキングダムドームで菜々と面識がある。
「そう! お姉ちゃんはホント、キレイなの! 今日は会社の先輩とデートで来てるのよ」
「何だ男連れか、紹介してもらおうと思ったけど残念だな」
明智が笑いながら言う。
「ダメですよ。ウチのお姉ちゃんは真面目だから、明智さんみたいな遊び人には絶対に会わせません」
ネネがそう言うと、皆、ドッと笑った。
一方、菜々と長田は試合開始を待っていた。今日は七夕ということで始球式やらダンスイベントのセレモニーがグラウンドで繰り広げられている。
「野球以外にも楽しいイベントがあるんですね」
菜々はセレモニーを見つめる。
「うん、ファンサービスの一環で子供や女性、家族が楽しめるイベントをやってるんだ。例えば今日の趣旨はTレックスのイメージカラーの赤で球場全体を埋めよう、とかね」
よく見ると、レジスタンスの応援席レフトスタンド以外は赤で染まっている。
試合開始三十分前になると、スターティングメンバーが発表された。
「ビジター……レジスタンスのメンバーが紹介されてから、ホームのTレックスのメンバー紹介があるんだ」
と長田が説明してくれる。レジスタンスメンバーの紹介はアナウンスのみだが、選手名がアナウンスされる度にレフトスタンドから声援が飛んだ。
「……九番ピッチャー、羽柴寧々、背番号41」
ネネの名前がコールされると「羽柴! 羽柴!」とレフトスタンドから応援団の大声援が飛んだ。
(わあ……すごい、みんなネネの名前を呼んでる)
菜々は小さく拍手をした。ところが……。
「ケッ、あのブスが先発かよ。舐められたもんだなTレックスも」
「全くだ、オンナのくせに野球なんかやりやがって目障りだぜ」
「どうせ監督やコーチに色目使って、贔屓してもらってるんだろう」
ネネに対する悪口が聞こえてきた。
菜々はムッとして、悪口が聞こえてきた右斜め後ろを見た。そこにはいかにもガラが悪そうなビールを飲む中年組の男が三人がいた。
「ここはTレックスの応援席だから、ある程度の野次は仕方ないけど、アレはちょっとひどいな」
長田が弁護してくれたが、菜々はどうも胸の奥がザワザワして、両手の拳をグッと握った。