第120話「投手という人種」前編
『羽柴寧々は本格派の速球ピッチャー』
その言葉を聞いて、一瞬呆然とした天海だったが、すぐに我に返ると伴に噛みついた。
「な、何、言ってんだよ!? 俺だろうが!? 球界を代表する本格派の速球ピッチャーって言ったら、俺しかいないだろうが!」
そんな天海を伴は冷ややかに見つめた。
「……違うな、お前はバランス型のピッチャーだ」
「な……!?」
「ストレート、変化球を高いレベルで使いこなし、打者を翻弄する。お前は天才だよ、素晴らしいピッチャーだ」
「だ、だったら何で……?」
「俺は何もお前が羽柴寧々より劣っているとは言っていない。ただ、アイツはストレートだけで勝負できるピッチャーだ、って言ってるだけだ」
天海は黙って聞いている。
「そんなピッチャーは近代プロ野球では絶滅危惧種だ。そして……そのタイプのピッチャーなら、間違いなく続投してくる」
伴は再び相手ベンチを見つめた。
一方のレジスタンスベンチ。ネネは今川監督のユニフォームを掴み続投を訴えていた。
「はあ? 何、言ってんだ。交代だ、交代! ったく……」
しかし、ネネは今川監督のユニフォームをグッと掴んで離さない。
「いい加減にしろよ、テメェ、女だからって俺が怒らねえ保証はねえぞ」
今川監督の声に怒気が滲み、ベンチ内に緊張が走った。
「女……だからですか……?」
「はあ?」
「交代させるのは私が女だからですよね? 私が女で男より体力がないから信用してない。だから交代させるんですよね」
今川監督の顔が段々と紅潮していく。怒りを必死で抑え込んでいるようだった。
「上等だよ……監督に向かって、よくそんな口を叩けるな? 俺の顔を見てもう一回言ってみろや」
怒る今川監督はネネからタオルを剥ぎ取った。ネネの鼻血は止まったみたいだったが、鼻のあたりが血の跡で真っ赤になっていて、目も真っ赤だった。
ネネは今川監督の目をしっかり見て、口を開いた。
「わ、私、まだ投げれます……絶対に天海さんより先にマウンドを降りたくありません……お願いです。最後まで投げさせてください……」
今川監督はため息をついた。
「……おい浅井、説得してくれ。このじゃじゃ馬、もう手に負えんわ」
そう言うとネネから離れて、代わりに由紀がネネの隣に座った。
「……ネネ、鼻血は大丈夫?」
ネネはコクコクと首を縦にふる。
「ネネ……女だからとかじゃないのよ。あなたの身体が心配なの……だから交代なの……」
由紀が説得するが、ネネは首を振る。
「ネネ……ワガママ言わないで、今、同点なの、このまま投げ続けたら、チームが負けちゃうかもしれないんだよ……」
ネネの目に涙が浮かんだが、その涙をタオルでグッと拭った。
「チームが負けるのはイヤ……でも自分がこのままマウンドを降りるのはもっとイヤ……」
「チッ、何てワガママなヤロウだ。もう限界だ。ブルペンに電話をかけるぞ」
今川監督がブルペンに繋がる電話に手を伸ばした。
「ま、待って!」
すると、由紀が大声を出して今川監督を止めた。
「……何だよ?」
「わ……私、何かの本で読んだことがあります……ピッチャーは……我が強くないと務まらない。それがピッチャーという人種だって……」
「あん? 何が言いたいんだよ?」
由紀はネネの目をじっと見た。
「ネネ……ノーアウト二塁よ。もうこれ以上、点はやれないわよ」
「や、やらないもん……もう一点だって、やらないもん……」
ネネの目は死んでいない。そう判断した由紀はネネの額に手を当てた。熱はない。汗も引いて鼻血も止まっている。
「ちょっと待ってて」
由紀はクーラーボックスの中から、飲むゼリーを取り出しネネの手に握らせた。
「鉄分補給の飲むゼリーよ。これを飲みなさい」
そう言うと、今川監督を見つめた。
「監督……ネネは大丈夫です、続投させてあげてください」
「はあ!? お前まで何考えてやがんだ!」
「これも……ネネがプロでやっていくための通過儀礼ですよね?」
「う……」
由紀はニッコリ笑い、今川監督は苦々しい顔をした。
ネネがマウンドから降りて10分が経った。バンディッツの岡田監督から抗議を受けて、審判がレジスタンスベンチに向かおうとしたときだった。ベンチからネネが飛び出してきた。
「な……何い!?」
バンディッツベンチから、驚きの声が上がった。
(な、投げるのか!? あの女……!)
天海は驚愕し、スタンドからは拍手が起こった。
「ガンバレ─! ネネ──!」
由紀がベンチから声を張り上げると、ネネは右手を上げた。
「おい……この回、一本でもヒットを打たれたら交代させるからな!」
今川監督は腕組みして怒っているが、由紀はニッコリと笑った。
「大丈夫、ネネは生まれながらのピッチャーです。絶対に完投しますよ」
長い中断の後、試合は再開された。ネネはマウンドで風を感じていた。
(……涼しい)
時刻は午後八時を過ぎ、グラウンドには山の涼しい空気が流れ込んでいる。
(こんなに涼しくなるんだ……それと、鼻血を出したせいか、頭はなぜかクリアになった。手足の感覚も問題ない。熱も下がった)
ネネは二塁ランナーを牽制しながら、六番バッターを睨みつけると、セットポジションに構え、内角にライジングストレートを放った。
「ストライク!」
バッターのバットが空を切る。
「よし、ナイスボールだ!」
北条から投げ返されたボールをネネは笑顔で受け取った。