第119話「続・オーバーザトップ」
七回の表、レジスタンスは五番から始まる好打順。その攻撃の間、ネネはベンチ裏で再びアンダーシャツを着替えていた。
「ホント、暑くて嫌になっちゃうわ。この球場は……」
着替え終わったネネは苦笑いしながら、衝立の裏から出てくる。
「ネネ、大丈夫? 勝ち投手の権利は得てるんだから、交代しても誰も文句は言わないわよ」
由紀は心配そうにネネにスポーツドリンクを手渡した。
「大丈夫、今日は絶対に完投したいの」
ネネは笑いながらドリンクを飲んだ。
「そう……じゃあ、着替えたアンダーシャツを畳んでおくわね」
由紀は積まれているシャツに手を伸ばした。
「や、やだ──! 私の汗がついたシャツなんか触っちゃダメ──! 汚いよ──!」
「? 何言ってんの? 全然平気よ」
「ダメ、ダメ、ダメ──! 由紀さんにそんなことさせられないよ! 後で私が必ず畳んでおくから、絶対触っちゃダメ──!」
ネネが必死で止めるので、由紀は苦笑いした。
そうこうしている間に、三者凡退で七回表レジスタンスの攻撃が終わったので、ネネは帽子をグッと被り直し、ベンチを出ようとした。
「ネネ、頑張れよ! あと三回だ!」
ベンチから声が飛び、ネネはガッツポーズをしてベンチから飛び出した。その時だ──。
「あっ……!」
ネネはベンチの段差につまずき転びそうになった。
「ね……ネネ! 大丈夫!?」
由紀が心配して声を掛けるが、ネネは「大丈夫、大丈夫」と笑顔を見せてマウンドに向かった。
その時、勇次郎はネネの歩く姿を見て、あることに気付いた。
ネネがマウンドに立つ前から汗をかいているのだ。そしてよく見れば、足取りも重いように見えた。
(前にも似たようなことがあったぞ。あれは確か一軍との紅白戦の時……)
勇次郎は何か嫌な予感がした。
七回の裏、バンディッツ、ラッキーセブンの攻撃は三番宇野のクリーナップから始まる。
チーム屈指の身体能力を持つ宇野に対し、ツーストライクまで追い込むが、三球目のストレートを上手く打たれてセンター前に運ばれる。
いきなり、ノーアウト一塁だ。マウンドのネネは汗を拭っている。
「おっ、寒くなってきたな。六月の夜はまだ冷えるか」
ベンチでは今川監督が両手をこすりながら、身体をブルっと震わせた。
バンディッツドームは周囲が山に囲まれているため気温の上下が激しい。先程まで蒸し暑かった球場には、山からの涼しい空気が流れ込み、今度は気温が急激に下がっている。
そんな状況下で、四番の与那覇を迎えたマウンドのネネは滝のように流れる汗を拭っている。
その姿を見て由紀は思わずベンチから手を出した。涼しい空気が手に当たった。
(急激に気温が下がった……ということは、マウンドもそんなに暑くはないはず。それなのに何でネネはあんなに汗を……?)
すると突然、由紀の頭に「ある」考えが浮かび、由紀は弾かれたようにベンチ裏に走った。
急いでネネが着替えていた衝立の場所に来た。そこにはネネが脱ぎ捨てたアンダーシャツが何枚もあった。由紀は息を呑みながらシャツを手に取り、そして背筋が凍った。
ネネが脱ぎ捨てたアンダーシャツは、土砂降りの雨に当たったかのように汗でぐっしょりと濡れていたのだ。
(な……何、コレ……? 汗? 汗でこんなになるもんなの!?)
由紀は他のシャツにも手を伸ばした。どのシャツも尋常ではない汗で濡れている。
由紀は沖縄キャンプで行われた一軍対二軍の紅白戦を思い出した。
(あ、あの時と同じだ……)
限界を超えたネネは異常な高熱を出して、その後、急激に体温が下がると意識を失った。
(ネネはとっくに限界を超えて……)
『汚いから触っちゃダメー!』
ネネが必死で自分を止めた姿を思い出す。
(ち……違う……ネネは悟られたくなかったんだ。自分の身体の異変を……)
由紀の目から涙がこぼれた。
(私……マネージャー失格だ……ネネのこと何も分かってなかった……あの娘は絶対に弱音を吐かないことを……)
その時、グラウンドから歓声が聞こえてきたので、由紀は急いでベンチに戻った。
グラウンドには汗を拭くネネの姿。そして、二塁ベース上には五番のクルーズ、スコアボードにはバンディッツ七回裏に「2」の数字が見えた。
「な、何があったの……?」
由紀が今川監督に尋ねた。
「四番与那覇に四球、五番クルーズに二塁打を打たれて同点だ」
今川監督は渋い顔をする。スコアは2対2の同点。その間もネネはずっと汗を拭っている。
その時、審判が北条に何かを話しかけて、試合を止めた。
「ん? どうした?」
「ち、血……!」
由紀が声をあげた。ネネの顔から血が……正確に言うと鼻血が出ていた。
「羽柴選手、治療のため一旦ベンチに下がります」
アナウンスが入り、ネネは鼻を押さえながらベンチに戻ってきた。
「はは……鼻を擦りすぎちゃった」
ネネは笑いながらタオルで鼻を押さえた。
「ネネ……」
由紀はネネを見つめる。ネネはタオルを顔全体に当てているが、鼻から出た血で白いタオルに赤く染まっている。
(本当に鼻を擦ったのが原因だろうか? もしかして何か身体に異常が……?)
由紀が心配していると、今川監督がネネの肩に手を置いた。
「よく投げた。あとは中継ぎに任せろ」
そう言って交代を告げようとしたが、そんな今川監督のユニフォームをネネは掴んだ。
「何だ?」
「……嫌です。交代なんてしません。まだ投げます」
「はあ?」
ネネはタオルで顔を押さえながらそう言った。
一方、バンディッツベンチではネネがベンチに下がったのを見て、天海が軽口を叩いていた。
「ようやく点が入ったか……しかも相手は鼻血出してダウンだし、これで終わりだな」
「そうかな……?」
伴は相手ベンチを見ながらボソッと呟いた。
「アイツはまだ終わっていない。必ずマウンドに戻ってくるぞ」
天海は伴を睨んだ。
「何なんだよ伴さん。さっきから、あの女を持ち上げて……そんなにあの女が優れたピッチャーなのかよ!?」
「そうだ」
「はあ?」
「身体全体をフルに使ったピッチング、強い精神力……アイツは近代プロ野球では絶滅した昭和のピッチャー……そして、本格派の速球ピッチャーだ」
伴は少しも迷いなく言い放ち、天海はその言葉に呆然とした。