第107話「お父さん」
北条は目を疑った。
キングダムの執拗な攻撃で弱点を炙り出された上、野次にさらされ、ボロボロになっていたネネが笑っていたからだ。
(な、何が起こったんだ?)
見間違いじゃないかと、もう一度見つめたが、ネネは確かに笑顔を見せていた。
ネネは強がりでも虚勢でもなく、また心が壊れたわけでもなかった。
ただ、父のことを思い出していた。それが笑みを浮かべた理由だった。
(この曲……確か草野球の帰り道にお父さんと一緒に聞いた……)
ネネの父親はサザンオールスターズが好きで、いつも車の中で曲がかかっていた。
キングダム藤本の登場曲の「波乗りジョニー」のテンポの良いメロディと歌声はネネに父との記憶を思い出させていた。
(お父さん……)
ネネは笑みを浮かべながら天井を見上げた。
ネネの傍らにはいつもボールがあった。
物心つく前から父がネネにボールを触れさせたのだ。ネネに野球を教えたのは父だった。
(初めてボールを投げたのはいつだろう? 幼稚園? いやもっと前かも)
父とのキャッチボールの光景が浮かび上がる。
「すごいぞ、ネネ! ストライクだ!」
初めて父の構えた所に投げた日のことは今でも鮮明に思い出すことができる。
「嬉しいなあ、子供とキャッチボールすることが夢だったんだ」
そう言って、手をつないで帰った日のことも覚えている。
小学校に上がるとリトルリーグに入った。父や大人たちに混じって草野球をした。
いつも優しく温厚な父だったが、一度だけ怒られたことがある。
それは小学校四年生の時だった。夕食の時、レギュラーだったネネは他の選手の悪口を言った。すると父はもの凄く怒った。
『野球はひとりではできない。だから絶対に他の選手の悪口は言うな。グラウンドでは誰しもが平等で仲間なのだ』と。
父の言葉は今も胸に刻まれていて、ネネはそれ以来、他人の悪口を言うことをやめた。
(……そうだよ。野球はひとりじゃできない。私にはボールを受けてくれる北条さんやバックを守ってくれる野手の人たち、それから今川監督や私を支えてくれる由紀さんやスタッフの人たち、それに控えの選手がいる。私だけで野球をやってるんじゃない)
ネネはバックスクリーンを見た。スコアは3対3の同点だが『まだ同点だ』と思うと、気持ちが楽になった。
そして、父がいつも言ってたことを思い出した。
『なあネネ、野球って面白いよな。ただボールを投げて打つだけのスポーツなのに、何でこんなに楽しいのかな? だから苦しい顔しててもつまらないぞ。笑って野球をしなきゃ』
(そうだよ、笑わなきゃ。楽しく野球をしなくちゃ。お父さんがいつも言ってたもん。楽しくなきゃ、野球やってる意味がないって……)
「ヘイヘイ! 何、突っ立ってんだ! 早くマウンドを降りな!」
キングダムベンチから野次が飛んだ。
(でもね、お父さん……楽しく野球をするのが一番だけど……)
ネネは野次が飛ぶ一塁側キングダムベンチを見た。鬼塚監督と目が合う。ネネは鬼塚監督をキッと睨みつけた。
(負けたら、楽しくないよ!)
ネネの鋭い眼光に、鬼塚監督は背筋に寒気が走った。そんなことは現役時代以来だった。まるで肉食獣に睨まれたような気がした。
その頃、三塁を守る勇次郎にランナーの渡辺が話しかけていた。
「おいおい、アイツ、はよう交代させんと、そのうち泣き出すで」
渡辺がそう言うには理由がある。過去にキングダムのプレッシャーと野次に涙を浮かべ、自ら降板するピッチャーもいたからだ。
勇次郎はネネに目を移した。そして気付いた。ネネの雰囲気が変わったことに。身体中から闘志がほとばしっているようだった。
「……泣くのはそっちかもしれないですよ」
勇次郎は微かな笑みを浮かべた。
「はあ?」
「アイツはまだ死んでないですよ」
ネネはしっかり顔を上げてサインを確認した。もう目に涙はなかった。北条のサインは全力のストレート。
セットポジションに構えたネネは第一球を投じた。糸を引くようなストレートがど真ん中に決まった。
「ストライク!」
この回、久しぶりにストライクが先行した。
(ほ──。生き返っちゃったよ、この娘。何があったんだか……)
初球を見送った藤本はそのストレートの威力に感心していた。
藤本龍馬は一昨年の大卒ドラフト1位選手。元東京六大学のスター選手であり、甘いマスクで女性人気は高い。
バッティングセンスは高く、一年目は20本、昨年は30本のホームランを打っている。
将来のキングダム四番候補とも言われ、湘南の出身であることから「湘南の若大将」と呼ばれている。
キングダムベンチからは渋い顔をした鬼塚監督のサインが出たので、藤本はバントの構えをした。
(監督の指示が出たか……可哀想だけど、まだまだ揺さぶるよ、お嬢ちゃん……)
ネネはセットポジションから投球モーションに入る。藤本はバントの構え、三塁ランナーの渡辺がスタートを切る。
(動揺しろ!)
鬼塚監督はほくそ笑む。しかし、ネネは動じない。糸を引くような快速球がズバン! と藤本の胸元に決まる。
「ストライク!」
渡辺は慌てて三塁に戻る。
(な……動揺してないのか……?)
鬼塚監督は言葉を失った。また、キングダムベンチからザワザワと声が上がり始める。
「おい……アイツ、クイックモーションがスムーズになってないか?」
ネネはボールを受け取る。ミットを構える北条と昔の父の姿が重なった。
汗を拭うとき、グラブの皮の匂いがした。ネネが使っているグラブは高校入学したときに父がプレゼントしてくれたものだ。喜ぶネネを見つめる父の笑顔を思い出した。
(柴田さんも言ってくれたのに……『野球好きか?』って。それなのに、私、野球が嫌いになりかけてたよ……)
ネネは右足をプレートにかけると、北条のサインに頷いた。
(でも、お父さんのおかげで、私、思い出したよ。私は……)
左足を強く踏み込み、右腕を振り絞ると、全力でボールを弾いた。
(私は野球が好き!)
ネネの指先から弾丸のようなストレートが放たれた。
ボールは外角高め、唸りを上げてホップする。
(くっ……!)
藤本はバットを短く持ち、コンパクトにボールを叩くと、打球はピッチャー返しとなり、再びネネの顔面を襲った。
しかし、ネネはしっかりと打球を目で追い、今度はグラブでボールをボールをダイレクトにキャッチした。
それでも打球の勢いは凄まじく、ネネはバランスを崩した。
「ネネ!」
その時、自分を呼ぶ勇次郎の声が飛び込んできた。
ネネは体勢を崩しながら、素早くサードにボールを送った。
三塁ランナーの渡辺が飛び出していた。渡辺が慌てて三塁に戻るが、ネネからボールを受けた勇次郎は、いち早く渡辺にタッチした。
「アウトォ!」
三塁塁審の手が上がる。ダブルプレーで、ノーアウト三塁が一瞬の内にツーアウトランナーなしに変わった。
「く、くそお!」
アウトになった渡辺がヘルメットを叩きつけた。
「だから言ったじゃないですか」
勇次郎はボールをネネに返しながら呟いた。
「泣くのはそっちだって」
ガン!
キングダムベンチでは鬼塚監督がイスを蹴り上げる音が響き、皆が驚いた。いつもクールな鬼塚監督がここまで感情を露わにすることは珍しいからだ。
(は、羽柴寧々……何だアイツは……立ち直りやがった……くそ……くそ!)
「ボス、あまり怒ると身体に良くないと言っています」
怒る鬼塚監督が顔を上げると、そこには通訳の春日部と白人の男性がいた。
(お、おお……まだいた……羽柴寧々を倒きのめすことができる最強の刺客がまだいた……)
鬼塚監督の顔が明るくなり、アナウンスが流れる。
「東京キングダム、六番レフト、フィッシュバーン、背番号44」
かつて開幕戦でネネと対決したフィッシュバーンは巨体を揺らし、打席に向かって歩いて行った。