第103話「羽柴寧々、初打席」
「九番ピッチャー、羽柴寧々」
二回表、ワンアウトランナーなし。アナウンスが流れ、ネネが右バッターボックスに入った。
女子プロ野球選手がバッターとして初めて打席に立つ瞬間だった。カメラマン席からはシャッター音が鳴り響いた。
ベンチにいる由紀はバッターボックスのネネを不安そうな顔で見つめた。
「何だ、浅井、ネネが心配か?」
今川監督が話しかける。
「はい……もし頭や顔にボールが当たったら、と思うと……」
「ははっ、大惨事だな」
今川監督はいつもの調子でヘラヘラと笑ったので、由紀は今川監督の軽い態度に怒り「ちょ……ちょっと! そんな危険ことを何でサラッと笑って話せるのよ──!」と、いつものお約束で首を絞めた。
「ま、待て、落ち着け! セリーグにいて、先発ピッチャーである以上、必ず打席には立たないといけない! アイツが打席に立つのも、通過……」
「何なのよ、通過儀礼、通過儀礼って言えば、何でも許されると思って──!」
由紀は更に首を絞めながら、打席に立つネネの背中を不安そうに見つめた。
一方でマウンドに立つキングダム先発ピッチャーの牧野は、バッターボックスに立つネネを見て舌打ちをした。
(……ったく、世も末だぜ。まさか、女相手に投げることになるとはな)
身長158センチのネネが構えると、ストライクゾーンはかなり狭くなる。
牧野は初球に151キロのストレートを投じるが、高めに外れてワンボールとなった。
ネネは球の軌道をじっと目で追うと、大きく息を吐き出した。
「なあ、ネネはバッティングは得意なのか?」
ベンチにいる島津は近くにいた蜂須賀に声をかけた。
「いや……バント練習をしているところは見たことあるが、普通のバッティングは……」
「わ──っ!」
話の途中でドームに悲鳴が上がった。牧野の二球目がネネの頭部近くを通過したからだ。ネネは身体を捻って避けたが、打席に倒れ込んでいた。
レフトスタンド、レジスタンス応援席から怒号が飛ぶが、ピッチャーの牧野は無視している。
(プロとして打席に立つ以上、厳しいコースに球が来るのは当然さ。怖いなら、さっさと家に帰りな。お嬢ちゃん……)
しかし、ネネは冷静にユニフォームの汚れを払うと、打席に立ちバットを構えた。頭部近くのボールにも脅える様子もなかった。
続く牧野の三球目は外角低めに決まり、ワンストライク。カウントは2-1に変わる。
「ネネ……流石に打つ方はハンデがありすぎだよ……」
由紀がそう呟くと、今川監督が「いや、勇次郎がバッティングを直々に教えてるから、その成果は期待できるぜ」と言うので、全員、驚いて勇次郎を見た。
「お、オメーがネネにバッティングを教えたのか?」
島津がそう尋ねると、勇次郎は腕組みをして、じっとグラウンドを見ながら「ああ、確かにアイツにバッティングの基本は教えましたよ」と、サラリと発言した。
「まあ、基本中の基本ですけどね。アイツがどうしてもって言うから」と答えた。
「何を教えたんだ?」
「ああ……それは……」
勇次郎が話し出すと同時に、牧野の投じた球が内角いっぱいに決まった。
これでツーストライク。カウントは2-2と追い込まれた。
そして、打席に立つネネはバットを構えながら、勇次郎から教えてもらったバッティング論を頭の中で復唱していた。
『いいか? お前にはストライクゾーンが狭いという利点がある。だから、まずは自分の打てるコースを絞れ』
(そう……だからこの厳しいコースは捨ててもいい)
ネネはマウンドに立つ牧野を凝視する。牧野が振りかぶっていた。
『もうひとつの利点は、相手はお前を女ということで甘く見ていることだ。ストライクをとるために、必ずど真ん中に甘いストレートが来る。それを狙い打て』
五球目……牧野の右腕からストレートが放たれた。ネネは頭の中で勇次郎の教えを繰り返す。
『それからスイングはダウンスイング。バットを短く持って、大振りせずに狙ったコースに来た球を上から叩きつけるように打て』
(来た! ど真ん中のストレートだ! 見ててよ勇次郎!)
ネネは勇次郎の教え通り、バットを短く持ってボールを上から叩いた。
カキン!
快音を残した打球はショートの頭の上を抜けてレフト前に落ちた。
ネネはすかさず一塁に走る。レフト前へのクリーンヒットだ。
「ワアアアア!」
レジスタンスベンチからは大喝采。またスタンドからもネネの鮮やかなバッティングに拍手が起こった。
「打ちました! 羽柴寧々! 初打席初ヒット!」
実況席もネネの初ヒットを讃えている。
(な……ま、マジかよ!? 女に打たれた……?)
一方でヒットを打たれた牧野は呆然としていた。
「ナイスバッティングや。ええ振りしてたで─」
一塁を守る「番長渡辺」が笑顔で話しかけてきたので、ネネは照れ笑いした。
ネネは女性として初めて公式戦で打席に立っただけじゃない。「女性として初めてヒットを打った選手」として、NPBの歴史にまたひとつ名を刻んだ。
「いいぞ、ネネ!」
ネネの初ヒットで盛り上がるレジスタンスだが、勇次郎だけは呆然とした顔をしていた。
「どうした、勇次郎? 何、驚いている?」
今川監督が声をかけた。
「あ、アイツ、本当に打ちやがった……」
「何、言ってんのよ、勇次郎が教えたんでしょ?」
由紀が訝しんだ顔をする。
「い、いや……しかし、まさか本当にヒットを打つなんて……」
「はあ? それの何がいけないのよ?」
今川監督は勇次郎の発言を聞きながらニヤニヤしていた。
(勇次郎が驚くのも無理はねえ。ここはプロの世界、ヒットひとつ打つのも大変なのに、ネネは勇次郎に言われた通りのバッティングでヒットを打っちまいやがった。並の選手にできる芸当じゃねえ。言われたことをその通りに実践できるヤツ……それは天才としかいいようがねえ……)
勇次郎の呆然とした顔を見て、今川監督は笑っている。
(堪らんなあ、勇次郎よ。ネネのことを手放しに喜べないのは、アイツをライバルとして見ているからだろう。ククク……それともチームメイトでありながら、ネネの底知れぬ力に嫉妬してるのかね……?)
(いずれにせよ予想以上の効果だ。ネネと勇次郎、お互いがお互いを高め合っている。いけるぜ、今年のレジスタンスは)
今川監督はほくそ笑んだ。