第10話「羽柴寧々 VS 織田勇次郎再び」
織田勇次郎がグラウンドへ現れる少し前に時間は遡る。
二軍練習場に着いた織田勇次郎は更衣室で高校のユニフォームに着替えたが、気分はかなり高揚していた。
なぜなら、今日の勝負に勝てば、レジスタンスがドラフト指名権をキングダムに譲渡して、希望していたキングダムに入団できるからだ。
そして、勇次郎にはもうひとつ高揚する理由があった。
それは、あの練習試合で対戦した謎のピッチャーと再戦できる、ということだった。
キングダム入団とは別に、打者としての本能があの時のピッチャーとの対戦を求めていた。
あの練習試合の日……完璧に捉えたと確信したストレートを空振りした。
野球を始めて以来、空振りなんて何百回とある。しかし、打てると思った球を空振りしたのは初めてだった。
(何だったんだ、あのストレートは?)
あの日、謎のピッチャーが投げたボールは手元で急激に伸びてホップした。
県予選、甲子園……速い球を投げる奴は山ほどいたが、あれほど伸びのあるストレートを投げる奴はいなかった。
(お前は誰だ? なぜあんな無名校にいた? そして、なぜあんな球を投げれる?)
ずっとあのストレートの幻影を追い求めていた。だが、その答えはもうすぐ出る……。
期待と興奮を胸に、勇次郎はグラウンドにつながるベンチ裏のドアを開けた。
「おう、よく来たな! 勇次郎!」
グラウンドに出てすぐに、今川監督に声をかけられた。
(いきなり呼び捨てかよ。ホント、馴れ馴れしいなコイツ……)
勇次郎は露骨に嫌な顔をして「どうも」と挨拶をした。そして、グラウンドをぐるりと見渡すと、ある異変に気付いた。
(ん? マウンドに女がいる……誰だあれ? 何で女がマウンドに……? いや、それよりもあの時のピッチャーはどこだ?)
キョロキョロと辺りを見渡したが、それらしきピッチャーの姿は見当たらなかった。
「……あの時のピッチャーは、まだ来てないんですか?」
そう尋ねる勇次郎に今川監督はニヤニヤしながらマウンドを指差した。
「おう、あの時のピッチャーならもう来てるぞ、アイツだ」
「は?」
勇次郎はマウンドに立っている女性……ネネを見つめた。
「アレは……女じゃないですか? 俺が探しているのは、あの時のピッチャーですよ」
勇次郎はムッとした。
「だ・か・ら♪ アレが練習試合でお前から三振を奪ったピッチャーだよ。羽柴寧々って言うんだ。お前と同年代の現役女子高生だぜ」
勇次郎は一瞬思考回路がストップしたが、すぐ我に帰り、今川監督に噛み付いた。
「はあ!? アンタ、バカにするのもいい加減にしろよ! あの時のピッチャーが女だって!? からかうのもいい加減にしろ!」
「いや、俺、あの時のピッチャーが男だなんて、ひと言も言ってないよ」
ムキになる勇次郎を見て、今川監督は面白くて仕方ないといった顔でニヤニヤした。
「嘘つけ! あんな球を女が投げられるわけがないだろう!」
すると、このままでは話が進まないと思ったのか、伊藤スカウトが会話に割って入ってきた。
「織田くん……本当です。私、あの時の練習試合を見ていたスカウトですが、あの娘は自分が女と気付かれないように髪の毛を切ってたんです。あの時のピッチャーは間違いなくあの娘です」
「ば、バカな……う……嘘だろ……?」
勇次郎は改めてマウンドのネネを見て、あの日の記憶を呼び起こした。
「た、確かに、あのピッチャーは小柄で幼児体型だった……いや、でも、しかし……」
「うるさいわね! 何が幼児体型よ!?」
突然、ネネが叫んだ。ネネは怒りに満ちた顔で勇次郎を睨んでいた。
「男のくせに何なのよ!? グチグチと! あの時のピッチャーは確かに私よ!」
「な……!」
「文句ばかり言ってないで、早く打席に立ちなさいよ! それとも私と勝負するのが怖いの? 女に負けるのがそんなにイヤなの!?」
そのやり取りを聞いていた今川監督は我慢できずにゲラゲラと腹を抱えて笑いだした。
(う、嘘だろ……? あの時のピッチャーが女だって……?)
あまりに非現実的なことが起こり、勇次郎は混乱したままヘルメットを被ると打席に入った。相手が女だろうが何だろうが、勝負しないことには話が進まなかったからだ。
一方、マウンド上ではネネがスパイクで足元をならしながら怒っていた。
(頭くるわあ……何が幼児体型よ! 人が気にしていることをズバズバ言って……! アンタも今川監督と同じ、デリカシーがない人種か!)
「さあ、始めるぜ! 一打席の勝負だ!」
今川監督の大声で勝負の幕が切って落とされた。キャッチャーは伊藤スカウト。審判は杉山コーチが務める。
ネネは勇次郎を睨みつけると、ゆっくり振りかぶった。
『……幼児体型で悪かったわね! どうせ私は胸もないし、足も短いし、セクシーとは程遠い女ですよ!』
ネネは心の中で悪態を付くと、左足を高く上げ、短いテイクバックから弾丸のようなボールを投じた。
ズバン!
そして、糸を引くような伸びのあるストレートがど真ん中に突き刺さった。
「ストライク!」
勇次郎のバットはピクリとも動かず、まずはネネがストライクをひとつ奪った。
「いいぞ、ネネ!」
キャッチャーの伊藤が返球したボールをネネはフン、と言った表情で受け取った。
一方でネネの投げたボールを見た勇次郎の顔色が変わり、脳裏にはあの日の記憶が甦っていた。
(お、同じだ……あの時と同じボールだ……!)
勇次郎は改めてネネを見つめた。ネネは両手でボールを包み、指を馴染ませている。
(間違いない。コイツはあの時のピッチャーだ。スピードは目を見張る程ではないが手元でグンと伸びる。本当にコイツ女かよ……何てえボールを投げやがる……!)
その頃、マウンド上のネネは勇次郎から発する圧力をひしひしと感じていた。
(この圧力は経験がある。昨日、今川監督から発せられた圧力と同じだ。全身の体毛が逆立つような感覚……)
ネネは密かに今川監督に感謝した。昨日、この圧力を体感していなかったら、今日この圧力に屈服して投げることができなかったからだ。
『二球目はここだ』と強い意思でキャッチャーが内角低めにミットを構えた。
ネネは勇次郎の圧力を払いのけると、内角低めにストレートを投じた。
再び糸を引くような軌道のストレートがミットに飛び込んだが、これはわずかに外れてボールになった。
三球目は再び内角を攻めるが、外れてボール。
ここまで勇次郎はバットを一度も振らずにカウントは2-1(ツーボール、ワンストライク)となった。
そして四球目、キャッチャーの伊藤は内角高めを要求。ネネはキャッチャーのミットを見つめると、大きく振りかぶって渾身のストレートを投じた。
内角のストライクゾーンいっぱいにストレートが飛んでいく。
ガキン!
鈍い音がしてボールは後ろのバックネットに突き刺さった。この対決で初めて勇次郎がバットを振るがファールになった。
しかし、これでカウントは2-2(ツーボール、ツーストライク)。ネネはアウトまで、あとストライクひとつ、と勇次郎を追い込んだ。
勇次郎を追い詰めたキャッチャー伊藤はミットを外角低めに構えた。
外角低めはバッターから一番目が遠くなるコースで『アウトロー』と呼ばれる。ストレートが武器の投手には生命線となるコースだ。
ネネはプレートを踏む足を少し右に移動した。こうすることで球の軌道に角度が付き、バッターにとっては打ちにくくなる。
アウトローは杉山コーチから何度も投げ込むよう指導された。今のネネにとっては一番武器になるボールだ。
内角球を三球続けられて、バッターの脳裏にはボールの残像が焼き付いているはず。ここでバッターから目の遠くなるアウトローに投げ込んで三振に仕留める。というのが、ネネたちが立てた戦略だった。
ネネは大きく振りかぶると、指先に力を込めてボールを弾いた。
(いけえ!)
ネネが投じたボールは、唸りを上げてアウトローに飛んでいく。コースは低いが、スピンの効いたボールはホップして、ストライクゾーンに入った。
『決まった!』
と、伊藤がミットを差し出した瞬間だった。勇次郎のバットが恐ろしいスピードで一閃した。
カキーン!
勇次郎は左足を思い切り踏み込むとバットを振り抜き、アウトローの球を完璧に打った。
(ば、バカな!)
伊藤は驚愕してキャッチャーマスクを外した。
(内から外への配球。しかもコントロールと球威は完璧。プロでもそうそう打てないコースをコイツはジャストミートだと……?)
打球の行方を確認する。勇次郎が流し打った球はライト方向に大きく飛んでいった。
(や……やられた!)
ネネは思わずマウンドで両手を膝に置いて、がっくりとうなだれた。打球を確認することすらしなかった。飛距離は充分。それ程、勇次郎の打球は完璧だった。
……しかし、球はわずかに右へ切れていきポールの右側に着弾した。
「ファール!」
審判を務める杉山コーチの声でネネは顔を上げて、ボールの行方を確認した。
(ファ、ファール? 助かった……)
ネネはホッと胸を撫でおろした。
そして、ネネが安堵する一方で、勇次郎は打ち損じたといった表情をしており、また勇次郎の打った弾道を見た今川監督の背筋には寒気が走っていた。
(コイツ、典型的なプルバッター……引っ張り専門のバッターかと思っていたが、広角にも打てる万能型バッターか……右打者のくせにライト方向にあれだけ強い打球を打てるとはな……まだ高校生のくせに、バッティング技術が完成してやがる……)
ふたりの対決を見届けていた水間と真澄は手に持っているスピードガンを確認した。
スピードガンの数字は137キロを計測していた。ネネの自己最速記録だが、その球を勇次郎は完璧に捉えていた。
大ファールの後、対決は再開された。カウントは変わらず2-2のまま。
しかし、ネネの最大の武器であったアウトローへのストレートは打ち砕かれた。次に投げる球がない。
六球目、キャッチャーは真ん中高めのコースを要求。高めのボール球を振らせようとする目論見だったが、勇次郎はこの誘いには乗らず悠然と見送り、カウントは3-2とフルカウントになった。
マウンド上のネネは大きく息を吐きだした。
(参ったなあ……もう投げるコースがないよ……)
フルカウントとなり、打席に立つ勇次郎は今川監督に尋ねた。
「四球の場合は、どうなるんですか?」
「その時は、お前の勝ちだよ」
その言葉を聞いて、勇次郎は微かに笑みを浮かべた。
(圧倒的有利だな。球筋はもう把握した。お前のストレートはもう俺には通用しない。女にしてはよくやったが、ここらが限界だ)
息を呑む対決。キャッチャーの伊藤は次に投げるコースをネネに託した。
(織田勇次郎、こいつは本物だ。俺の生半可なリードでは抑えきれない……)
すると、ネネが髪を触る仕草をした。
(あ、あのサインは……!)
伊藤は即座にサインの確認を行った。
(な、投げるのか……今、ここで『あの』球を?)
伊藤の問いにネネは力強くうなずいた。