コンビニに行きたいだけなのに
じんわりと頭が痛い、午前8時の休日。部屋の三分の一を占めるベッドから身を起こし、重い頭を掻いて眼鏡をかける。パンツ一丁のまま、昨日籠に放り込んだままの服を丸ごと洗濯機に放り込み、大きな欠伸をする。目尻に一粒の涙。
ぼぅっとしたまま洗濯機の前に突っ立った俺は、ふと、空腹に気づいた。昨日夕飯を食べ損ねたのだ。
尻をかきながら、小さな冷蔵庫を開ける。中には缶ビール(これだけは辞められない!)が一缶ある。
(炊事めんど・・・。コンビニでいっか・・・)
おにぎりでも買おうと鞄を開き、財布を取り出した時にふと気が付く。
・・・着替えぶち込んじまったやんけ。
悩んだ挙句、部屋の十二分の一ほどを占める、放置されたままの段ボールを見て閃いた。段ボールを開けると、中から学生時代の短パンが一着。寝間着に使っている長ズボンやらジャージやらは、全部洗濯機の中だ。
・・・まぁ、これでいっか。
俺はのそのそと短パンを履き、ランニング用のシャツを着る。ほとんど田舎の爺ちゃんが来ていた服と一緒だなどと独り気持ち悪い笑顔を浮かべながら、財布と鍵だけを持って玄関を出た。
幸い俺の家は郊外のベッドタウンにあるので、10分も歩けばコンビニに辿り着く。実家にいたときは車で二十分が最寄りのコンビニだった。随分出世したもんだ。
真っすぐにコンビニへと歩くうちに、数人とすれ違うのだが、殆ど名前を知らない。あちらも多分そうなのだが、隣人でさえ多すぎて、よく見る顔しか分からなかった。
よくスーパーで目にするおばちゃんとすれ違う時、一瞬目が合った。会釈をして通り過ぎようとすると、おばちゃんから突然声を掛けられる。
「ちょっとあんた。諦めたらあかんよ。頑張んなさい」
「えっ?あっ・・・いや、俺は」
一瞬何のことかと思ったが、服装を見て練習中の学生か何かだと思ったのだろう。説明をしようとする俺の言葉を遮って、おばちゃんは進めた。
「若いうちにサボり癖がつくとな、うちの息子みたいに働かんと家でパソコンばっかやるようになるよ。なんか小説?みたいなの書いてるらしいけど、どんどん太ってくし、髪が伸びないって部屋でドンドン机叩いたりするんだよ。そんなんなりたくないやろ?頑張んなさい」
せ、世話焼きおばちゃん・・・!
説明をするにしても無視するにしても居心地が悪くなり、俺は渋々準備運動を始めた。
ずっと仕事と家の往復だからな。しきりに体がぽきぽきと音を立てる。おばちゃんは満足げに俺の動きを見守っており、手に持ったごみ袋のことも忘れているようだった。
勿論、コンビニまでひとっ走りするだけだ。俺だって休みの日に苦労したくない。準備運動を終えた俺は二、三回足踏みをして体を温め、いざ、学生自体以来の「走り込み」を始めることとなった。
一気に地面を蹴って駆け出すと、体中に冷たい風がぶつかってくる。おばちゃんが後ろで「頑張んな!」と大声で見送った。
おばちゃんが見えなくなると、休日出勤のスーツのおじちゃん(推定56歳)が「頑張れ!」と声を掛けてくる。くぅー!止まれねぇ!!
コンビニまでの道は善意で舗装されており、おじちゃんの声を聞いたいい匂いのする姉ちゃん(推定27歳)が、側溝近くの脇に寄りながら、「頑張ってね!」と声を掛けてくる。やめて!
さらに、姉ちゃんの子供か親戚の女の子(推定5歳)も元気な声で声援を送ってくる。ありがとう、叔父さん頑張るよ(血涙)!
ついにコンビニを通り過ぎ、小さな公園の前を横切る。子供達からの声援。ベンチに座っているメガネをかけた作家風の姉ちゃんは、大きなゴールデンレトリバーを連れている。本を手にしたまま、メガネの端からこちらをちらちらと見ている。そんな優しい眼差しを向けないでくれ!
コンビニを遥か後ろに通り過ぎ、傾斜8度の急勾配の長い坂道が立ちはだかる。思わず走るのを止める。長い、きつい。妄現役から何年か分からん。体は火照っており、学生の頃と同じくシャツがぐっしょりと濡れている。漏らしても気にならないくらいに短パンもぐっしょりだ。多分現役の時ならこんなことにはなっていないが、それでも今はかなりきつい。逃げたい。引き返したい。
ふと、背後を見ると、ごみ袋を持ったおばちゃん、父親のことを思い出すくたびれたスーツのおじちゃん、散歩中の姉ちゃんと子供、本を仕舞い、でかい犬のリードをしっかりと掴んだ姉ちゃんが立っていた。坂道にある家からぞろぞろと住人が顔を出す。
息が白く見える。
「「「頑張れ―!」」」
「うぉぉぉぉぉ!」
俺は、コンビニに行きたいだけなんだぁぁぁぁぁ!
気づけば、長い長い急こう配を、頂上まで駆け上がった。大歓声の方へと振り返る。肩で息をしながら、意味もなく片手を高く掲げた。
その時見た景色の、なんと、まぁ・・・。
そこからコンビニは見えなかった。




