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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

道路に脳みそが落ちていた話聞く?

作者: 星河雷雨



             

「道路に脳みそが落ちていた話、聞くか?」




 これは会社の飲み会で隣りに座った新人に、俺が言った言葉だ。



 俺はその時点でビールを三杯、ハイボールを二杯嗜んでいた。多少酔っていた自覚はあった。だからその話が飲み会の席でするには似つかわしくないものだということにも気付かなかったのだ。


 俺のその言葉に目を大きくしたその新人は、一度小さく唾を飲み込み、聞かせてください、と蚊の鳴くような声で答えた。


 きっと酔っぱらった先輩の戯言に付き合うのは、新人である自分の役目だとでも思ったのかもしれない。彼は真面目な性格をしているのだ。




 俺の勤めている会社はド田舎の廃れた町にある小さな印刷会社だった。社員十五人程度の小さなその会社に、五年ぶりに新人が入った。


 真面目を絵にかいたような新人だった。しかし慎重そうな見かけとは裏腹に意外とケアレスミスが多いその新人の指導には俺が当たった。新人の次に新人なのが俺だったからだ。


 その新人は悪い奴ではなかった。ミスも大したものではない。しかし全体的にドンくさい、というよりはなぜか行動すべてに小さなケチがつく。


 相手に何度も聞き返した指示を最終的には聞き間違える。メモを取ったのに、そのメモを無くす。書類のコピーをさせれば、枚数を間違え、あまつさえ紙が詰まる。会社で飯を頼んでも、彼の分だけ注文ミスをされる。彼が電話に出ると、その九割がクレーマーに当たる。どれもこれも些細なものだ。なかには彼自身のミスではないミスもかなりあった。


 平たく言えば、彼はあまりツイていない人間だった。


 だが本人の人柄も相まって、彼の小さなミスをあげつらうような奴は会社にはいなかった。彼以外に原因があるミスについては、慰めることしか出来なかった。


 しかし本人の真面目な性格ゆえに、本人はそのミスを気にしてしまっていた。自分がツイていないことに関してさえも、自分に責任があるような言動をする人間だった。


 クレーマーに関しては、きっと自分の声が相手を不快にしたのだ。注文ミスに関しては、注文を決める前に注文の品を二転三転選び直したから相手が間違えたのだ。そんな具合だった。


 責任感の強いこと、ミスを無くそうと努力すること自体は良いが、思い詰めると疲れてしまう。


 今日も例の如く会社で小さなミスを連発した彼は、飲み会の席だというのに浮かない顔をしていた。


 もっと気を抜けばいいのに。そう思った俺は俺の人生の中で一番とも言える訳の分からない目に合った話を、彼に聞かせようと思いついたのだ。


 自分のミス以外にも、よく他人からのミスや小さな悪意に遭遇するこの新人に、世の中には考えても仕方のないこともあるのだと、教えたかったのかもしれない。


「お前がこの会社に来る五年前程のことなんだけどな……」


 そう言って話はじめた俺は、当時のことを思い出していた――。


 









 ある日の帰り道。


 夜も二十三時を過ぎたと言うのに、俺は踏切の前で列車が過ぎ去るのを待っていた。この路線は夜になると貨物列車が通るため、夜でも踏切で止まることがあった。


 踏切が降りてからまた上がるまでの時間は約三分。昼間電車を待つよりもよほど長い待ち時間だ。その時間を若干イライラしながら待っていた俺は、踏切が開くや車を急発進させた。


 約二十分かかる仕事場から家までの帰り道、長い足止めを喰らうのはこの踏切だけであるため、あとはただいつも通り家まで無心で車を走らせるだけだった。


 車から流れる音楽を聴きながら運転していた俺は、進行方向の道に何か落ちていることに気が付いた。


 暗闇だったので色はよくわからなかったが、多分淡い色をしていたと思う。田舎道ではよく動物が轢かれていることがある。俺もこれまでに何度か轢かれた猫の死体を見て来たし、時には狸や兎、ハクビシンなどの野生の動物が轢かれているところにも遭遇した。一度や二度、轢かれている動物を道端に避けたこともあったが、あまりにも頻繁に遭遇するのでいつしか悪い意味で慣れてしまっていた。


 その日もきっと何らかの小動物が轢かれているのだろうと俺は判断した。踏まないように慎重に、その物体を避けようと車のスピードを落とした俺は、通り過ぎるときにちらと見た光景に違和感を覚えた。件の物体は、猫にしては小さく、ネズミにしては大きかった。そして、やはりベージュとも桜色とも取れる淡い色をしていた。


 ――あんな色の動物いたか……?


 その通り過ぎる一瞬では判断は出来なかったが、あれは恐らくベージュっぽい毛並みをした子猫か子犬だろうと俺は結論づけた。しかし自分で下したその結論に何となく納得がいかなかったのは、きっとあの物体がてらてらと光っていたからだろう。


 まるで油に濡れたかのように、その物体はてらてらと光っていたのだ。


 ――……濡れたように光っていたとなると、あの薄い色の物体は、肉がむき出しだってことか。


 肉にしては色づきが悪いような気はした。それに血がついていれば、もっと赤色が目立ったはずだ。だがその答え以外、あの物体がてらてらと光っている理由が思い浮かばなかった。


 一度そう思ってしまえば、何とも嫌な気持ちになった。一度轢いたくらいでは、肉が見えるほどの状態にはならない。きっと後続車に何度も轢かれて、あのようなことになったのだろう。血も、夜になる前のどこかでにわか雨でも降って洗い流されたのだ。そう無理に結論付けた。


 しかし戻って確かめる気持ちにはならなかった。その惨状をじっくりと見る勇気がなかったこともある。若干の後ろめたさはあったが、田舎であるため、これから朝までは車の通りはほぼないとみて朝一で役所に連絡を入れることにした俺はその場を後にした。




 そして、次の日の夜。


 俺は昨日と同じように踏切で貨物列車が通り過ぎるのを待っていた。今日は昨日よりも帰宅時間が遅く、すでに深夜零時を回っている。二日続けての残業だった。


 普段はここまで忙しい会社ではないのだが、今週は発注の締め切りが立て込んでいて社員のほとんどが俺と同じように夜中近くの退社だった。


 カンカンカンカン、という耳に馴染んだ不快な音を聞きながら、俺は貨物列車の車両の数を、何とはなしに数えていた。車両は全部で二十七もあった。しかも荷を積んでいるせいで、普通の列車よりもスピードが出ていない。


「そりゃ、待つわけだわ」


 音が止み、踏切が上がる。俺は昨日よりも慎重に車を発進させた。


 そのまま後続車も対向車もいない暗い道を進んでいると、ふと、道路に何か落ちていることに気が付いた。進行車線の真ん中に静かに存在するその物体を確認した瞬間、俺の全身は粟立った。


「嘘だろ……。朝はなかったはずなのに……」


 俺は朝夕同じ道を通っている。朝にはあの死体はすでになかったから、役所への連絡もすることはなかった。きっと俺とは違い、心の優しい人間が通りかかり片づけてくれたと思ったのだ。


 ――朝は見落としたのか? いや……夜ならまだしも、昼間の明るさで見落とすなんてことはあり得ない……。


 車の運転をし慣れている者は、道に落ちているものに敏感だ。硬く、尖ったものをタイヤで踏んでしまえば、酷い時にはクラッシュの危険性がある。それにタイヤをパンクさせてしまうだけでも、結構な費用がかかってしまう。道に落ちているものは、どんな柔らかそうなものでも踏まないように普段から気をつけているのだ。見落とすことは考えづらかった。


 となると、また同じ場所で別の動物が轢かれているということになる。


 ――なんだよ……。もしかしてこの付近の住人のペットか何かか?


 同じ場所で轢かれているということは、そこには何らかのそうなる要因があるはずだ。人相手ならば見通しが悪いなどがあるだろう。あるいは動物もそうかも知れないが、他に動物相手に考えられることといえば、轢かれた動物が同じルートを辿って道路に出た結果……たとえば、飼われている家から逃げ出して真っすぐに至る場所がこの道路だった場合などがあるだろう。野生動物が何度も同じ場所で轢かれることは、あまりないことのように思えた。


 ――死体が綺麗なら、せめて道端に避けるか……。


 誰かの大切にしていた存在かもしれない。そう思えば、急に俺の心になけなしの仏心が湧いてきた。


 俺は昨日よりもゆっくりとその道に落ちている物体に近づいた。そして近づくにつれ、俺はあることに気が付いた。


 道にあったのは、またもや薄いベージュ色をした物体だったのだ。そして昨日のように車のヘッドライトに照らされたそれは、てらてらと光っていた。


「おい……また後続車に轢かれたのかよ……」


 俺は途端に車から降りる勇気を失った。これ以上轢かれないよう道端に避けてやりたい気持ちはあった。しかし何台もの車に轢かれたであろう動物の死体を前に、冷静な行動ができる自信がなかった。もっと率直に言えばやはり怖かった。


 その場でひとしきり悩んだあと、俺は国土交通省の道路緊急ダイヤルに連絡を入れることにした。昼間なら役所に電話するのが一番早いが、夜だとそうはいかない。夜の通報の場合は、警察か道路緊急ダイヤルへの通報になる。警察への電話はなんとなく気が引けたため、道路緊急ダイヤルへと通報することにしたのだ。




 電話を切ったあと、俺はゆっくりと車を動かした。通報はしたから、俺がこの場所に留まる必要はない。ここは田舎だからすぐには向かえないと言ってはいたが、これ以降の時間は車の通りは極端に少なくなる。急ぐ必要もない。


 対向車のライトは見えなかったので、俺はその物体を大きく迂回するように対向車線を逆走する形で車を進ませた。


 見ないようにとは思っていても、自然と視線はその薄いベージュ色の物体に吸い寄せられた。怖いもの見たさとでもいうのか、せめてその悲惨な最期を目に焼き付け、車を運転するものとして自らの戒めにしようとしたのかもしれない。とにかく俺はその物体をはっきりと観測出来る速度で車を走らせた。


 物体は相変わらずてらてらと光っている。ここまで肉が露出しているとなると、相当に轢かれたはずだ。しかし、そう考える一方、俺は別のことにも気が付いていた。


 ――でもな……ここまで肉が露出する状態になれば、こんなに体積は残っていないよな、普通。

 

 何度も後続車に轢かれた動物のほとんどが、道路に張り付くように平たくなってしまう。しかしこの物体はこんもりとした体積を残したまま、てらてらとベージュ色に光っているのだ。


 ――なんか……変だな。これ、動物じゃない?


 もしかしたらこれは、誰かの悪戯ではないのか。俺はそう思った。だとしたら朝にこの物体がなかったことにも説明がつく。

 こうやって夜中の道路に謎の物体を置いて、誰かが罠にかかるのをどこかで録画でもしながら笑いをこらえて見ているのかも知れない。そう思えば、急に怒りが湧いてきた。


「くそ……! もし悪戯だったら、許さねえ」


 これが悪戯だとしたら、悪質極まりない。しかもすでにしかるべきところに連絡を入れてしまったあとなのだ。自分の仕掛けた悪戯ではないが、まんまと引っ掛かってしまった末の行動となると、夜中に呼び出される業者に対して多少の罪悪感も湧いてくるというものだ。


 だが動物の死体ではないとしても道路に異物が落ちていることは確かだ。連絡を入れたこと自体はそこまで間違った行為ではない。しかし悪戯の可能性があるとわかったからには、どうしても自分の目で確かめたいと思ってしまった。


 俺は、その物体の横を通り抜けようとしていたのをやめて、その物体の真横で車を止めた。しかし止めた一瞬後にはもし対向車が来たときには事故になる可能性を考え、もう一度車を走らせ、進行方向の道路へ戻り、道端に車を止めハザードを付けた。


 俺は鞄の中に常備している懐中電灯を手に持ち、車から降りた。会社から駐車場まで距離があるため、夜遅くなったときの対策に俺はいつも小さな懐中電灯を鞄の中に入れていたのだ。


 俺はゆっくりと車の後方、道に落ちている物体を照らしながら近づいていった。


 しかし近づくほどに、何かがおかしいと、第六感とも言えるものが俺に警告を与えて来た。ただの悪戯かも知れない。そうは思えど、背中にはいつの間にか冷や汗さえもかいている。


 一瞬確認することを止めてこのまま車に戻ろうかという気持ちになったが、しかしこれが誰かの悪戯だというのなら引き返すことでその誰かに負けてしまうのではないかという思いが、俺をその場に踏み止まらせた。


 迷うこと数十秒。周囲には車のエンジン音だけが響いている。車のライトは前方に向けられているため、後ろ側は存外暗かった。

 暗闇の中、ほぼ懐中電灯の明かりだけを頼りに、目の前には謎の物体。これで無音だったらとても耐えられる状況ではない。しかし、俺は勇気を奮い立たせて謎の物体に近づいた。


 一歩近づくごとに、その物体が詳細に見えてきた。ただのベージュ色の小山から、だんだんと正体を露にしてくるその物体。ある一点でピントが合った時、俺は思わず叫んでいた。


「うっわ……!」


 懐中電灯に照らされてらてらと光っているそれには、かなり大きな蛆が湧いていた。


 大きく一歩。 


 驚いて思わず身を引いたものの、俺はすぐにそれが蛆虫ではないことに気が付いた。一瞬動いて見えたのは錯覚で、その蛆虫らしき形状をした集合体は、実際には微動だにしていなかった。


 それが蛆虫ではなかったことに安堵はしたが、ではそれの正体は一体なんなのだという別の疑問が残る。そのベージュ色の物体をじっと観察していた俺の心臓の鼓動は段々と速まっていった。


 一見するとそれはイカの塩辛にも見えた。しかしイカの身の部分はばらけておらず、びっしりと隣同士でくっついてひとつの個体を形成していた。


 俺はこれと似たものをどこかで見たことがあると思った。そして同時に、恐らくそれは実際に見たのではなくて、写真か映像の中で見たのだろうとも思った。そうやってこの不可思議な物体にどこか既視感を覚えた俺は、その場にしゃがみ込み、さらにその正体を暴くべく物体へと近づいた。



 淡いベージュ色をした、てらてらと光る液体まみれの物体。そしてわずかに見えた赤と青の稲妻のような細い線。


「……はは、いやまさかな」


 それはまるで、正に今頭蓋から取り出したばかりとでもいうような、瑞々しい脳みそに見えた。


 だが俺は、その考えをすぐさま否定した。こんな道の真ん中に脳みそだけ落ちているなど、常識で考えられることではない。もし百歩譲ってこれが脳みそだとしたなら、そばに死体がなくてはならないが、そんな死体はどこにも見当たらない。


 しかしいくら否定しようとも、どうみてもそれは脳みそにしか見えなかった。人間ならば誰もが持っている。しかし脳外科医以外はほとんどその実物を見たことがないであろう、人の脳。それが俺の目の前に落ちていた。


 俺は声を出すことも、物体から視線を逸らすことも出来ずに、ただただその場に突っ立っていた。だがすぐに先ほど考えた可能性を思い出した。


「いや……やっぱ悪戯だな、これ」


 随分と手の込んだ悪戯だ。そう思いたかったこともあるが、俺は半ばそう結論付けた。


 しかしあまりにも良く出来ている偽物だったためか、その物体に手を伸ばし、片づける気にはなれなかった。


 ――連絡、しちまったしな……。


 連絡を入れたのならば、証拠は残しておいた方が良い。多分に言い訳めいた考えだったが、俺はその考えに従うことにした。

 しかしそうは決めたが、多少の気まずさもあり、俺は回収業者が到着する前にさっさと帰ることにした。


 脳みそもどきに背を向け車に向かって歩き出した俺は、車のドアに手をかけた時、もう一度後ろを振り返り、そこで我が目を疑った。


「……は?」


 今までそこに存在していた脳みそもどきが、消えていたのだ。


 光を当てる場所を間違えたのかも知れないと思い、道路を広範囲で照らして確認したが、あの脳みそもどきはもうどこにもなかった。


 俺は急いで周囲を見渡した。俺が後ろを向いた隙に、どこからか悪戯を仕掛けた人間が出てきて脳みそもどきを回収したと思ったのだ。


 だが人の歩く音など聞こえなかったし、脳みそもどきから目を離していたのは、ほんの十数秒のことだ。その十数秒の間に、人間が脳みそもどきを回収し、姿を眩ますのは不可能のように思えた。


 だが、それが不可能だと言うならば、今のこの事態は一体何なのか。


 俺は恐怖に耐えかねて叫んだ。


「おい! ふざけんなよ! 悪質な悪戯すんじゃねえ! 出て来いよ!」


 実際に出て来られたらそれはそれで困るのだが、叫ばずにはいられなかったのだ。


 動物の死体の方がまだマシだった。口では喧嘩を吹っ掛けるようなことを言いながらも、この際悪戯でも素直に出てきたら快く許そうと俺は思っていた。むしろ悪戯であってくれと願っていた節もある。


「おい!」


 しかしいくら叫んでも、怒鳴り声、謝罪の声、笑い声などは何も、どこからも聞こえてこない。


 俺は背中を這いあがってくるような寒気を感じ、急いで扉を開け、エンジンをかけた。力任せに扉を閉め、そしてバックミラーもサイドミラーも見ることはせずに、ひたすら車を家まで走らせた。


 これから来るかもしれない回収業者に対して申し訳ないという気持ちはあったが、恐怖が勝った。詳細を知らない業者なら、ただ通報者の悪戯に怒りを覚えるだけだろうと、そう自分に言い訳をして、俺はその場を後にした――。




 翌朝。


 俺はその道を通らなかった。その道を通らなければ結構な遠回りになってしまうのだが、昼間の光の中でさえ、あの道を直視することが怖かったのだ。


 もちろん、夜もその道を通ることはせずに別の道で帰った。それからも、自分の中の恐怖が薄れるまで、俺がその道を通ることはなかった。


 一度は、あそこで何か事故でもなかったか調べようと思った。だが結局は止めた。狭い田舎だ。もし死亡事故でも起きていたら噂くらいは聞いていると思ったし、もし俺が知らないだけで本当に事故があったとしたら俺が見たものの正体が特定されてしまうことになりかねない。そしてもし何もなかったとしたら、それこそ、あの出来事にどう折り合いを付ければ良いのか分からなかったからだ。


 真相は藪の中。


 だがそれで良い。考えても仕方のないことは考えないほうが良いのだ。


 それが心の平穏を保つために必要なことだ。もしかしたら、後日あっさりと悪戯だったことが判明するかもしれない。それならそれが一番良い結末だ。少なくとも俺にとっては。


 しかしそれ以来、俺は道に落ちているものを直視することが出来なくなった。何が落ちていようと、一瞬でそれが何か判別できた時でさえも、後ろを確認した瞬間、その物体が消えていることを恐れたのだ。




 ――もし、夜中の道で淡いベージュ色をした何かが落ちていても、決して見てはいけない。関わってはいけない。回収業者には悪いが、通報するに留めておいた方が良い。


 これが、俺が出来る唯一のアドバイスだ。







 話を終えた俺は手元のビールを飲みほした。ふと、俺の話を最後まで黙って聞いていた新人のことが気になり彼の様子を窺った。こちらを見つめる彼の目には薄っすらと涙が浮かんでいた。


「はは。なんだ、怖かったのか?」


 俺がからかうようにそう言うと、彼はまた蚊の鳴くような小さな声で一言、


「線路……」


 そう言った。


「線路?」


 確かに今の俺の話には線路が出てきた。しかしそれのどこに引っ掛かったのか俺にはわからなかった。


「線路が何だよ」

「……ちょっと前になるんですけれど、その線路で事故が起きています」

「ん? ……ああ、そういえば。確か若い男性が昼間線路を横切ろうとして列車にあたった事故があったような……」


 それは確か十年程前の出来事だったはずだ。当時の俺はまだ高校生だった。かなり悲惨な事故だったらしいので、小さな田舎町では一時期その噂で持ち切りだった。


 しかし俺が調べようと思っていたのは道路上での事故であり線路上での事故ではない。しかも俺の記憶ではその事故があった場所から、あの変な物体を見た場所までは、十メートル以上離れている。


 俺がそう言うと、彼は力なく首を横に振った。


「……線路での事故って、結構飛ぶんです」

「……飛ぶって……何がだよ」


 若干嫌な予感を覚えつつも、俺は聞かずにはいられなかった。


「……列車が減速しているホームでの事故ならまだしも、全速力で走っている列車への突発的な衝突の場合、身体が列車と線路の下になる場合もあれば、車体に当たって外側へ弾き飛ばされることもあります。身体から飛ばされた人体の一部が、数十メートル先の民家で発見された例もあります。すべての事故がそうなるわけじゃありません。……様々な偶然が重なって起きる、かなりレアなケースだとは思います」


 でも、可能性はゼロではない。そう言って彼は下を向いた。


「おま……まさか……そういうこと?」


 ぽつんと置かれた、何故そこにあるのか理解に苦しむ物体。それがどこからか飛んで来たというのなら、一応の説明はつく。


「じゃないかと……その時の事故はそのレアなケースだったようです」

「うっそだろ……。いくらなんでもそんな飛ぶかよ。てか、あんな柔らかいもの、着地した瞬間それこそばらばらだろ」


 いや、ばらばらというよりはぐちゃぐちゃだ。そもそも脳みそだけ飛び出すなどと言ったことがあり得るのか。脳みそは固い頭蓋で護られている。もしその頭蓋が砕けたとしても、その時点で中身も相応な状態になるはずだ。


「先輩が見たものは恐らく実体がないものと思われるので、実際にどうだったかは関係ないのでは……」


 新人の言葉に、俺はごくりと唾を飲み込んだ。新人の話に納得してしまえば、俺の見たそれは霊の類なのだと、認めなくてはならなくなる。


 認めることも、否定することも出来ずに、俺はただかぶりを振った。


 この話は忘れよう。そう決心した。


 俺の話と線路での事故を結びつけたのはこの新人の勝手な妄想だ。決してそれが真実ではない。では真実とは何なのか。堂々巡りになりそうな思考を、俺は無理やり遮断した。


 気を取り直した俺はやたらと喉が渇いていることに気が付いた。俺は潤いを求めてウーロンハイを追加することにした。新人にも何か頼むかと聞いたが、力なく首を横に振るだけで、俺と新人との間に流れる空気はどことなく重い。


 これはいかん、酒がまずくなると思った俺は殊更明るさを意識して、新人に話しかけた。


「しかし……お前よくそんなこと知ってたな。もしかして怖い話が好きなのか?」


 俺がそう言えば、新人は何やら泣きそうな顔で俺を見た。相変わらず目には涙が浮かんでいたため、もしかしたら本当に泣く寸前だったのかもしれない。しかしその表情を見るに怖い話が好きだとは到底思えない。ならばなぜ彼はそんな話を知っていたのか――。


 俺のその疑問は、新人の言葉で氷塊した。



「その人体の一部が飛んで来た家って、僕の家ですので……」



 そう言って力なく笑い項垂れる彼の姿は、哀愁を誘うものだった。


「ウーロンハイ、お待たせしました~!」


 俺の目の前にウーロンハイの入ったグラスを置いた陽気な店員さんの声が、やけに場違いに感じる。


 訳の分からない説明のつかないものを見ただけの俺でも、完全に立ち直るまでにはかなりの時間を要した。その様子から実物を見たらしいことが推測される彼がこの話を完全に話のタネに出来るようになるのは、一体何時になることか。


 呪われている。とは俺のためにも彼のためにも、そして不幸な事故で亡くなった男性のためにも思いたくはない。


 だが、俺は彼が妙にツイていない理由の一端を垣間見たような気がして、何とも言えない気持ちで目の間に置かれたウーロンハイに口を付けた。


 酔いはすっかり醒めていた。




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