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探偵と聖夜

作者: 春花とおく

探偵の夜は孤独だ。

 俺は、右、左、それから右と、車に注意するようにして人目をはばかる恰幅の良い男を注視しつつ、ため息をついた。今は冬ではないから、息が白くなることは無い。しかし、まだ夏の趣漂う九月であるから、吐息は空気に溶け込み、蒸し蒸しと俺を取り巻いて、苛立たせた。

あちらの方では、ゆっくりとドアを開けた男が、若い女に迎えられていた。手を広げ、歓迎の意を表する女の胸に、男はあろう事か己も手を広げ、バンジージャンプでも決め込むかのように飛び込んだ。女の豊満な胸に、男の禿げあがった頭が埋まる様を眺めつつ、俺は「落ちた」と思う。この、妻子ある身の男は、この、若く美しい女と、恋に落ちた。腑に落ちた。男が最近挙動不審な理由、出張が多い理由、慣れぬ香水の匂いがする理由。これらはだいたい目星がついていたわけだから、腑に落ちたというのは間違いかもしれない。とにかく、仕事は終わったも同然だ。男は、あのままベッドに女を押し倒し、お楽しみといったところだろう。女は、男の愛撫に喘ぎ、お楽しみの後にもたらされるさらなるお楽しみを想像して、さらに声を強めるだろう。

「残念ですが、ご主人は、浮気をしていました」あとは、そう、伝えるだけ。

不釣り合いな不倫の大抵は、男は女の体を、女は男の財を好いての横恋慕だ。男も女もウィン・ウィンなのだからいいでは無いかと思った所で、浮気された妻は損をしていると気がつく。

しかし、浮気をするような男を退けられたという意味では、結果得なのではないだろうか。ウィン・ウィン・ウィン、だ。まあ、どうでもいい。男が妻に殴られようと、女が慰謝料に喘ごうと、妻が莫大な資産を得ようと、俺は金さえ貰えれば、仕事はする。コインを入れたら動く機械のようなものだ。ウィン・ウィン・ウィン・ウィン。

俺は、木の陰から夜空を仰いだ。月もなく、星もない。曇り空に俺は呟く。「探偵の夜は孤独だ」



「そうですか」

その声は、夫が浮気をしていたという報告への感想としては、非常に感情がこもっていなかった。「残念ですが」と切り出さなくて良かったかもしれない。いや、この妻は悲しみ、あるいは怒りのあまり感情を失ったのかもしれない。

「このような時に、申し訳ないのですが…」

俺が依頼料について口に出すと、依頼人の婦人は「このような時、とは」と呟くように言った。

「ご主人が、不貞を…」言葉を濁す俺を制するように、婦人は言う。「なんて事ありません。お金は、振り込んでおきます」



「探偵とは名ばかりで、ちんけなものだよな」

依頼人が帰った後、誰にというわけでもなく零す。本当に、探偵と言えば聞こえはいいが、実際にやることは素行調査に浮気調査、たまにペット探し。最近は、草抜きや片付けなど、何でも屋紛いのことにも手を出した。事件の臭いなど微かにもしない。旦那が香水の匂いを引っさげ帰ってくる話ばかりだ。どこぞの探偵のように、行く先々で事件に巻き込まれるのも考えものだが、それが少し羨ましくなるほどだ。

昔からホームズが好きだった。というより、謎を解くということが好きだった。ナンプレやクロスワード、パズルばかりしていたものだから、友達は少なかったが、しかし、だからと言って探偵になどなる必要はなかったはずだ。あれは、一時の勢いだった。まさか、ナンプレの懸賞で当たった端金で買った宝くじが、当たるだなんて。それも、二億円。衝動的に仕事をやめて、小さな探偵事務所で働いた。二年後、事務所を借り、「ホーム探偵事務所」を開いた。金だ。あの金さえ無ければ。いや、金があったとしても、探偵になどならなければよかった。

「家永さん、どうしたんです、急に」

事務のために雇った、和戸君が言った。彼女は齢こそ俺と同じであるが、非常に優秀な事務員だ。本来複数人は必要であろう仕事を一人でこなし、二億円も残り僅かとなりつつある今、「ホーム探偵事務所」を支えている、我が優秀な助手だ。

「俺は、探偵に夢を見ていた」

「そう言えば」

和戸君が突然思い出したかのように言い、パソコンを打つ手を止め、その手を自分の腹へ持っていった。

「私、赤ちゃん出来たんです」

「急だな」俺は、和戸君の腹に目をやる。あまり膨らんでいるようには見えないから、まだ妊娠初期なのだろう。

「多分、男の子なんですって」

和戸君は、目を細めて腹を撫でている。その瞳は慈愛に満ち溢れ、その笑みは幸福をいっぱいにたたえていた。

和戸君は孤独じゃないのだと、その事が痛切に感じられ、羨ましく、少しばかり妬ましい。しかし、彼女から発せられる後光の如き愛情の前に、俺の卑小な感傷は霧散した。

「大きくなれば、是非とも助手になってもらいたいものだ」

「えー、やですよ」

「息子は英語でsonだろう。和戸君の息子は、ワトソンだ。俺の助手になるべく生まれてくるに違いない」

「和戸son」と、和戸君は呟き、そして笑った。後光が部屋の隅々まで行き渡るような錯覚に陥る。「家永さん、息子は英語でサンです。ワトサンです」

「和戸さん」俺は、自分の発した冗談に失笑しつつ、言う。「歳下にさん付けは違和感があるな」

「私を君付けするくせに」

「君は、同い年じゃないか」

「私は、二つ下じゃないか」

和戸君が、俺の口調を真似ていうものだから、またそれが微妙に似ているものだから、笑ってしまう。

「今日の予定は?」

「お昼から、町内のお掃除があります」

「それだけ?」

「それだけですよ。頑張って、お仕事貰ってきてくださいよ。私のためにも、この子のためにも」

和戸君は、腹をぽんぽんと叩き、言った。俺は、腹の子はいつから人権が適用されるのだっけ、と、そうなれば二人分の給与を払わねばなるまいか、と、狐か狸かに化かされたような気持ちになる。

「なら、二人分働いて俺のために仕事を取ってきてくれ」

俺は笑った。が、上手く笑えたかは自信が無い。



「ありがとうございました」と、深々とお辞儀をする町山さんに対し、こちらも「いえ、お金を貰ってるわけですし」とお辞儀で返す。謙遜しているとはいえ、やはり人に感謝されるというのはいい気がするもので、昨夜の鬱屈は既に忘れていた。同時に、今やり終えた仕事が、いわゆる探偵の仕事では無いことも、忘れていた。

「いかがですか」

それから町山さんはパックジュースを差し出してきた。「町内会の人からの差し入れです」額に汗を浮かべながら、彼は笑った。

礼を言いつつ、オレンジジュースを喉に流し込む。町山さんはそれを眺めて、しばらくすると贅肉を揺らしつつ、離れていった。昨夜の浮気男を思い出さずにはいられない。パックからオレンジジュースが飛び出してきて、顔にかかった。ただでさえ汗でベタつくのに、さらにジュースで汚れるものだから、余計イライラとした。少量残っていたが、握りつぶし、パックをゴミ袋へ放り込む。口の中がねばねばとする。やはりオレンジジュースは果汁百パーセントに限る。



朝方に調査結果を報告した後、予定がないためにテレビドラマを見ていた。

よくある刑事ドラマで、ちょうどメガネの男が犯人を明らかにせんと、自慢の推理を披露している。やがて、犯人として女が名指しされ、彼女は己の罪の全貌をつらつらと語りだす。被害者である男が浮気をしており、それを知った恋人の女が男を問い詰めたところ、男は逆上。本来浮気の被害者であるはずの女がなじられ、挙句別れを切り出される始末。怒り心頭に達した女は衝動的に包丁を手に取り、男を殺害─と、非常に陳腐であるが、それに真面目な顔で聞き入る刑事達が奇妙で面白く、俺もまた見入ってしまう。

「テレビもいいですけど、家永さん。三時から依頼人がお見えになりますよ」こちらも暇だったようで、スマートフォンを片手に和戸君が言った。

「初耳なんだが」

「あれ、言ってませんでしたっけ。すみません。うっかりしていました」

「まあ、どうせ、浮気調査とかだろうな」

「あ、それが、前と同じ方なんですよ」

「前って、町内会の町山さんか。確かに、浮気されそうではあるな。いい人だが、なにぶん優しすぎる」

「そうじゃなくて、浮気調査の時の奥さんです。あの、冷たい感じの」

夫の浮気を知らされたに関わらず「なんてことありません」と言った、婦人を思い出す。なるほど。夫に見切りを付けて、ついでに包丁で切り付けて、その後始末をして欲しいなんてことになれば、嫌だな。「なんてことありません、死体遺棄の手助けをしてほしいんです」彼女なら、言いかねない。

テレビの中で嗚咽を漏らし、頭を垂れる女を見つつ、思う。



「夫を」と、婦人が言った。半が出るか丁が出るかと、見えぬサイコロを見つめるように、「山に埋めてください」とくるか、「海に沈めてください」とくるか、と、身構えた。しかし、出たのは半でも丁でもなかった。

「探してください。あれから、帰ってこないんです」

あれから、とは、前回の調査の時であろう。どうにも浮気がバレてしまったようだからと恋人と雲隠れしたのではないか。

俺はふと思ったことを口にする。すると、向かい合う女から冷たい視線が飛んできたものだから、その真意はどうであれ、夫の男は帰って来ない方がいいのではないかと思う。  

いや、しかし、探さなければ俺がやられてしまいそうだ。ならば結果死なせることになっても、男を探そう。是非とも、死んでもらおう。

「いいでしょう。来るもの拒まず、がウチのモットーですから」

「浮気調査から、町内の掃除まで」

和戸君が合いの手を入れた。範囲が狭すぎやしないかと気にかかる点はあったものの、追従して頷く。婦人は「よろしくお願いいたします」と、やはり感情のない声で言って、事務所を後にした。

「探すって、どうするんです?ホントに雲隠れしていたら、難しいですよ」

婦人を見送った後、コーヒーカップを片付けながら和戸君が言った。

「ああ。とりあえず浮気相手の住居は押さえているから、まずそこからだな。仮に、女しかいなかったとしたら、あれだ」

「あれ?」

「尾行だよ。俺には、それしか能がない」



早速、例の女の住居を訪れたものの、肝心の男はおろか、女すらもいないようであった。

前回駐車されていた車が無かったため、ドライブでも決め込んでいるのだろうか、と粘って張っていたが、彼らは一向に姿を見せない

今日は、撤退だ。雲間に浮かぶ月に語りかけるも、やがてはそれも隠れてしまう。一人夜道を歩く間、明日の朝は早いぞと、見えぬ太陽に向かって呟いた。



朝の五時から例の家の前で張っていた。コンビニで買ったカフェオレも、ジャムパンも、全て平らげてしまった。満たされぬ腹と、今この瞬間に現れるやもしれぬ女と、どちらを優先すべきか迷いつつ、あくびを噛み締める。夜に仕事をするのは慣れっこだが、朝早くからの仕事は未だ慣れない。探偵は朝も孤独だ。

九時に至るまでに、トイレに一度、コンビニに一度立ったが、女はまだ現れていないようだ。人が通ればわかるようにとこしらえた目印に動きはない。

今度からは、和戸君も連れてくるべきかもしれない。前に見たドラマの刑事も、二人組で犯人を追っていた。しかし、妊婦にこのような仕事はご法度か──などと考えていると、例の家のドアが開いた。

出てきたのは女一人だけだった。彼女は、車には一瞥もくれず、スタスタと歩いていく。移動には車を使うだろうと踏んでいた俺は、慌てて車を降り、女を追う。

男は家の中にいるのだろうか。それにしては、あっけからんとした様子で家を出てきたものだ。行ってらっしゃいのハグは、キスはしなかったのだろうか。

女は、その体躯からすると、非常に速く歩いた。後方から距離をとって追う俺がほぼ駆け足になるほどだ。それに、入り組んだ住宅街を右に左にと進んでいくものだから、うかうかしているとすぐに見失ってしまう。

やがて街に出た。特別人が多いとは言えないが、しかし、東京の街だ。途切れ途切れに人の波はやってくる。それでも必死に抗って、溺れそうになりながらも、追う。

ざぶんざぶんと、姿を捉える度に人の波に隠れ、また見えては消えてと、呼吸もままならないまま溺れてしまうような、そんな錯覚に陥った。肺も、脚も悲鳴をあげている。それでも歯を食いしばって、歩く。俺には推理力はないし、特別な勘もない。二億円も尽きそうだ。俺には、コレしか能がない。

迫りくる波に耐え、疲労に耐え、やっと海面に顔を出した、その時には、女はもういなかった。女はおろか、人ひとりいない。さっきまでの人混みが嘘のようだ。後ろを見れば、横切る人が見える。裏道のような所に入ったのか。と、俺は逡巡し、女を追わなければと焦り、駆け出すも、路地を抜けた先にはまた人の群れ。見失った──無力感が巨大な波のように迫ってきた。もはや、抗う気力もない。



次の日も、その次の日も、朝から女の家の前に張り付き、尾行したものの、浮気男はおろか、浮気女のしっぽすら掴めなかった。日によって行き先は異なっていたようだが、そのいずれもが徒歩で、しかし全てにおいて女はふっと消えた。

初日は裏路地で、二日目は大通りで、三日目には喫茶店の中で、まかれた。そして、四日目には、気がつけば己の自信を探していた。

探偵稼業の中で唯一の得意分野と信じてやまなかった尾行を、三度も連続で失敗したのだ。それは初めての体験で、よって、俺は初めての無気力、倦怠感を覚えていた。かつて大流行した伝染病にかかったのやもしれぬと、何度も熱を測ったが、体温は健康そのもの。今日は体調が優れないからと言い訳して、あの女はどこかのスパイかなにかで、男から何らかの情報を盗もうとしたに違いない。そりゃあ尾行に警戒するわけだ。と、都合よく推理して、応接用のソファに寝転んでいた。

「今日は、尾行しなくていいんですか」

和戸君が、ローテーブルにアイスココアを置いた。からりんと、氷が涼し気な音を立てる。

「言ったろう。体調が優れないんだ。あの、数年前に流行った何とかウイルスに違いない」

「えー」と、和戸君は少々大袈裟に声を上げた。「なら、早く帰って下さい。この子に移ると大変です」

「察してくれよ。優秀な、探偵の助手だろう」

ココアを呷る。胃に冷えた液体が充填される感覚と共に、脳に糖分が行き渡る。

「『優秀な』は、『探偵』にかかるのか『助手』にかかるのか」

「察してくれよ。ワトソン君」

「私は、息子じゃなくて、母親です」

「ワトマザー」

出来の悪い冗談に笑えてくる。

「それに、浮気調査ばかりのホームズなんてヤですよ」

返す言葉が見つからず、自分の立つ瀬も、何なら立ち上がるための意地も見つからない。グラスから落ちた水滴を、テーブルに引き伸ばすように弄ぶ。「じけんをください」とかいてみるが、己の目の前に横たわる、婦人からすれば大事件である依頼を忘れていた。

そんな、怠惰な空気流れる事務所に、突如ベルの音が響いた。和戸君は体をびくりとさせ、俺はのっそりと起き上がった。来客だ。俺は慌ててスーツを正し、和戸君はどたばたと茶を入れる用意に走る。

事務所のガラス扉を開けると、そこには、額に汗を浮かべた、サラリーマンらしき男がいた。



「もう九月も終わりというのに、暑いですな」

その男は、しきりにハンカチで汗を拭いながら、言った。齢は四十程に見える。差し出された名刺を見るに、それなりに名の知れた会社で、それなりの地位にあるようだ。しかし、まあ、薬師寺という大層な名前にしては平凡なサラリーマンのようである。

「いやはや、まったく。尾行に向かない季節です」

言いつつ、果たして尾行に向いた時候があるものか、と疑問に思った。尾行に最適のシーズンです!と、黒い服、黒い帽子、サングラスが、ウィンドウに並ぶ様を想像し、変な気持ちになる。

「突然おしかけて申し訳ない。少し、調べてほしいことがありましてな」

薬師寺は、景気をつけるかのように、麦茶をぐいと飲み干した。体を乗り出して、「実は」と言う。

「ウチの娘の様子が、最近おかしいのです」

「ほう、様子がおかしい、とは」

「帰りが遅かったり、やたら機嫌がいいと思えば、悪くなったり」

「ほう」と、俺は呟く。「失礼ですが、娘さんのお歳は」

「今年で、十七になります」

「ほう」と、また呟いて、思う。俺は、フクロウか。いや、しかし、探偵とはフクロウのようなものかもしれない。夜闇に駈け、鋭く目を光らせる。

「その歳頃はそういうものなんじゃないですかね」

「そう思ったんですがね、やはり異様なんですよ。こう、いつも目をギラギラさせてね」

「ほうほう」これは、少し面白くなってきた。俺は思う。「わかりました。では、お嬢さんの挙動を調べればよいのですね」

「ええ。とりあえず、一週間ほどお願いします」

自宅、連絡先等、必要な情報を伝えると、薬師寺は逃げるように去っていった。「仕事の合間に来たんです」苦笑いを浮かべ、「よろしくお願いします」と言う彼の顔は誠実そのもので、「任せてください」と、つい俺は答えたが、そもそも任されている仕事の存在を忘れていた。

「婦人の捜索依頼、まさか忘れてませんよね」

薬師寺が帰った後、和戸君が念を押すように聞いた。

「もちろんだ。それよりも、面白くなってきたぞ。事件のにおいだ」



それから五日、俺は薬師寺娘の調査に勤しんだ。しかし、結果は芳しくなかった。娘を追おうにも、学校へ行かれるとどうしようもない。校舎を離れた所から覗いて、不審者扱いされるのは不本意だ。探偵は時に誤解されやすいものだが、自分は客商売の身だ。事件の方からやってくるレベルに達していないのは、さすがに承知している。土下座しても事件はやってこないレベルであるから、その上に不審者のレッテルを貼られたら、俺自身が事件になりかねない。

また、娘の友人に話を聞いても、的を射ていないどうでもいいことをダラダラと述べるだけで、辟易させられるばかり。今どきの若者は皆こんなものなのか、俺もついにオッサンの仲間入りか、などと考えていた所、ふと思う。全身黒づくめのオッサンが女子高生に声をかける様子は、不審者が不審者たる不審な行動をとっている、まさにその瞬間のようではないだろうか。

埒が明かないため、娘が学校へ行っている間は例の不倫女を追うことにした。ここ一ヶ月苦心して、唯一得た情報なのだが、女は水商売を営む店で働いているらしい。よって、夜に歓楽街へ消える前、午前中に活動していることが多い。その間に何をしているのかが問題なのだが、それだけは依然として掴めなかった。

そして、それは薬師寺娘を調査している間も同様であり、追っては撒かれ、撒かれては追って、歓楽街でキャッチに捕まって、帰った。お代は、女の調査の名目で、経費で落とした。

娘を追って六日目の土曜日、学校へ行く以外で初めて娘が動いた。朝の九時、娘がいそいそとと家を出たとの報告を受け、俺はバタバタと事務所を出た。幸い、薬師寺の家はそう遠くない。走って向かうと、大通りの方へと歩みを進める娘を見つけた。尾行する。

あの、ふわふわと、捉えどころのない友人たちとショッピングでもするのだろうか。いや、あのそわそわとしている様子からすると、彼氏にでも会うのか。

娘は大通りを三十分程歩いた。今日は、夏がぶり返したのかと思われるほどの猛暑日であった。こめかみから頬、頬から顎へと垂れる汗に不快感を抱きつつ、娘をつける。

遊びや彼氏との密会を前にして、汗を流してまで徒歩で数十分もかけて移動するものなのか。思わずにいられない。それも、最近の流行りか?汗で折角のオシャレも台無しだろう。現に、滴る汗に化粧が溶け込んで、目の隈があらわになっている。

ふと、通り過ぎてゆく景色に既視感を抱いた。デジャブというやつか、などと考えていると、娘が立ち止まった。

それは、突発的に立ち止まったというよりは、予めそうするよう決まっていたように見える。娘は時計をチラと確認して、右左右と、左右を見回した。その様子に、不倫女の家を前にして警戒する、浮気男を想起させられた。しかし、仕草こそ浮気男のそれに似ているものの、薬師寺娘の警戒はどこか雰囲気が違った。浮気男は「浮気」の名の通り、どこか浮かれただらしない顔をしていたが、娘は命でもかかっているかのような、迫真の顔をしている。

そして、もう一度時計を確認して、娘は横道へと入っていった。

俺は慌てて娘を追った。横道へと入る前に、なんとなしに左右を見回す。右手から、人の波が押し寄せていた。一呼吸おいて、凪いだ海に顔を出すように、そっと路地へと進む。

路地は、暗くて、狭くて、まさに裏道といった具合だ。室外機やらに身を隠しつつ、娘を尾ける。娘はソロソロとも、オドオドともとれる様子で歩いてゆく。一度、角を曲がった。俺はそこで一時停止し、そっと、覗き込む。

角から十メートルほど先に、娘がいた。携帯を片手に、向こう側を伺っている。携帯の光に照らされる娘の顔は不気味で、怪しい気配に満ちていた。その娘の見ている先は、すぐ曲がり角になっていて、奥は見えない。このような場所で、彼氏との密会を果たすのか。そのようなシチュエーションをお好みなのだろうか。まさか。

待つこと二十分、こつ、こつ、と、明確な意志を持ってこちらへ向かう音が、狭い路地に響いた。

俺は、死角へと身を潜め、耳を済ませた。「待たせたね」その声に聞き覚えがあり、ゆっくりと、慎重に顔を出す。驚いた。唾を飲む音が聞こえやしなかったかと、不安になるほどだ。



娘と共にそこに居たのは、例の、浮気女だった。何度もその背を追い、何度もその尻を見つめ、飽きるほど眺めたその顔が、そこにあった。いくら尾行してもそのしっぽを掴めなかった女が、数メートル先にたたずんでいた。

既視感の正体はコレだったのだ。尾行した際女がよく通る道が、先の大通りだった。それにすぐさま気付けなかった己の無能さに呆れた。そして、その女と薬師寺娘との共通項に疑問を抱く。それは、すぐにわかった。ついでに女が尾行のプロならぬ、尾行を撒くプロである所以も、明らかとなった。

「いつもの、はやく」と、娘が言った。その声は彼女が友人たちと話す時と比べて明らかに小さく、低い。苛立ちも混じっているようだ。

「私が言うのもなんだけど、あんた、若いんだからさ、こんなのやめなよ。初めて会った時とはえらい違いだよ。目も落窪んでさ。せっかくケッコー可愛いのに」

女が鞄を探っている最中も、娘は常時いらいらとして、「はやく」と仕切りに女を急かせた。

「こんなことしてたら、私みたいにお水で溺れちゃうよぉ」

女が不敵な笑みを浮かべ、娘に小袋を差し出した。「ひょっとして、もう溺れちゃってたりして」

そこには錠剤を詰めたものが入っていた。それが何かは、尾行専門の探偵とはいえ、俺でもわかる。薬師寺の言葉、密会、苛立ち、「こんなの」。それは、薬師寺の娘が渇望していたものは、何らかの薬物─おそらく違法で、有害なやつだ。

薬師寺娘は、女の手から薬を奪い取ると、すぐさま鞄にしまった。

俺は、あまりに衝撃的で、頭の整理がつかず、狼狽えた。事件の香りがするとは言ってみたが、事件も事件、俺からすれば大事件。手に、いや頭におえない。違法な薬物を売っているということは、女はそのテの者──例えばヤクザの女だったりするのだろう。どうりで、尾行しても手がかりが掴めないわけだ。思えば、女に接近したのはいつも誰かを追った末の事だった気がする──いくら尾行を撒くプロでも、尾行される者を撒くプロにはなれなかったわけだ。いや、それよりも。捕まれば、ヤバい。切断された俺の指が、一家団欒中の和戸君の家にお届けされる様が浮かぶ。「キャア」と和戸君と和戸息子が叫んだ時、俺はコンクリと仲良く東京湾に沈んでいることだろう。

足音が、こちらへ向かってくる。慌てて来た道を帰ろうとしたところ、傍の木箱に足をぶつけてしまった。「ごん」となる音に、冷や汗をかきつつ、走る。幸い、物音がした事には気付かれていないようだ。足音を殺す。さもなくば、殺される。



慌ただしく事務所へ帰ると、「どうしたんですか」と出迎えの和戸君が目を丸くさせた。

「事件だ」と言うつもりが、息が乱れて咳き込んでしまう。「大事件だ」みすぼらしくも、言い直す。

和戸君は目を瞬かせ、笑った。「ボーイフレンドが菅田将暉だったとか?」

「菅田将暉ならどんなに良かったことか」言いつつ、熱狂的支持を集める、若手俳優を思う。あの女は、熱狂的は熱狂的でも、暴力的に熱狂的な支持を得ている女だ。

「あれはきっと、ヤクザの女だ。俺は、死にかけたんだよ。和戸君も他人事じゃないぞ。君の家に、俺の指が届くところだったんだ」

「とりあえず、落ち着いてください」和戸君はそう言い、氷の入ったグラスを机に置いた。とくとくと注がれる琥珀色の茶を見ている内に、次第に俺も落ち着いてくる。麦茶を飲み干す。一緒に飲み込んだ空気を吐き出すのと共に、言葉を吐き出す。

「それは」とうとうと語られる事の顛末に耳を傾けていた和戸君は、間を置いて、言った。「それは、事件ですね」

「俺は、どうすればいいだろう」気付けば弱気になり、そう漏らしていた。グラスが水たまりを作っている。節電のためにエアコンはつけていない。それなのに寒気がして、冷や汗が止まらない。

「ううん」と、和戸君は唸った。「どうすればいいんでしょう」自分の腹をさすり、「どうすればいいかね。ワトソン君」と言った。

当然、まだ人の形を成してはいないだろうワトソン君は、答えない。代わりに腹を蹴ることも無い。ひとつのローテーブルを分かち、一方では暗く、重い雰囲気が、他方では穏やかで、神聖さすら感じる空気が広がる。和戸君と俺の間に広大な海があり、それをローテーブルが海溝よろしく隔てているかのようだ。俺は底の見えぬ海の恐ろしさに何も出来ず、狼狽えた。

「私は」その和戸君の一声は、どこぞの神が海を切り開いたように、沈黙を打ち破った。ザザンと音を立て目前に開けた大地に、俺は進むべき道を見いだした。いや、海の底に沈んでいた道しるべを再発見したのだ。

「私は、家永さんに危険が及ばないことが第一だと思います。危ないのなら、もうやめるべきです。事件なんて要らないんです。家永さんと、私と、もう一人増えるけど、とにかく、この日常が平穏ならそれで」

差し障りのないその一言に、俺はいたく感動させられた。和戸君から後光すら見えそうだった。冷や汗は引き、代わりに頭を冷やした。俺は、何を動揺しているのだ。あれだけ事件を欲していたというのに、いざとなればこのザマか。悩む事など何も無いじゃないか!そうだ、俺は何をすべきかをしりつつ、非常事態にあろうことか焦り、それを見失っていた。落ち着け、落ち着け。心の内で呟く毎に、道は悪いながらも、海底に開けた道を俺は着実に進む。すべきことは依頼の完遂と、薬師寺娘の安全、それと不倫女の謎の解明。そして、それらを成功させるための、尾行だ。いや──

「あ、ほら、家永さんに死なれると、私たちが困りますから」

「ねえ」と、気恥ずかしかったのか取り繕うように己の腹を撫で、和戸君が言った。

タチの悪い宗教に引っかかるヤツは、こんな気持ちなのだろうか。ふと、思う。得てして奴らは、人が真剣に悩んでいるのに、どこか達観して甘い言葉を囁く。元々悩みを持っている奴は、どこかしら精神が安定していないものだから、つい当たり障り無い言葉にコロッと励まされちゃったりするのだろう。それで、次会う時には壺だ。なるほど、これは効果テキメンだ。この事件の報酬で、出産祝いに何を贈ろうか考えている俺がいる。まだヒトの形を生していない腹の中の子が、返事をするように、和戸君の腹を蹴った。ように思えた。なるほど、和戸家はがめついらしい。

「和戸君」

「何ですか。相談のお礼なら、ゴディバのショコリキサーでいいですよ」

「薬師寺さんに電話をして、娘は帰っているだろうが家から外に出さないように言ってくれ。それから、娘さんが犯罪に関わっているかもしれないから、警察を呼ぶようにと。浮気女のことはいい。どうせ、娘が自白しても見つからないだろう。それなら無闇に教えて危険に晒すよりは、俺が、直接捕まえてやる」

急にキビキビと動き出した俺に驚いたのか、和戸君はぽかんと口を開け、ソファに佇んでいた。

「捕まえるって、どうするんです?」

「尾行だよ。俺にはそれしか能がない──と言いたいところだが、もうひとつだけあってだな」

机の引き出しから、手頃なモノを探す。クリップやらなんやら、めぼしいモノを鞄に詰めて、言う。「ピッキングだ」

「女の家に、忍び込む気ですか」

俺は、頷く。ピッキングの要領については、かつて師事した探偵から教わっていた。そして、意外にも俺はその才能があった。師も開けられぬ金庫を、一人で開けてのけたこともある。無論俺は探偵であり、正義の味方であるから、罪に問われうる特技を利用することもなかったが──

「その通りだ。俺の尾行が通じなかったんだ。ならば、奥の手を使うしかない」

「危ないからやめろって言っても聞かないんでしょうね」和戸君はそう言って、ソファから立ち上がった。事務机の上の電話を手に取り、番号を打ち始める。

「帰りに、ゴディバの新作買ってきてください」

時計を確認する。十五時過ぎ。この時間なら、女は家にいる。六時頃には仕事に出るはずだから、そこが狙い目だ。



女の家の前でしばらく張っていると、黒い高級車がやってきた。女の仕事場の、送迎用の車だ。

既にナンバーは控えていた。いつもと変わりないことを確認していると、中から黒服の男が出てきた。いかにもその筋の者らしく、背は高く体つきも良い。例のクスリは女の仕事場の、バックから来ているのかもしれない。そんな事を考えているうちに、女が出てきた。派手な化粧をしているためか印象は異なるが、その顔は今朝見たものと違いない。

女たちが車に乗りこみ、歓楽街の方へ去ってゆくのを見送って、俺は動き出す。十月ともなると、この時間でも薄暗い。しかし、念には念を入れて左右を確認する。誰にも見られてはいない。ふと思う。あの浮気男は、愛人の家へやってきただけなのだろうか。たまたまその愛人がヤクザの愛人で、クスリの売人だったのだろうか。

ドアの前へ行き、俺は一息ついた。ある程度把握していたとはいえ、実物を見るまで鍵の形状はわからない。しかし、どうやらその心配はなかったようだ。設置されている鍵は、新しいものではあるものの、新しいが故に最も普及しており、コツさえ掴めば簡単に開けられるものであった。見たところ監視カメラの類も無さそうだ。

予め仕込んでおいた道具を取り出す。それを鍵穴に差し込んで掻き回す間は、心臓の音と金属音の二種類の音しか存在しないような思いに駆られる。その緊張感と、ある種の優越感は、俺に非常な快感を与えてくれる。俺が泥棒稼業をせずに生きてこれたのが奇跡のように思えてくる。ガチャリと音を立て、鍵が開けられた時はその喜びもひとしおだ。雲間から光が漏れ出て、神が祝福してくれるような気持ちになる。

ドアを開けると暗闇と共に玄関が俺を迎えた。一人暮らしにしてはあまりに広い。棚には女物の靴がいっぱいに詰まっている。あの女は、余程の人気者なのか。あるいは、ここはバックの大物の別荘で、一時的に愛人に貸し与えているのやもしれぬ。

愛人のくれた家に別の愛人を連れ込むとは、などと思案しつつ廊下を進む。靴は脱ぎ、自分の鞄に入れておく。女が帰ってくることはまずないだろうが、念の為鍵を閉めておく。万が一帰ってきた時は、窓からでもスグに逃げ出す心づもりだった。

慎重に、足を進める。可能な限り痕跡を残したくはない。もっとも、決定的な何か、例えばクスリそのものだったりが出たら警察に突き出せばいい。

棚の中を物色しつつ、リビングらしき部屋へ出る。今のところ、変わったものは見つからない。

リビングも、ソファやテーブルなどの家具が少々大きい以外に目立った所はない。しかし、平均的な家庭からすると豪奢なその部屋には生活感が欠如しており、どこか住宅展示場の家を見ているような気分になった。寝室に入る。

中央にダブルベッドが位置し、隅に机と、本棚、衣装ケースがひとつずつある。なるほど、ここで浮気男と不倫女はお楽しみの時間を…そう思うと、少し感慨深い。

衣装ケースを探る。下着が詰められているだけだったので、俺はそっと、ケースをしまう。俺に女性用下着を愛好するきらいはないが、今日初めて罪悪感が湧いた。

今度は机を探る。筆記用具や家計簿などが見つかるのみだった。引き出しを開けても、目立つものはない。二重底ではないかを確認する。次は、本棚だ。

本棚には、ずらりと小説が並んでいた。一人で読む分にはかなり多い。それも、きちんと作者名順に並んでいるのだから、余程あの女は几帳面なのだろう。生活感のない部屋にも頷ける。

本棚の中央、小説が続く合間に、ひとつ金庫が置かれていた。立方体の、小さなやつだ。俺の中に緊張が走る。寝室のドアを閉める。鍵はなかったから、ドアストッパーを噛ませておく。これで、異変があれば窓からでもスグに逃げられる。指紋を残さぬよう着けた手袋を正し、集中する。

金庫はダイアル式の、古いものだった。何度か練習したものだ。カリカリと、耳を澄ましつつ、ダイアルを回す。「いいかい?」「まだよ」などと、美女と会話を交わしつつ戯れるような、艶麗な趣すら感じる。懐かしい感覚に夢中になっている内に、金庫は簡単に開いてしまった。

物足りなさと達成感が混ざりあって変な気分になりつつ、扉を開く。簡単に開いたとはいえ、この瞬間は心躍るものだ。美女のシャツの脱がし易さと、それを取り除いた先に待つお楽しみの大小は比例しない。

果たして、恥じらいを捨て全てをさらけ出した金庫の中には、札束の山があった。数百万と言ったところだろう。

強盗なら、或いは──しかし、俺は探偵だ。大金を見つけたとて、歓喜することは無い。これくらいの金なら、水商売の女なら一人でも稼げなくはない。ただ、少しの違和感は拭いがたかった。

それが何かがわからない。とりあえず、金庫をよく調べよう─そう考え、中の金を全て取り出した時、違和感の正体に気がつく。

金庫の奥行きが、本棚のそれに比べて僅かに違っているのだ。はっと閃くものがあった。なるほど、コレはわからない。

金庫そのものを、本棚から引き出す。

やはり、思った通りだった。かつてあった金庫のスペースは、本の立てかけられている壁を、ほんの少しではあるが、突き破っていた。つまり、この本棚は二重底ならぬ、二重壁になっているのである。一枚目と二枚目の壁の間にスペースが設けられており、金庫の置かれている場所だけ一枚目の壁が取り除かれていたのだ。

簡単な金庫でも、開けただけであの満足感だ。それに加えて悪くない額の金が手に入るとなれば、万が一空き巣に入られても犠牲は金庫だけで済む。本棚をひっくり返され、本当に隠したいものが見つかることは防ぐことができる。また、警察が入る事があっても、余程徹底的な捜索が行われない限りは見つかるまい。

頭に、何らかの快楽物質とやらが溢れているのがわかる。非常な達成感と、爽快感に襲われる。駆け出し、己の成果を叫びたい気持ちに駆られる。これまた懐かしい感覚だ。ナンプレにクロスワードにと、謎を解き散らかしたかつての充足した日々を思う。

せり上がる情動を押さえつけ、本棚を調べることに終始する。どうやら、一枚目のダミーの壁は、スライド式になっているらしい。金庫を取り除いて出来た隙間、内側から壁を外側に向けて押すと、外すことが出来た。その奥には、何やらかがぎゅうぎゅうに詰まっている。金庫のスペースから手を伸ばし横からそれらを取り出すのは難しい──そう考え、本棚にあった、川端康成の「雪国」を含めた数冊を抜いた。

すると、ぱたりと何かが倒れる音がした。その音の元は、札束が二三詰められた袋だった。壁を抜かれ、本が抜かれ、寄りかかるものを失った金が、手前に倒れてきたのだ。文庫本の抜かれたスペースの先、通常は壁があるはずの、さらに奥、二枚目の壁までの、その小さな隙間には、隙間がないほどに金が詰められていた。

その量は、金庫に入れられていた金の比でない。再び悦びを感じつつ、別の段の、他の本を抜く。一段だけでこの量だ。一体どれほどの、いや、金だけではないのかもしれない。ハリー・ポッターシリーズの「賢者の石」を手に取る。

そこには、新聞紙に包まれた手のひら大の「何か」があった。手に取ると、ずしりと重い。新聞紙をめくる。それは懐中電灯の光を反射し、鈍く光った。黒い金属の塊のようなそれは、間違いなく拳銃と呼ばれるものだった。本物を見た事の無い俺にもわかるほどの殺意が、その非常な重みと共に伝わった。それは俺の心の臓を舐め回し、震え上がらせる。

見れば、新聞紙に赤黒い血痕が付いていた。血は銃口にも付着している。それが、いつ付けられたものであるかの判別はつかなかったが、いずれにせよ危険なものであるとの判断はつくようだ。頬を撫ぜる汗が俺に落ち着けと言っている。

だが俺は既に冷静だった。今になってやっと、部屋の蒸し暑さに気がついたくらいだ。しかし、頭では次に何をすべきかを考えているものの、体は動かない。汗の冷たさが、やけに気になる。

だが、この隠し本棚の構造が分かってきた。二重壁の奥には、見つかってはならない「何か」が大量に詰められている。金であったり、銃だったりだ。そして、それらは几帳面にも、分類されているようなのだ。

先程、川端康成の本を抜き、金を見つけた。そして今、J・K・ローリングの本を取り除き、銃を得た。恐らく、本棚には置かれた本の作者名に対応する「何か」がその奥に隠されているのだ。だから「か」の場所には「かね」があり、「じ」の本の奥には「じゅう」が隠されている。

クスリの「く」或いはヤクの「や」の場所には、恐らく薬師寺娘に渡したものと同じ錠剤があるだろう。だが、そちらよりも先に探すべきものがある。

彼らの「客」の情報だ。例えば、顧客のリストなどがあれば一発だ。薬師寺娘はおろか、浮気男との関係も浮かんでこよう。

さて、情報の「じ」だろうか。しかし、「じ」から始まる作者はJ・K・ローリング以外に無く、その奥には銃があるだけだ。では、データの「で」?しかし、それもない。

根こそぎ本を取り出すことも考えたが、後から片付けることを考えると避けておいた方が良い。情報に関連する単語をうんうんと考える。資料の「し」はどうだろうか。本棚をざっと眺める。「志賀直哉」の「暗夜行路」が目に付いた。本を取り出す。そこに開けたスペースには、ひとつのスマートフォンが鎮座していた。

電源を入れると、それは問題なく作動した。充電も十分ある。どうやら、最近使用されたらしい。しかし、当然、ロックがかけられていた。四桁の数字を入れる、最もオーソドックスなヤツだ。

俺は、そこで逡巡した。四桁程度のパスワードであれば、何とか開けそうだと考える一方、あまり多く失敗すると、証拠が残ってしまう。

考えた末、半ば投げやりになりつつ、四つの数字を打ち込む。ええい、ままよ!とばかりに打ち込んだのは、女の誕生日だ。

先日偶然入った店が、これまた奇遇にも、例の女の勤務先であった。あまり接近しすぎるのも考えものであるから、指名はしなかったものの、帰宅後ウェブサイトから情報を抜き取っておいた。常に尾行に用心するような女とは言え、誕生日まで偽装することには気が回らないだろう。いや、そうであってくれ!そう踏んで打ち込んだ結果、当たってしまうのだから、驚きだ。そりゃあ「ビンゴ!」と叫びたくもなる。実際は、流石に叫ぶことはなく、ガッツポーズをするに留めた。

ロックを突破して展開されたホーム画面では、愛くるしい子猫が丸くなっており、そこにいくつかのアプリケーションが散らばっていた。一見、普通のスマートフォンと変わらない。LINEやらが入っているだけだ。しかし、スワイプして「ビジネス」のファイルを開いた所、またしても「ビンゴ!」と叫びたくなった。

ひとつのアプリを開くと、そこにはまさに顧客名簿らしきものが展開されていた。名前と、職、盗撮したと思われる顔写真など共に「商品」と金額が記されている。ざっと見てゆくと、連なる不健康な顔ぶれの中に薬師寺娘のものがあった。「商品」は合成麻薬の一種らしい。値は数万単位であり、数度購入しているようだが、まだ日は浅いようだ。

そして、さらに見てゆくと、例の浮気男の名があった。でっぷりと肥えた顔に、もはや懐かしさすら覚える。「やっと会えましたね!」あさっての方をむく写真の中の男に握手を求めたくなる。

スマートフォンのデータをUSBメモリに保存する。電源を切り、元の場所に戻して、ひとつため息をつく。十分すぎるほどの成果が出た。一旦帰って、作戦を練ろう。

その前に、証拠隠滅を徹底しなくては。見つかってしまっては折角の成果も闇の中へ、そして自身は海の中へ、だ。探偵は、帰るまでが探偵ですよ~と、脳内で誰かが言う。心当たりはある。

そこで、戻し忘れていた拳銃に気が付く。ふと、銃口の血痕を思い出し、「もしや」と嫌な考えが浮かんだ。この血の主は、例の浮気男で、彼は既に死んでいるのではないか──さらに思考は進み、少々行き過ぎとも思える妄想に囚われた。若しかすると、先月、男が女の胸に飛び込んだように見えたのは、銃撃を受け倒れただけだったのでは──だとすれば、俺は探偵として、とんでもない無能なのではないだろう?



そのまま事務所に戻ろうかと考えたが、止めた。得た成果を眺めていたら、面白いものを見つけたからだ。

写真フォルダのひとつに、近所の地図がはいっていた。そして、その中に位置情報を示す矢印が、宝の地図のバッテンよろしく己を主張していた。

そこで、俺はそこに向かうことにした。途中、ホームセンターで大きめの懐中電灯と、スコップを買った。気分は徳川埋蔵金を探す探検隊さながらだ。

地図に示された場所は、山とも林ともつかぬ、小高い地であった。スマートフォンのマップを参照にしつつ、登ってゆく。時計の針は既に十二時を指している。

位置情報からするとこの辺りと思わしき所に、けもの道があった。落ち葉などで多少の隠蔽工作はなされていたようだが、先日の雨で流れてしまったのだろう。そして、その先に、新しい土が盛られていた。位置情報もぴったりだ。

あっけなく見つけられたことに安堵と、軽い落胆を感じつつ、俺は腕まくりし、こんもりとなっている土をスコップで掘る。夜はかなり涼しくなってきたとはいえ、スグに汗が湧いて出た。その不快さを忘れようと、無心で何度も繰り返した。

一時間ほど続けた頃だろうか。土の中に今までとは異なる質の手応えがあった。少し掘ると、青い、ビニールのようなものが見える。夢中になって、さらに掘ること一時間、ついにそれを掘り出すことに成功する。

それは、青いビニールシートに包まれた、青虫を想起させられる、細長く楕円を潰したような形をした「何か」だった。えも言われぬ臭いとともに、異様な雰囲気をそれは発していた。

おずおずと、ビニールシートをめくる。ビニールが擦れ、ガサガサと音を立てて不気味だ。やがて、土の合間から、懐中電灯の光に照らされ、白く光るものが現れた。すぐに三度目の「ビンゴ!」を叫びたい気持ちに駆られた。しかし、こんな夜中に叫ぶのははばかられる。代わりに、小さく、語りかける。

「あなたは山の方でしたか」

その、青白い顔をした、正真正銘れっきとした死体は、先日の浮気男のなれの果てに違いなかった。かなり腐敗は進んでいたが、この恵体は、正しく彼のものに違いなく、ついでに胸に銃創があった。非常な不快さと、全ての謎が解けた達成感とで、妙な気持ちになり、つい、物言わぬ死体に語りかけていたのだ。

「奇遇ですね。実は、僕の方は海に沈められるところだったんですよ」



「探偵殿、お手柄ですな」

男の死体発見後、スグに警察に知らせた。俺の仕事はここまでだ。薬師寺娘の挙動については既に説明がつくし、結果的に行方不明者も探し出せた。これ以上の深入りは不要だろうと判断した。

しかし、もう危険は回避したという安堵と共に、一抹の名残惜しさは感じていた。更なるスリルと、達成感とを求める一方で、死ぬのはゴメンだという思いだ。生きて帰って、我が優秀な助手に報酬を払ってやらなくてはならない。

「何を、ふざけているんだ」三十代も半分過ぎの、かつての同級生だった刑事、泊に言う。普段は厳しい顔であるが、今日ばかりは相好を崩している。

「いやしかし、このデータは貴重だぜ」と、泊は言い、「今日から、楽しいお芋掘りですよ」と、地面から架空の芋づるを抜くような仕草をした。

「まあ、アイツらも甘かったわな。こんな重要なもん家に置いとくんだから。うん、サツマイモより甘い」泊は自分のスマートフォンを取り出し、いじくった。

「俺が凄かったと言ってくれ」

「はっ」と、泊は笑った。「珍しく探偵しやがって」

「れっきとした探偵が、珍しく探偵してるなどと言われるとは、俺も落ちたもんだ」

「前に警察車両の洗車頼んだの、いつだっけ?」

「去年の夏だ。あれは、キツかった」

「一体、お前はいつから探偵やってないんだよ」

「探偵らしく、尾行の毎日だ。どうにも俺は、尾行の女神とやらに尾行されているらしい。尾行するのは得意なのだが、どうにもされた際の撒き方は心得てないようでな。あることに長けると、それが相手に利用されるかもしれないということを忘れてしまうから怖い」



帰る間際、泊は「これは表彰もんだ。まあ、楽しみにしてろよ」と言った。「礼金はでるのか」と聞くと、「俺が一杯奢る」と肩を叩いてきた。「頑張れよ」

まだ早朝であるため、ほとんどの店は閉まっている。仕方なくコンビニに寄り、カップ麺とロールケーキを買った。

事務所は、灯りは消えていたが、鍵は開けたままであった。入ると、ソファで和戸君が丸くなって眠っていた。俺の帰りを待ってくれていたのだろうか。それとも、ゴディバを待っていたのか。

和戸君は俺の帰還に気付かず、すうすうと、心地よい寝息を立てている。毛布は被っていたものの、妊婦がこんな所で寝るのはいかがなものか。しかし、ベッドなどという大層なものは置いていない。とりあえず、着ていたコートをかけておく。十月とは言え、朝は冷える。湯を沸かし、冷蔵庫にロールケーキをしまっておいた。

その日の朝一番に、薬師寺がやって来た。気が付けば俺は、和戸君の眠っていたはずのソファで眠りこけており、ベルの音に叩き起こされた。

「ありがとうございました」

開口一番に、薬師寺は言った。下げた頭がローテーブルを叩き、珈琲のカップが音をたてる。

「そんな、俺は仕事をしたまでで」

「娘は警察に突き出しました」

俺が制しても、薬師寺は依然として顔をあげない。

「初犯でしたので、大した罪にはなりませんが──モノがモノですので、然るべき施設に入院させることになりました」

「それは、ごもっともです」

「聞いた話によると、売人まで見つけてくださったとか──」

「それはまた、別件で、偶然」

「いえ、あなたの優秀さに他なりません。本当に、危険な事に関わらせてしまい申し訳ない。お詫びと言っては何ですが、依頼料は多めに出させて頂きます」

薬師寺はそう言い、札束を置いた。それは、従来の額の倍は愚か、十倍にもなりそうな厚さをもっていた。

「そんな」と、当然断ったのだが、薬師寺は聞かない。「これは娘の金なのです。どうやら、裏でいかがわしいことをしていたようで…」そう、言葉を濁した。

「これは私の感謝と、責任の表れだと思って受け取ってください」

薬師寺はそう言い残し、事務所を去った。後には空の珈琲カップが二つと、札束入りの封筒、それから微妙な空気が残された。

「だってよ」と、和戸君を見れば、「いいんじゃないんですか」と微笑みを投げかけてくる。「家永さん、頑張りましたし」

「そうかあ」感慨深く札束を見る。何ヶ月分の収入に当たるだろうか。確かに、俺は頑張った。そう思うと、何度目かの達成感が押し寄せてきた。

ひと波越えると、今度は睡魔に襲われた。身を委ねるままに、ソファに寝転がる。すぐにうとうととしていた所、またしてもベルの音に目を覚まされた。

ガラス扉から入ってきたのは、先日の婦人であった。彼女は、相も変わらず無表情で、滑るようにソファに座った。

突然の来訪に俺は驚き、次になんというべきか迷った。

「この度は、ご愁傷さまです」

すると婦人は、「いえ」と言った。「ありがとう」

それが俺に向けられたものなのか、珈琲を持ってきた和戸君に向けられたものなのかすら、判別がつかない。

「まさか、このような大事になるとは思いもしませんでした。迷惑をおかけしました」

「ああ、いえ。実は、僕の方に不手際があって──というのも、前回の浮気調査の時には既に夫さんは殺されていた可能性があったのです」

「いえ」再び、婦人は言った。「夫が浮気をしていて、それでこんなことになったのは事実ですから」

殺された男は、やはりあの女の愛人だったらしい。とは言え、女の店の客として、だが。初めは単なる愛人という名の金ヅルだったらしいが、薬を売った所、売れるわ売れる。それはもう、大豊作だったらしい。しかし、取引を重ねるうちにある重大な秘密を知られてしまった。そこで女の上司、これがヤクザの親玉に当たるのだが、彼に男を殺すように言われた。男がのこのこと鼻の下をのばし家へやってきた所を、ズドン。しかし、消音器なる便利グッズがあるらしく、俺には下心丸出しの男が女の胸に飛び込んでいるようにしか見えなかった、と。

婦人は黙りこくってしまい、事務所は沈黙と、どこか気まずい雰囲気に包まれる。珈琲を啜る音と、カップがたてる音の合間に言葉を探す。しかしそれは見つからず、婦人に求めようと見れば、彼女は俯いて珈琲の水面を見つめていた。

「実は」やがて、婦人はおずおずと言った。「夫が死んで、せいせいしているんです」顔を上げた婦人の顔には、ぎこちない微笑が浮かんでいた。

返す言葉に詰まり、困った。単に同意するのは不謹慎ではないかという思いもあるが、それ以上に、冷徹の権化と見えた婦人の笑顔が非常な暖かみをもっていたのに驚いた。

「そんなこと言われても、困りますよね」

「あ、いえ」慌てて、首を振る。すると、「ふふ」と婦人は声をだして笑った。その声は続き、次第に大きくなり、ついには自力で止められなくなったのか、涙まで流して笑っていた。

俺と和戸君は呆気に取られて、それでもやがて、つられて笑っていた。婦人に何があったのかは測りかねるし、聞くつもりもサラサラないが、ただ嬉しかった。この笑顔を俺が引き出したかのようで、誇らしかった。

「ありがとうございました」散々皆で笑った後、婦人は俺たちに言った。「何かあれば、またお願いします」目尻を拭い、小さな包みを渡してきた。

「ほんの、お礼です」

去ってゆく婦人を見送り、昼前の青空を眺めていると、事務所の方から和戸君の声が聞こえてきた。「家永さん、ゴディバの新作ですよ。おやつにしましょう!」



あの、俺の人生の中でトップスリーに入る事件から、もうふた月も経つ。栄えある一番は宝くじ当選で、二番と三番で軽く迷う。四十を目前にして未だ恋人がいたことがないという事件と、どちらが勝るだろう。

最終的に警察に任せたとはいえ、かなりの証拠を見つけたのだから、ウチの探偵事務所も有名に──などと夢想していたものの、以前と変わらず中々依頼人は来ない。

どうやら、一応一般人である俺の危険を考えて、俺の捜査への寄与貢献は公表されなかったらしい。当人としては非常に残念な話だが、一応一般人である俺が一応一般人である女の家に忍び込んだことのお咎めもなしということで、ここらで手を打つ他ない。後日、小さな感謝状が届いたので、事務所に飾っておく。和戸君が買ってきた大仰な額縁に小さな賞状が飾られる様はこの事務所に似合っていて、かわいらしい。

最近した仕事といえば、迷い犬探しと大掃除、それからプロポーズを前にした身の上調査と、あまりパッとしないことばかりだ。あの時、非常な緊張感と恐怖に動けなくさえなったと言うのに、さあ再び元の生活にとなれば、こうだ。退屈というのは、どうも人を馬鹿にするらしい。身に覚えはある。

何か、事件は来ないものか。例えば、たまたま立ち寄ったファミレスで殺人事件が起きて、犯人を推理する──俺に推理力があるとは到底思えないが、楽しい妄想だ。

今日和戸君は休みだ。一人事務所の椅子に腰掛け、クルクルと回す。二回転半ほどした所で、来客を告げるベルがなった。慌てて、椅子から飛び降りる。拍子に椅子が倒れ、ガチャガチャと音を立てて響いた。

入ってきた男は二十代後半から三十中頃といったところだろうか、その精悍な顔つきに見覚えがあったが、名前まで思い出せない。

「よくいらっしゃいました」と、ソファに案内する際に、男は俺の顔を見て、微笑みを投げかけた。「いつも妻がお世話になっています」

それで、思い出す。この男は和戸君の夫である、和戸義尊君だ。しかし、何故、義尊君が、ここへ?「珈琲がインスタントしかなくて、申し訳ない。それか、紅茶でも」動揺を隠し、平静を装う、時間稼ぎだ。

「ありがとうございます。しかし、大丈夫です。すぐ終わりますから──妻は今日、休みですか」

「ええ。聞いてなかったのですか」

「ああ、タメ口きいてくれて構いませんよ。妻の上司ですし、確か、歳も上ですよね」

「そうか、ならお言葉に甘えて」麦茶をローテーブルに置く。カラリと、氷が音を立てた。

「実は、今日、妻は仕事だと言って出てゆきました」

義尊君は、苦虫を噛み潰したような顔をした。さっき「妻がお世話に──」と言ったとは到底思えない、憎悪すら感じる表情だった。かみつぶした虫の体液がこちらに飛んできて、俺の目を潰してしまいかねない勢いだ。

「単刀直入に言います。妻は、浮気をしているかもしれません。いや、確実にしています。その証拠を、家永さんに掴んで貰いたいのです」

彼は拳を握りしめ、俯いた。グラスに浮いた氷を、視線で砕かんとばかりに睨みつけた。

俺は、やっと平静を着込んで、思う。あの和戸君が浮気をしているというのは想像つかないが、仮にそうとして、何故それを俺に依頼するのだ!俺レベルの探偵は、それこそ俺が掃いて捨てられやしないかと不安になる程沢山いるというのに。

「妻はかつて言っていました」俺が黙っていると、義尊君は言った。「ホーム探偵事務所は、『来る者拒まず去るもの追います』がモットーだって」

その言葉には、苦笑せざるを得ない。このモットーは、かつて尾行をする日が続いた際に、本来のモットーをもじって吐いた冗談だ。それが、このような形で戻ってくるとは。

「俺を拒まず、俺の前を去った妻を追ってください」

その一言で、俺は参ってしまった。「わかった。やってみよう」そう、口走っていた。「追うよ。我が優秀な、助手を」

義尊君が顔を上げた。その目尻には涙の後が見て取れる。「ありがとうございます」その言葉は、心の底から出た声のように思えた。

「どのぐらい調べればいい?」聞くと、義尊君は申し訳なさそうに眉をしかめた。

いや、申し訳なくなるのはそこじゃないだろとツッコミたくなるのを堪えていると、「それが、今日だけでいいんです」そう返ってくるものだから、突っ込んでしまう。「え、今日だけ?」

「ええ、急ですみません。でも、妻からそれとなく今込み入った依頼はないと聞いていましたので…大丈夫でしょうか」

「確かに暇だが」半ば呆れつつ、悟らせまいと思案顔を作る。「しかし、和戸君は既に家を出たのだろう?」

「ええ。ただ、必ず妻はここに現れるはずです」そう言い、義尊君はある場所の名を告げた。事務所から割合近くにある、商店街だ。

「先日、テレビであるケーキ屋が紹介されていたんですが、妻は大層食べたがっていまして。そして、今日、ここでケーキ屋が出張販売するんです」

「なるほど。ならば俺は、その店の前で見張っておけばいいわけか」

「ええ」と義尊君は頷き、机の上に封筒を置いた。「勿論、尾行もお願いします。それから──これは前金です。次会う時に、全てお渡しします」

封筒の中を見てみると、相場の倍近くはある。やるしか無さそうだ。

「来る者拒まず去る者追います!」誰かが朗らかに言った。俺は、今から君を追うんだよ。心の中で、陰気に言った。



商店街の客に紛れて、半信半疑ながらも露店販売をするケーキ屋を見張った。今日はやけに人が多く、身を隠すのには最適の日だった。しかし同時に、ケーキを買いに訪れる客も多く、常に注意しなければならなかった。

それにしても、本当に和戸君は現れるのだろうか──義尊君には余程の自信があると見えたが。妻のことならば何でも、ということか。しかし、彼女の恋心はどうにも出来なかった、と。いや、そうではなく、和戸君の浮気疑惑は義尊君の勘違いで、実は夫に内緒で歯医者に通っているのかもしれない。大人で虫歯になったと言うのは少し恥ずかしいものだし、アレの治療には少なからぬ時間がかかる。

そんなことを考えていると、見慣れた背格好の女が現れた。女は帽子と、冬場だと言うのにサングラスをしている。しかし、肩の辺りで切りそろえた髪や、口元のホクロなどは明らかに和戸君と重なる。肩にかけたバッグも、かつて事務所で見たことがある。ああ、義尊君の目は確かだった。それが幸なのか不幸なのかは、俺にはわからない。

事前に予約していたのか、整理券らしきものを渡して、和戸君はケーキの箱を受け取った。どうも、箱の大きさからすると一人分では無いらしい。和戸君は商店街を出てゆこうとする。ここで彼女が家に帰れば、ただお土産を買いに出ただけになる。しかし、向かう先は彼女の家とは逆の方角だった。

慎重に後をつける。軽く変装はしてあるが、先の俺のように、長い付き合いの和戸君だ。直ぐに見破られるかもしれない。万が一見つかれば調査途中の偶然とでも言えばいいだろうが、流石の俺も少々胸が痛む。まさか、最も信頼していた助手の浮気を疑っているだなんて、心の中ですら言うのは辛い。

和戸君は、本当に浮気をしているのだろうか。考えるまいとしていた疑念が、再び浮かんでくる。疑念と言うよりは、彼女がそんなことするはずがないという希望と呼ぶ方が正確か。浮気をされた者の悲しみ、した者の愚かさは、それらを暴いてきた俺たちが最も知るところだろう。彼女は誰かの浮気が発覚する度、憤っていた。少なくとも、そう見えた。そんな彼女が──そもそも和戸君は、妊婦だ。この大切な時期に──嫌な考えが浮かんだ。お腹の子は義尊君との子どもなのか。それは非常に残酷な考えで、考えついた自分自身に嫌悪すら覚えるものだった。

和戸君の腹は、一目見れば妊婦であるとわかるくらいには大きくなっている。ケーキを入れた箱を大事そうに抱えながら、自らの腹を気遣うその様からは、浮気だの不倫だのにありがちなやましさは一向に見て取れない。知らず、彼女が浮気をしていないことを、それは義尊君の早とちりであることを、願っている。それほどまでに、彼女の姿は優しさに満ち、神々しさすら溢れ出していた。

そんな俺の願いは、ずんずんと知らぬ方向へ進む和戸君の歩みに否定されてゆく。その先には歯医者もなければ、希望もない。

どこかの店先からクリスマス・ソングが聞こえた。「メリークリスマス!」どこかの店員が言った。今日がクリスマスイブであることにふと気付く。そりゃあ、夜だというのに街が賑やかなわけだ。こんな仕事をしていれば、日付感覚は無くなってゆく。昼夜逆転生活を送ることもざらだし、人との関わりも自然薄れる。

まあ、俺には縁のない話だ──空を見上げる。雲も星も、月もない。ただただ深い黒が地球を覆っている。この世に俺一人しか存在していないような、錯覚に陥る。探偵の夜は孤独だ。聖夜でさえ。イルミネーションの光が朧気に俺を包む。

この件が終わったら、俺はどうすればよいのだろう。義尊君が俺に調査を依頼した事は隠すにしても、俺が普段通りに彼女と接することが出来るかは自信がない。唯一、孤独を忘れられるあの場所も──あの探偵事務所も、また孤独な仕事場になってしまうのだろうか。

和戸君が去ってゆく──追わなければ。

住宅街に入った。既に、ここがどこかわからなくなっている。ひたすらに和戸君の背を追う。彼女の足取りは軽い。俺の心はこんなにも重いというのに。

しばらく住宅街を進むと、和戸君はひとつの家の前で止まった。そして右、左、右と車を確認するように、左右を確認した。夜の住宅街には、車はおろか、俺と彼女以外の人はひとりとしていない。

和戸君が玄関のベルを押した。やがて、ドアを開けて長髪の男が現れた。こちらからは、灯りの加減で顔は見えない。しかし、義尊君でないことは確かだ。

男は腕を広げ、和戸君に歓迎の意を表した。彼女は、その胸に飛び込むということはないものの、男の胸にそっと体を寄せた。そして、男に促されるままに家へ入っていった。

俺の中で、望みが絶えた。悲しみに似た感情がせりあがってきた。俺はそれを必死に抑え、和戸君たちが消えた家へ歩み寄る。

かつての失敗から、恋人を持つ男と女が家の中へ消えただけで、浮気と決めるのは早計であると学んだからだ。そこは不埒な愛の場などではなく、若しかすると殺人現場であるかもしれないし、何らかの打ち合わせの場であるかもしれない。今回に限れば、糸一本残った望みを手繰り寄せようとしたとも言える。

ドアの横に身を滑らせる。ドアの合間から、声が漏れ聞こえやしないかと、耳をそばだてる。すたすたと、スリッパがフローリングをする音がした。会話は聞こえない。これだけでは断定できない。ならば、窓から伺ってみようか。

そう考えた時、唐突に目前のドアが開いた。背中に衝撃が走ると共に、俺は家の玄関へ転がりこんでいた。外側からドアを開けられ、蹴り入れられたのだと、遅れて気が付く。

「よぉ」その声の主は、玄関から俺を見下ろした。彼は、先ほど和戸君を迎え入れた男だった。そして、髪型が変わっていたので気が付かなかったが、長髪の間から見える厳しい顔つきに見覚えがあった。それは間違いなく、かつての同級生であり、刑事である、泊のものだった。

背後でドアが閉められ、施錠する音が冷たく響いた。振り向くと、そこにも男がいる。同時に仰天する。依頼主であるはずの義尊君が、冷酷な目で俺を見下ろしていた。

「どういうことだ」俺の頓狂な声は、泊の低く、冷たい声に覆い隠される。「つまり、そういうことなんだよ」

その手には、見覚えのある銃があり、その銃口は真っ直ぐ俺に向けられていた。

咄嗟に逃げる事を考えるも、体は動かない。であるのに、頭は尋常ではない程冴えている。あの、異常な緊張感に駆られた夜を思い出し、自分の愚かさを確信した。まざまざと嫌な想像を見せつけられ、その悪夢から逃げようと状況を整理する自分がいた。

義尊君は俺に和戸君を尾行するよう依頼した。和戸君を追うままにこの家へ来ると、尾行する俺を尾行していたのであろう義尊君に、家の中へ蹴り入れられた。そしてそこには泊がいて、俺に銃を向けている。今にも俺は殺されるのだろう。それら一連の流れの意味は?はっとした。泊の持つ銃は、かつて自分が女の家で発見したモノと同じ型の銃だ。つまり、泊は、彼らは、あの女と繋がっていた?そして、俺への報復にでたのだ!

望みが完全に絶えた。それだけでなく、僅かな希望に手を伸ばした俺の腕までも絶たれた。絶望の上をゆく表現を俺は知らない。俺はこれから孤独になるのではなかった。既に、完全に、孤独だったのだ。

俺は全てを諦め、瞳を閉じた。もう、何も見たくなかった。

「メリィ・クリスマース」

泊がそう言うのが聞こえた。すぐにも銃声がして、俺には鉛玉のプレゼントが贈られるだろう。それは、天国行きの切符でもある。地獄行きかもしれない。どちらでもいい。死ねば何も考えずにすむ。希望など鼻から持たずにすむ。探偵は孤独に死ぬのがお似合いだ。

ぱん、と、乾いた音が玄関に響いた。思ったよりもずっと音は小さい。これが消音器とやらの効果か、と感心する。痛みはない。死ぬ前には皆こうなるのだろうか。衝撃すら感じられないというのは、不思議だ。額の辺りにひんやりとした何かが張りついた。血が垂れたのだろうか。となれば頭を撃たれたことになるが、意識はまだ途切れない。

ぱん、ぱん、ぱん、ぱん、と銃声がさらに続いた。もう、恐怖はなかった。



「メリー・クリスマス!」

そうか、聖夜に死ねるとはなかなか乙なものだ。どうやら、無事天国とやらにはいけたらしい。神にでも生まれ変われれば良いが──違和感に気が付いた。明らかに、声の数が多いのだ。

目を開くと、色とりどりの紙がひらひらと舞っていた。それらの間隙から、笑顔が覗いていた。泊、和戸君、町山さん、薬師寺、彼らの手にはクラッカーが握られ、その先に俺がいた。振り返ると、義尊君が苦笑を浮かべている。「騙すようなことして、すみません」

和戸君が俺の目の前にやってきて、言った。「ドッキリ大成功!」意地悪く笑って、俺の手を引いた。俺はまだわけもわからないままに、促されるままに、リビングへ連れられた。

 「Merry Xmas」の装飾が施されたリビングの中央にはテーブルが置かれ、その上で数々の料理が湯気を立てていた。立食パーティーさながらのセッティングに、やっと俺の思考が追いつく。義尊君よ、謝るならサプライズを仕掛けたことではなく、俺に蹴りを入れたことだろうに。

「なるほど」そう呟いていた。「和戸君も、人が悪いな」

「家永さん、傑作でしたよ」思い出して可笑しくなったのか、和戸君は腹を抱えた。「家永さんって、あんまり感情を出さない人だから」

「あれだけのことをされれば、出す感情もなくなってしまう」ぶっきらぼうに言うと、

「怒りました?」と和戸君が俺の顔を覗き込んだ。

「そりゃあ、怒りたくもなる。本気で、悲しかったからな」

すると和戸君は「ごめんなさい」と珍しく殊勝に謝り、遅れて、「僕からも、すみません」と義尊君が頭を下げた。

「まだ怒ってはない」慌てて、否定する。「それより、今は。とても、嬉しい。とても」

「まあまあ、ご飯冷めちゃいますよ」町山さんが、俺の背を押した。「皆さん、急ごしらえで、あまり片付いてない家ですが楽しんでいってください」

「メリークリスマス!」



「いかがです?」

俺が唐揚げを啄んでいると、薬師寺がワイン片手に話しかけてきた。ドッキリのことか、パーティーのことか、それとも唐揚げのことなのかと悩んでいると、「それ、私が作ったんです」と言うので、「とても美味しいです」と返した。

「家でも唐揚げだけは私の担当でね」と、薬師寺は満足そうに笑った。

「今日はクリスマスなのに、家族の方は大丈夫なんですか」

「今はクリスマスどころじゃないですからね。」薬師寺は一瞬悲しげな表情を見せた。「それに、貴方は我々の恩人ですから」

俺はなんとも言えず、唐揚げを齧る。「美味しいです。とても」

「和戸さんを責めないでやってくださいね」

薬師寺の言葉に唐揚げを喉につまらせそうになり、「まさか」の一言がでない。

「彼女は、本当に、家永さんを喜ばせたい一心でこのパーティーを企画したんです。わざわざ私たちに声をかけて、あんなものまで作って」そう、泊が置いた銃を指さし、薬師寺さんは苦笑した。「中々精巧ですよ。まさかクラッカーとは思わない。家永さんが一番身に染みて知っているでしょうが」

つられて、苦笑いが浮かんだ。「すっかり、だまされました。なかなか間抜けな顔だったでしょう?」

「頑張った甲斐があったというものです」薬師寺は満面の笑みを見せた。

「本当に、感謝しかないです。俺は孤独じゃないって、探偵やってて良かったって、初めて思わせてくれた」

俺は、かつてない感情がこの胸に満ちてゆくのを感じていた。それは、尾行をやり遂げた時とも、金庫の鍵を開けた時とも、謎を解き明かした時とも違う、それは──そう、形容できぬ感情だった。絶望の上の絶望がそうであるように。

「お酒はいかがですか?」

「あ、じゃあ、ワインを」

受け取ったワインを飲み干す。顔が上気するのは酒のせいだけではない。

「そろそろケーキも食べましょうか」

料理が大方無くなったのか、和戸君が提案した。

「そりゃあ、いい」

気が付けば泊はいつもの短髪になっていた。どうやら、ウィッグをつけていたらしい。

やがて、冷蔵庫からケーキの箱が取り出された。それは俺の尾行中、いや、俺をおびき寄せている間に和戸君が買っていたものだった。

箱をひらくと、大きめのロールケーキが顔を出した。ブッシュ・ド・ノエルと言うのだろうか、チョコレートクリームをふんだんに用いたロールケーキを倒木よろしく横たえ、その上に切り株を模したもうひとつのロールケーキが乗っかっている。そこにサンタクロースとトナカイの蝋人形が飾られ、苺やアラザン、チョコプレートに囲まれて笑顔を浮かべていた。

「すごいな」思わず、唸っていた。飴に群がる蟻の如く、ケーキ屋に殺到する人々を呆れて観ていた俺だが、そう言わずにいられない。

「妻がこのケーキを食べたがっていたのは本当なんです」義尊君がナイフを持ってきて、器用に六等分してくれた。

「あ」と、背後で和戸君が声をあげた。「まだ写真撮ってなかったのに」胸の高さにスマートフォンを掲げて、しかめっ面をした。

「良いじゃないか、皆で写真を撮ったら」

義尊君の困り声に、彼以外の皆が笑った。気が付けば、泊などは既にケーキに手を付けている。「家永、これは中々いけるぞ」そう、俺の分の皿を渡してきた。

フォークでケーキを切り取り、口に運ぶ。クリームのまろやかな甘みが広がり、追ってチョコレートの深みが顔を出す。かと思えば、スポンジ・ケーキが己を主張し始めた。驚嘆すべきは、それぞれがそれぞれを強く主張しているのに、全てが良い塩梅にまとまっている事だ。甘過ぎず、甘くなさ過ぎず、くど過ぎず、あっさりし過ぎない。

「確かに、美味いな」

「だろ」と、泊は自分が買ったわけでないのに、自慢げに言った。「ちょっと位貰ってやってもいいぜ」

ほとんど夢中になってケーキを食らった。フォークで皿に残ったクリームをすくい取る。なるほど、これが幸福と言うのだろうな。皆揃って皿を空にし、皆が同様に穏やかな表情を浮かべている。幸せを噛み締めつつ、フォークについたクリームを舐めとった。それでも微妙に残るクリームが名残惜しい。

「ここで、プレゼントタイムです」皆が食べ終えたのを確認して、和戸君が言った。クリスマスツリーのもとへ行き、ゴソゴソと何かを探っている。やがて手に小包を持って、俺の前に立った。

「はい、家永さん」

緑の包みに赤いリボンの小箱を俺の手の上に置くと、彼女は部屋いっぱいに響く声で「メリークリスマス!」と言った。

手のひらに乗せられた、こぢんまりとした立方体の箱をまじまじと見る。誰かからクリスマスプレゼントをもらったのは中学生依頼だ。懐かしいうれしみが滲んでくる。

「開けてもいいか?」

了解を得て、クリスマスカラーの包装紙を剥がすと、はたして、和戸君からのクリスマスプレゼントは、時計だった。「おお」と、つい声がでる。

「こんな良い物貰ってもいいのか」

「家永さん、欲しいって言ってたでしょう」

そのデジタル式の時計は、時刻は勿論、体温やら何やら、果てには簡単な連絡をとることすらできる、最新式のものだった。懐中電灯機能もついており、探偵業務に便利だろうなと、かつて一度こぼしたことがある。それが数万は下らぬ高価な品であること以上に、俺の小さな呟きをしかと記憶してくれた者がいるということへの、喜びの声だ。

「かなりしただろうに」

「受け取ってください」それでも俺がおろおろとしていると、義尊君が言った。「報酬は、後で全てお渡ししますと言ったでしょう?」小声で、耳打ちした。

「ありがとう」どこかしてやられた気がするものの、ありがたく受け取ることにする。「ありがとう。大事に使わせて頂く」

和戸君は満足そうにウンウンと頷いた。そして、俺に向かって手を伸ばした。「ほら」と、今にも言わんばかりである。

「家永さんも、プレゼント」

「あげたい気持ちは山々なんだが」苦笑せずにいられない。しかし、本心から思っている。「今は何も持ち合わせていないんだ」

すると、和戸君はニヤリとした。してやったりという顔だ。そして、自らの膨らんだ腹に手を当てた。それに義尊君がそっと寄り添って、さらに手を重ねた。

「この子に」そうして、二人合わせて穏やかな微笑みを俺に投げかけた。

「プレゼントを、この子に。素敵な、名前を」

せっかく頂いたプレゼントを落としそうになった。「難しい依頼だ」あまりに思いがけないものだったから、そうこぼしていた。

「これまでで一番かもしれない」それは今までで一番、難しく、嬉しく、誇らしい依頼だった。これを解決した暁には、俺の人生における事件ランキングのトップは十数年ぶりに変わり、永久不変となることだろう。

「来る者拒まず、でしょう?」和戸君が言った。「男の子ですよ」

「わかった」深く頷く。「やってみよう──その代わり、去ってくれるなよ」

どこへ行ったって、探偵の名にかけて、追いかけてやるが。

「あれ、家永さん泣いてます?」

精一杯取り繕いつつ、真剣に、考えた。それでも、気を緩めれば、目が潤んだ。そのような体験は初めてのもので、それがまた俺を動揺させる。

「馬鹿いえ」容量いっぱいいっぱいになるまで俺の心は満たされた。これ以上動かそうものなら、感情が溢れ出してしまうに違いないのだ。零れ出た感情が水に似て清く、美しいために人はそれを涙と呼ぶだけなのだ。「泣いてなど、いない」

まさか、人の子に名前を付けることがこの人生であろうなど、考えたこともなかった。どのようにすれば良いのか、皆目見当がつかない。普通はどうするのだろう。俺の名前から取るのはあからさまで気恥ずかしい。ならば、和戸君と義尊君から取るのが無難だろうか──頭の中で漢字を組み合わせていると、ふと、思いつくものがあった。同時に、これしかないと確信する。

「尊というのはどうだろう。足利尊氏の尊とかいて、タケル、だ」

「タケル」和戸君が、お腹の子に語りかけるように、言った。「いいよね」

「僕の名前から取ってくれたんですか」と、義尊君。言われて気付く。そう言えば、そうだ。

「ふふふ」と、和戸君が意味ありげに笑った。俺も追って、笑う。「決定だね。君の名前は、尊だよ」

「尊君」和戸君のお腹に向かって、語りかける。「君に、この名前をプレゼントする。大事に使ってくれ」

ぱちぱちと、町山さんが手を叩いた。周りの者もそれに続く。部屋いっぱいに拍手の音が響き、笑い声が満ちた。俺はすっかり気分が良くなって、傍にあったワインを飲み干した。すぐに酔いが回る。酒にではない。幸福に酔いしれた。そして、気がつけば叫んでいた。

「俺みたいになってくれるなよ。尊敬される人になってくれ!」

笑い声が溢れ出した。

「家永さんも尊敬されてますよって」

和戸君も、笑った。「乾杯しましょう」

 六つのグラスが灯りの下に掲げられ、それぞれが輝いた。

「俺の名演技に」

「平和な町に」

「家族の平穏に」

「皆の笑顔に」

「私たちの幸福に」

「未来の我が優秀な助手に!」


六つの光は重なり合い、音を立てた。チリリンと、聖夜の訪れを告げるベルのように。

                                                          

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