衰亡する現在の中で
現在というのは大衆社会であるが、単純に言って大衆は、自らを批判するものを許さない為に「腐敗」していると思う。もちろんこんな事を言ってもオルテガが言った事を繰り返すだけとなるだろうが、まあそうだと思っている。
僕などは、政治にも歴史にもそれほど興味はない人間で、もっぱら芸術とか作品にだけ興味がある人間なのだが、どうやら芸術だけを純粋に取り出して見るというのは不可能だとようやくわかった。それで、芸術とか作品を成り立たせているその他の領域に目を向けざるを得なくなった。
現在に目を向けてみよう。現在におけるクリエイターとは、簡単に言って大衆に対する奉仕者である。高坂正堯の本に、ローマ帝国が滅んでいく時代には、大衆化と独裁者の専制が同時に進んだと書いてあるが、これは現代の状況と同じであろう。芸術、作品の領域にこれを置き換えると、大衆の欲望や願望に合致するような作者が、独裁者として振る舞うのが常態化しているという事だ。三流の作品を書いていながら、大きな声で自分の天才を喧伝している「クリエイター」を我々は各所に認める事ができるだろう。
具体的に言うと「なろう小説」を書いてデビューした人間が「作家」を名乗ろうとは僕も思わなかった。低俗な作品を作りながら、それに対する喝采によって内容の低さを糊塗する…これもまた、ローマでは衰亡する時期に現れていたらしい。ローマでは法定弁論が腐敗していく状況において「喝采屋」が現れたと高坂は書いている。法廷における討論の内容ではなく、それに対する喝采によってどちらが正しいかの優劣を決める…内容を吟味するのではなく、喝采の「量」によって「質」を決定しようとするのは現在に酷似している。
この例は無限にあげていく事ができるだろうが、現在はそのような状況だろう。SNSによってそれぞれが繋がり、喝采や支持は大衆の専制へと繋がり、それは専制君主を生むだろう。自制を知らない人が支持するのは自制を知らない人間だという理屈は見やすい。歴史は繰り返されているようだ。
これまでであれば、こんな風に一つの社会が衰退しても、その他の社会はそれに追随しないので、それぞれの社会が戦争をしたり和解したり、相手の文明を吸収したりして、つまりはそれぞれの社会が切磋琢磨して全体としては上昇する事ができたのだろうが、現在はグローバルに世界が繋がっているので、世界全体が沈没しているという気もしないではない。ただ実際はそうではなく、歴史が新たな局面を向かえているというべきなのかもしれない。そのあたりは未来にならないと決定できないのだろう。
こんな事を書いてお前は何が言いたいのか?と言われれば、今までは、そう感じつつ口ごもってきた事…つまり、今の大衆社会というのは腐敗しているというのを自分なりに把握しておきたいという話だ。これを現在で言うと総スカンを食らうのは目に見えている。視聴者が悪い、俺達が悪いとは何事か! 俺達を楽しませるのがクリエイターの役割だろう! という声が聞こえてくる。実際、そうした声に答えるようにしてサブカルチャーは大きく伸び、カルチャーは低下している。だからそう怒鳴らなくても既にそうした人達の天下なわけだ。
しかしサブカルチャーは伸びたと言っても、例えば宮崎駿やスピルバーグや手塚治虫は、大衆社会の王様であり、その限りにおける天才だった。僕は今は彼らを天才だとは思っていないが、大衆社会が腐敗すると言っても、もう既に宮崎駿が王であるような世界は腐敗が始まっていたのだろうが、それでもそこには一定のクオリティはあった。もちろん、宮崎駿を漱石や鴎外と比べる事はできないが、大衆社会並のクオリティはあったと言ってよいだろう。例えば「スラムダンク」のような作品にもある程度のクオリティはあった。しかし、「なろう小説」「ユーチューバー」「スマホゲー」と言ったものが全面的に現れた世界では、衰亡も極限に達したという気がしている。
つまり、僕などは元々大衆文化には違和感を感じてきた方だが、宮崎駿でもエヴァンゲリオンでも、それらを全面否定するかと言うとそうではない。そうではない……だからこそ見えていなかったものがあって、それが今や浮き上がり、社会の表面に現れてきた。それが様々な社会現象として現れているのが現在という事なのだろう。もはや動物的な域にまで達したコンテンツと、考える事を一切許さないイデオロギーの波が我々を包んでいるが、それは自己批判が存在せず、自己を相対化する視点がない場所、テクノロジーや科学といったもので生活の安楽のみを至上とするそうした世界だ。つまりはディストピア小説を書いてきた人間は正しかったわけだ。
現在はそういう状況で、自分もまさかこんな世界になるとは想像もできなかった。だが、今考えているよりももっと未来はひどい状況になる可能性がある。いや、人間の思考の方向性から言って、そうなるだろう。僕個人についても身体の衰えや死に対する漸近など、以前には想像もつかなかった。人間の想像力はそもそも間違っている気すらする。
まとめると、明らかにこの社会は衰滅に向かっているらしい、という事だ。それは歴史から逆算して、大衆化、自己正当化、生活の安楽志向、またそれに呼応する専制化といったもので特徴づけられている。そうしたものがまとめて下り坂を落ちている。戦争期には、負けている時に限って自分達は勝っているというアナウンスが流れたようだが、現在はそれによく似ている。
衰滅に向かっているからこそ、それを糊塗する為の様々なコンテンツが世にあふれる。僕らは世界の終わりを見ているのか。しかし、そう孤独になる事も絶望する事もあるまい。アレクサンドリアの市民は衰滅していく文化の中で懸命に良きものを守ろうとしたが、努力は実らなかった。我々が今見ている光景は我々だけが占有しているものではない。それは歴史の中で繰り返し見られた光景だ。だからきっと、そう悲しむ事もないのだろう。破滅を見守る人間としての我々は歴史の中では決して孤独ではないのだから…。