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さいご

作者: 谷崎 亜矢子

 つくりもののような人差し指が、水平線をなぞる。かすかな呼吸の音が響くたびに彼の真っ白い指の先は揺れて、紺に近い色合いの空と、深い緑色をした海の、どちらにも少しずつひたされていく。

「ほんとうに、光は直進するんだね」

 彼は写真から顔を上げて言い、初めて雪を見た子供のように笑った。雲をすり抜けて海面に降り注ぐ透明な太陽が、まぶしかったとでもいうように。彼が目を細めると、薄い頬を横切る管がほんの少しだけ上へ動いて、今年最初の柔らかな夕日がつやりとこちらへ反射した。赤く灯ったストーブが、じ、と小さな音を立てる。過ぎた年の騒がしさを取りつくろうような、温かな香りの午後だった。

 彼の右肺に巣食った病は、あらゆる治療に耳を貸そうとしなかったが、強い薬をやめてからも二年ほどの間は、特に広がることもなく間抜けな小鳥のように黙っていた。私も彼も両親も、このまま何事もなく時が過ぎていくのではと、甘い期待を抱き始めた。そんな矢先、昨年の春頃のことだった。小鳥は突然牙をむき、ものすごい速さで彼を食い散らしていった。彼は昼夜を問わず高熱にうなされ、咳に咳を重ねて窒息しかけた。増築のしすぎでちぐはぐな構造をした大学病院の奥で、髪を真ん中でふたつに分けた初老の医者は、こうなるともうだめなんですよね、と彼のスライス画像を眺めながら言った。最近灯油が高いんですよねというような、何気ない言い方だった。「背骨が食い破られて脊髄まで圧迫されています。手足がしびれて動かなくなるのも時間の問題でしょう」くたびれた白衣の胸ポケットからは、やけに写実的なサボテンの飾りが飛び出していた。

「……ぜぅ、けふコホッ……っは、……はーー……」

 軽い音とともに写真が落ち、フローリングを滑った。彼の日に日に骨のかたちが透けていく左手が、薄い肋骨の向こうをつかもうとして震える。瞳に宿っていた笑みはかき消え、かわりに涙のような微熱が、目尻からじわりと満ちていく。ふらふらとさまよう眼差しは、まるで母親を探す幼児のようで、ああ彼はまだ十九なのだ、私より五年もあとに生まれた、酒の味も知らない弟なのだと、今さらのように思い出されてどきりとする。老いと病とがこれほどまでに似通っていたなんて、本当ならばまだ知りたくはなかった。

「このお正月も、平成最後なんだよね」

 切れ切れの息をつなぎ合わせ、彼はゆっくりと言葉をつぐ。

「次の元号、何なんだろう」

 何なんだろうねと私も言う。四月一日にわかるらしいよと、口に出しかけて喉に詰まった。

 とてもおかしな感覚だった。「四月一日にわかるらしいよ」詰まった言葉が気管をふさいで、吐いた息が出て行けずに身体の中に溜まり始める。息を吸って吐くたびに、私の腕が、胸が、どんどん膨張して、意識を上へ上へと引っ張っていく。弟の姿が遠ざかる。心臓が激しく打ち鳴らされて、かあっと身体が熱くなる。やめて、そんなに引っ張られたら離れてしまう。「四月一日にわかる」怖い、息を止めなきゃ、「四月一日」思えば思うほど呼吸は速くなる、「しがつついたち」やめて、ユウはどこ? 「シガツツイタチ」ずっと一緒に育ってきた、大事な可愛い私の弟……!

「姉さん……? どうしたの、ちょっと、苦しいよ」

 はっとして我に返ると、私は彼をきつく抱きしめていた。腕の中にある彼の身体は横の幅ばかり広く、痛いくらいに厚みがない。あとほんの少しでも力を込めれば、簡単にばらばらになってビー玉のように散らばってしまいそう。けれど、私のものではないその鼓動は、確かにとくとくと感じられていた。伸びかけた襟足に触れ、しっとりした頭皮に指をはわせる。日なたではためくバスタオルのような、昔から変わらない彼の肌の香り。熱っぽい息が弱く首筋にかかる。ふ、ふ、と間もなくその息は、綿雲のように不安定にちぎれていく。

「ユウ?」

 身体を離し、肩だけに手を置いて彼を見る。彼は、ずれた酸素チューブを耳に引っかけ直しながら、かたかたと口元を震わせて笑っていた。

「っふ、ぇふ……ふ、あは」

 笑い続ける彼を見て、何かがすとんと下りてきた。この瞬間の五感のすべてを、瓶詰めにしてとっておきたい。心からそう思った。彼の匂い、笑い声、幸せそうな顔、とがった肩の感触、喉の奥を伝っていくひんやりしたもののしょっぱさまで、ひとつ残らず大切にしまっておきたい。実際にはそんなことはかなうわけもなく、私の雑な造りの手のひらから、時間は、記憶は、ほろほろとすり抜けていく。今この時でさえ、一瞬彼から目をそらせばすぐに、あの美しい鼻の輪郭は思い描けなくなってしまう。そんなものなのだ、そんなものなのだけれど。

 夕日はすでにだいぶ落ち、昼と夜の境目の青みがかった光が部屋を染めようとしていた。もってあと三か月と言われた弟の、一か月と十六日目が暮れていく。


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― 新着の感想 ―
[一言] もうすぐあの人の一回忌。骨の透けた手を振った最後の姿が忘れられません。本当に1日1日を大切に数えてた姿を思い出しました。そうあらねばと反省してます。
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