五
「……」
戸惑いの沈黙は一瞬。
無遠慮な動きが、水と飯を奪い取った。
「礼だ。おかげで、私が為すべきことが見えた。礼を言おう」
水を飲み、握り飯に齧り付く闇に、祈姫は晴れやかな感謝を告げた。
「近くに土地神様はいないらしい。私の願いは、届かぬらしい。だから、私が生まれ変わって土地神になり、この地を護ることにする」
「おめでたい事だ。姫さんは何故ここに居る。何故光を奪われ、闇の中に閉じ込められて、飢えを待つ事になっている。閉じ込めた奴らがいるからだ。そんな者たちを何故護る」
「ふふふふ、私は、神になろうとしているのだ。神が、そんな細かいことを気にするものか。丸ごと護る」
「バカヤロウ、とんだお人よしだ。おかげで、オレは力を取り戻した。何とかして、ここから出してやろう。オレは姫さんが気に入ったらしい」
乱暴な言葉遣いとは裏腹な、せつなげな気配がはみ出す。
人にあらぬものが、人に恋した。
「……姫さんを、助けたい」
「ならば、もう災いをなすことを止めよ。私との約束だ。よいな。
おまえに名をやろう。灯想華、良い名前であろう?
細かいことは気にするな。
おまえは穏やかな風になれ。この世を潤す優しい雨になれ。
私は、おまえを護ろう」
音が消えた。
葉ずれの音、
川のせせらぎ、
生き物たちが立てるかすかな物音、
聞こえていても誰も気にしない日常の音が、いっせいに消えた。
ありえないような静寂が、あたりを支配した。
次の瞬間、
轟と地鳴りが押し寄せた。
ずうーん。地の底から響く揺らぎに乗って、香美位山が揺れた。
北面の山肌が、次々と音をなしてして崩れ、やがて、えぐり取られた山肌から、隠れていた洞穴が、ぽっかりと口を開いた。
そこに現れたのは、世にも美しい若者の姿を得た闇だったもの。
彼は 知っていた。
振り向いても、祈姫がもうそこには居ない事を。
瓦礫から覗いた薄衣を引っ張り出せば、姫が被っていた被衣である。
美しい若者に姿を変えた灯想華は、被衣をつかんだ両手を、頭上に高くかざした。
折り良く吹いてきた風に乗り、空に舞い上がる。
帯には、三本の竹筒が下がり、風が向きを変える度ごとに、カラン カラン と寂しげな音を立てた。
竜牙山地に囲まれた香美位山の麓にたたずむ小さな郷では、いつの頃からか言い伝えられてきたまじないがある。
軒先に三本の竹筒を下げるだけだが、
風が変わるとき、竹筒が音を鳴らせば、悪気が去るという。
——— 了 ———




