参
「…………さあ……な、……………………わ、…… わす……れ……た」
それなりの沈黙の後、とぎれとぎれの頼りない音が答えた。
「名は」
「…………」
「ないのか」
「………………あーるー」
それきり、どちらも声を出さなくなった。
身動きする気配すら、途絶えた。
いくばくかの時が過ぎ、祈りを唱えようと思い立った姫が両手を合わせると、再び喉の渇きを思い出した。
しかし、あるかなきかの心細い光さえもが、 何処にも残っていない真の闇ばかりだった。
祈姫は、わずかばかりの記憶と手探りだけを頼りに、三宝を捜した。
闇の中での記憶は当てにならないものだと実感しながら、一口、水を含んだ。
生温い水が末期の水になるのか。
ゆっくりと喉に落とし込めば、いつの間にやら、手から竹筒が奪い去られていた。
水をすする音。
竹筒が転がる音。
「話を聞いてやろう。ククク、こんな目に会っているのだ。恨みつらみが山ほどあるだろ? 気の済むまで言えばいい。水の礼に聞いてやる」
気配も、声も、いくらかはっきりしてきたものが、嘲笑った。
「そなたの名は?」
平静な答えに、不機嫌そうな声が応じた。
「……オレの名を聞いて どうする」
「名も知らぬ相手に、まともな話は出来ぬ」
余人は知らず、たとえ小なりといえども一国の姫君として生まれ育てられた乙女が、どんなにおしとやかで優しげに見えようとも、小心でいられるわけがない。
有無を言わせぬ響きがあった。
不自然な沈黙の後、闇の塊が折れた。
「問われたのは……初めてかもしれない。ウクククク……」
泣いているのか、笑っているのか、判別できない声が洞穴に漂った。
「闇と書いて ヒソカ。漆黒の闇から生まれ、果てしない闇の世界でうごめく邪悪なるもの。それが、オレの名だ」
「ずっとここに住み着いているのか」
祈姫の問は、闇を更に不機嫌にさせた。
「世界が混沌に包まれる時、全てがオレの住処になる」
闇は、少しばかり見栄を張った。
世界を混乱に陥れる邪悪なる物の、ほんのひとかけらに過ぎなかった。
「あの糞忌々しい旅の行者がしゃしゃり出ていなければ、こんな所に居るものか」
案外素直に、悔しさを転がり落とす。
要は、封じられたということだ。
古の封印がようやく弛みかけていたというのに、新たな贄のせいで結界が張り直された。
良くなるどころか悪くなっているといえる状況が、闇をますます不機嫌にしていた。
「さあ、おまえの番だ」
同じようにして閉じ込められた人間がいる事に思い至ったのか、闇が、余裕を取り戻して再び問いかけた。
より惨めであれば、いくらかの慰めになる。
「特にない」
そっけなく返した祈姫を、しかし、闇はせせら笑った。
「何もかも諦めたか。愚痴を残す気力も果てたか」
「考えている。私に何ができるのか」
力ない返事に、闇は調子づいた。
「教えてやろう。何もできない」