壱
それには名前があった。
いつからなのかは分からない。
誰が名づけたのかも分からない。
それを生み出したものが名付けたのか、
それを恐れたものたちか呼んだのか、
あるいは、それ自身が名乗ったのか。
闇と書いてヒソカ。それが奴の名前だった。
いづれにしても、祝福された名前ではないことは、容易に推察できる。
問われて名乗る機会がなかったとしても、それが奴の名前だった。
* * *
山里の小さな領地は、竜牙山地に囲まれてあった。
領主には、聡明な若君と美しい姫君が一人ずつ。
竜の牙に似た険しい山々に囲まれて、狭い領地に、穏やかな数少ない人々が平和に日々を営んでいた。
領主の奥方が亡くなられて 五年。
他国の姫が後添えに嫁いでくるまでは。
翌年、突然に若君が身罷られた。
原因は不明である。
領民の悲しみが癒える間も無く、珍しく日照が続き、ただでさえ少ない作物の実りが危機に瀕した。
必死に飢えをしのごうとした人々に、今度は疫病が襲い掛かった。
領主はあらゆる手を尽くそうと奔走したが、山深い小さな山里に、なかなか有効な助けは来なかった。
そんな折、奥方が実家の伝で呼び寄せた修験者が、薬を携えてやってきた。
病は少しずつ終息していったが、修験者の愁眉は開かない。
この地は、これからも災厄に見舞われるだろうと恐ろしい予言をした。
詳しく問う人々に、修験者は言う。
土地神様がお怒りになっている。
怒りを静めない限り、次々とこの地に災厄が襲い、全ての領民が死に絶えるだろうと。
一息つく間もなく、不安になった領民たちは、土地神様の怒りを鎮めて欲しい、とその修験者にすがった。
もっともな経緯である。
しかし、修験者は口を濁した。
追いすがる領民たちを前に、苦しい顔で黙り込んだ。
領民は、修験者に災厄を取り除く術を施してもらって欲しい、と領主に訴えた。
無論、領主に異存はない。
かの修験者は、疫病を食い止めてくれた功績がある。
民の不安を取り除くのは、領主の務めだ。
城に呼び寄せた。
そして修験者の曰く、土地神は捧げものを望んでいると。
清らかで美しく、気高い乙女を望んでいると。
条件に当てはまるのは、ただ一人の姫君。
祈姫のみ。
困惑しない者はいなかった。
領主にとってはもちろん、目の中に入れても痛くないほど愛しみ育てた我が娘であるが、領民たちにとっても、宝物のような存在だった。
祈姫を失うことは、光を失うことのように思われた。
その上、領主の血を受け継ぐ人間が居なくなる。
後継ぎには養子を迎えるにしても、領民たちにとって、寂しい事に違いなかった。
苦悩するうちに幾月かが過ぎ、奥方の腹に子が宿った。
「この子を、姉として可愛がってやってくださいね」
奥方は、祈姫に優しく微笑んで、うれしそうに腹を撫でた。
生贄の話は立ち消えになったまま、腹の子が育っていったが、ある頃を境にむし返されることになった。
獣が暴れて田畑を荒らしたり、火の気の無いところから火事が起こったり、入り合い地の木が次々と枯れたり、果ては妖怪変化の噂までが頻発するようになって、人の心に恐れが生まれたのだった。
恐怖はまたたく間に伝染していき、領民たちは怯えて暮らすようになった。
何処からともなく、土地神様の祟りが囁かれるようになっていった。
人の口に戸は立てられない。
領民の中に、祟りを口にせぬ者はいないまでになるのに、時はいくらもかからなかった。
土地神を鎮めぬ限り、災いは増えるだろうと修験者は断言した。
民の声と修験者の予言に、領主はついに折れるしかなかった。
祈姫は、父を励ますように笑いかけた。
「お鎮まりくださるよう、私が、きっと土地神様にお願いしましょう」