魔物との邂逅
――ピギィィイィィ!
アリシアの絶叫に興奮したのか、目の前の巨大な豚もその絶叫をかき消すほどの大きな鳴き声をあげた。巨大な豚が上げる鳴き声は、森の木々が傾きそうな程の風圧と振動を発して周囲に轟いた。
その雷鳴のような鳴き声に思わずアリシアが絶叫を引っ込めると、巨豚もまた鳴くのをやめてアリシアを見下ろす。
そしてその巨大な顔をアリシアへ向けて巡らせると、恐怖と驚きに固まったアリシアの体に触れた巨大な豚の鼻はスピスピとひくつく。
その生暖かい鼻息と思った以上に柔らかい鼻の感触に、ビクっと身を強張らせたアリシアの動きに反応したのか、彼女に触れた鼻を上に逸らした巨豚は、フゴッフゴッと鼻と喉を鳴らしながらブルリと巨体を揺らした。
「はははっ! そんなに怯えてくれるなってさ!」
焚火のすぐ傍に居たキーチが笑いながらアリシアに声を掛けた。
その声に正気に戻ったのか、アリシアは脇に立て掛けてあった細剣を手に取り、躊躇いなく抜き放った。
光源が焚火しかなかった夜の闇に、細剣にかけられた術式が燐光を零しながら輝く。
「――魔物めっ!」
そのまま憎たらしい豚鼻へ細剣を突き立てようとしたアリシアを、キーチは慌てて羽交い絞めにした。
「うおお待て待て待て待てっ!! 落ち着け! こいつは危なくないからっ!!」
「だって! こいつは魔物よ!? わたしを食おうとしたのよっ!?」
アリシアの行動に怯えたのか、巨大な豚はピギャッ! とひと鳴きして後ずさり地に伏せる。
「落ち着けって! 見ろよ! これがお前を食おうとしてる様に見えんのか!?」
目の前の巨大な豚は、鼻面から顎、腹までぴったりと地面に着けて伏せている。
怯えた目でピィピィと細く高い鼻息を立てるその姿を見たアリシアは少し落ち着きを取り戻すと、納得の行かない顔ながらも、その手に握る細剣を鞘に納めた。
キーチはアリシアを開放すると、大きく息を吐いて汗を拭った。
「ったく。なんて気の短いお嬢さんだ。俺の友達の鼻の穴が3つになるとこだ」
「友達ですって? これは魔物でしょう!?」
アリシアの再三の問いに、キーチはやれやれと首を振りながら非難めいた目でアリシアを見て、地面に伏せた巨豚の鼻を撫でる。
「魔物だからって何でも殺せば良いってもんじゃないんだよ。こいつは俺らをエイス山の麓まで乗せていってくれる友達だ」
「そんな! 魔物はわたしたちを襲う、危険で恐ろしいものだって……」
なおも納得がいかない様子のアリシアを、キーチは静かに諭した。
「いいかいアリシア、辺境にいる大きな動物はみな魔物と呼ばれる。でもそれは人間に害を為す……魔なる物だからじゃない。辺境に溢れる魔力を身の内に蓄えて、強大化した動物だからなんだ。大きければ大きいほど、その魔物は賢く強くなる。油断はしちゃいけないけど、友好的な魔物も存在するって事を覚えておくんだ」
こいつみたいにね、と小山の様に巨大な豚の鼻面をワシワシと撫でまわすキーチに、巨豚は嬉しそうに鼻をひくつかせている。
その様子にやっと警戒心を解いたアリシアは、キーチの元へ近づくと巨豚を見上げた。
「それにしたって、これに……乗、るん、ですか」
多少の嫌悪感をあらわにしながらアリシアは呟いた。身体全体にびっしりと地衣類を纏わりつかせた巨豚の姿は、森の地面がそのまま身体になったかのようで、苔むしたその背中は乗り心地が良いとはとても思えない。
「そうそう。こいつに乗れば体力を温存したままエイス山まで行けるし、素人の君が歩いて行くよりもずっと速い。でも、タダってわけじゃあない。やることがある!」
ペシリと鼻を叩いてキーチが言うと、それに応じるように巨豚もフゴッと鼻を鳴らす。
「タダじゃないって、お金が要るわけないですよね。ご飯でもあげるんですか?」
「いいや。こいつは誇り高いから、自分で採った餌しか食わん」
巨豚は再びフゴっと自慢気に鼻を鳴らした。
「じゃあ、一体何を?」
疑問顔のアリシアをなぜか得意そうに見て、キーチは答えを口にする。
「そりゃ決まってる。大掃除さ!」
キーチの言葉に巨豚は嬉しそうに巨体を大きく震わせると、背中にびっしりと生い茂る菌からモワッと胞子が煙のように周囲を舞った。
キーチとアリシアは堪らず咳込み、視界が霞がかる程にもうもうとした胞子を両手で追い散らした。
「うえっぷ! おい勘弁してくれよ! 頼むから大人しく伏せてろ!」
キーチがそう怒鳴って鼻を蹴飛ばすと、ピィと申し訳なさそうに鼻をひくつかせて、巨豚は大人しく身動ぎを止めた。
アリシアはくすりと笑って、巨豚の鼻を優しく撫でてやる。
「ふふっ蹴ったりしたら可哀想です。こうして見ると可愛らしい感じもしますね……大掃除って、この身体中に生えた苔みたいのを全部洗い落してあげるんですか?」
「いいや、ほとんどはこいつと共生してるんだ。ただこれ……この茶色い木みたいなやつ。これは育ちすぎると宿主まで殺しちまう。こいつも普段は地面や木、岩なんかに擦り付けて落としてるんだけど、それじゃ全部は剥がせないから、たまに俺が掃除してやってるのさ。こいつはそのお礼に、背中に乗せてくれてるってわけ」
そう言ってキーチが指し示した先には、茶色い木の板で出来た棚のような物が、巨豚の脇腹あたりから背中にかけて階段のようにびっしりと張り付いていた。
アリシアはそれを見て、階段みたいに足の踏み場にしたり腰掛けたり出来そうだな、などと思いながら手の甲でコンコンと叩いてみる。少し強めに叩いてもびくともしないその木の板のような物体は、思いのほかしっかりと身体に張り付いているようだった。
「ミタマスイレイタケって茸の仲間さ。普通は大地の魔素を吸い上げる巨木に寄生するだけで、毒もないし動物には害のない茸なんだけどね。魔物に寄生すると殺すまでやっちゃうんだ。だからこうやって……短剣とかで根元から削ぎ落してやるんだ」
キーチは短剣を取り出すと、アリシアに見えるようにゆっくりとその茸を根元から削ぎ落す。巨豚に強く張り付いていた茸は、根元から毛を剃るように短剣を滑らせると、然程の抵抗もなくあっさりと刃が通るようだった。
「こう、ですか?」
アリシアは自らも短剣を引き抜くと、見様見真似で巨豚の身体に張り付いた茸を削ぎ落そうとするが、思ったよりも固いその表面には全く刃が通らない。
茸の表面で短剣が横滑りしてしまい、困っているアリシアの様子を見たキーチは笑顔で言う。
「こいつの皮は物凄い分厚いから、思い切って皮の表面を切りつける勢いでやるといい」
キーチの言葉に巨豚は怯えた声でひと鳴きするが、そんな様子にもアリシアは構わず、思い切って短剣を皮に斜めに立てるように滑らせると、面白いように刃は進み、簡単に茸が剥がれ落ちた。少し楽しい気持ちになる。
巨豚は身体に張り付いた茸が剥がれ落ちる感触に安心したのか、すこし強張っていた巨体から力を完全に抜くと、気持ちよさそうに目を閉じた。
程なくしてフゴーフゴーと寝息を立て始めた巨豚を、二人は優しそうに見ると作業に取り掛かった。
夜半に突如始まった大掃除は、空が白み始めるまで続いた。
キーチとアリシアがようやく全ての茸を削ぎ落とすと、それが分かるのか巨豚は目を覚まし、気持ちよさそうに欠伸をした。
キーチは満足気に凝った肩を回してほぐし、巨豚の鼻を撫でる。
「よっし、綺麗になった! それじゃ朝飯食ったら出よう。お前も飯食って来いよ」
キーチの言葉に巨豚はひと鳴きすると立ち上がり、軽快な動きで森の奥へと姿を消す。
その場に残された二人は、焚火を囲んで食事の済ませることにした。そして出発の準備が終わる頃に、木々を揺らしてそこはかとなく満足そうな様子で巨豚も戻って来たのだった。
支度を済ませたキーチは巨豚の口元に生える牙に足をかけ、その背中へと飛び移ると下に居るアリシアへロープを投げ渡した。
アリシアはそのロープを頼りに、自らも立派な牙に足をかけ背中へと引っ張りあげて貰う。
巨豚の背中は思った以上に広く平らで、菌糸によって張り付いたのか、腰掛けるのに丁度いい岩を見つけると、アリシアはそこに腰を下ろした。
高い位置に来たことで視野が広がると初めて、アリシアは自分たちが居た広場が長い獣道だったことに気が付き、わぁっと感嘆の声を上げる。
巨豚は背中から上がった歓声に呼応するように一声鳴くと、自らが長い時間を掛けて作り出したその獣道をゆっくりと歩きだした。巨豚にとってはゆっくりとした歩みだが、その巨体が生み出す速度はかなりのもので、思った以上に早く流れる景色にアリシアは目を奪われた。
「――すごい! キーチさん! この子本当に凄いですね!」
「ふっふっふ、俺の自慢の友達だからね。こいつの足なら順調にいけば2日もあればエイス山の麓まで行けるよ。馬上ならぬ、豚上の旅をお楽しみ下さいな」
悪戯っぽい笑みで軽口を叩くキーチに、アリシアは楽しそうに笑顔を返す。その笑顔は木漏れ日に輝いて、とても美しい輝きを放っていた。
こうして二人を背中に乗せた巨豚は深い森の中、地響きを立てながら木々を揺らしつつ軽快な足取りで、森を切り裂くように延びる獣道を進んでいくのであった。