辺境へ――開拓者ギルドと境界門
翌日の早朝『錆びた短剣亭』を出たキーチとアリシアは、辺境へ出る手続きの為、開拓者ギルドへと足を運んでいた。
二つの太陽のうち、まだ兄星と呼ばれる一つ目の太陽の頭がかすかに伺えるほどの早朝にも関わらず、開拓者ギルドの大門から伺えるロビーには既にかなりの人の姿が見えた。
キーチはざわめく人の合間を縫って軽やかな足取りで、開拓者ギルドの門から中へと足を踏み入れる。
そのすぐ後ろでは呆気に取られた顔のアリシアが、開いた口を閉じるのも忘れてギルドの巨大な門を見上げて立ち尽くしていた。彼女は驚愕の心持ちで大門の周辺へ目を泳がせると、既に大門からロビーへと姿を消しつつあったキーチの背中に気が付き、慌てて追いかけて行く。
サイリンガの開拓者ギルドは、3つの辺境への出入りを管理するだけあって聖王国の中で最も大きく、出入国のロビーは少し油断するとはぐれそうなくらい広い。
そんな広いロビーの入口で立ち止まったキーチは、何かを探してキョロキョロと首を巡らせていたが、目的を見つけたのか、慌てて追い付いてきたアリシアの手を取って早足で人混みを掻き分けた。
「ちょっ……ちょっと! 一人で歩けますから、引っ張らないで!」
「いいからいいから! はぐれたら面倒だし、すぐ後ろを付いて来て」
思ったよりも力強く頼り甲斐のある手の感触に、少し顔を赤くしてアリシアは抗議の声をあげる。
しかしキーチは彼女の声に振り返りもせずどんどん歩いていくと、数ある受付の中の一つへ辿り着き、そこに座るギルド職員の女性に声を掛けた。
「や、ローナ。久しぶり! 第8辺境へ出たいんだけど、境界門の通行手続きを頼むよ」
気安げな挨拶にローナと呼ばれた職員は顔を上げると、キーチを見て破顔する。薄緑色の長い髪を赤い紐で一つに結んだ、快活そうな雰囲気の若い女性だ。
「あ、キーチさん! お久しぶりです! また面倒だからって手続き無視してこっちに来たんですか?」
浮かべた笑顔を少し不満げなものに変えたローナの言葉に、キーチは笑顔のまま肩を竦めると後ろに居るアリシアを横まで引っ張り出した。
「いやー、ちょっと急ぎなもんでね。こちらのお嬢さんも一緒によろしく! ――ほら、アリシアもよろしくお願いして!」
「あっ! だから引っ張らないでって……すみません。よろしくお願いします」
二人のやり取りを半眼で見たローナは、諦めたように目を瞑って息を吐くと、少しだけ苦いものが混じった笑顔で首を振った。
「いつもの事ながら、自由な人ですねぇ。ギルドマスターからキーチさんについてはある程度の便宜を図って良いと言われてますからいいんですけど……さすがにそちらの方は正規の手続き無しで通行を許可するのは難しいですよ。貴族ですよね、貴女。それも王都の割と良い身分と見受けられます」
アリシアは少しだけ息を飲むと、それを誤魔化すように頭を軽く下げる。
「わたしはアリシア・レイノルドと申します。お言葉の通り、わたしは聖王都の生まれですが、両親ともにいたって普通の……そう、少し大きめの商いをしている家の娘です。貴族だなんて恐れ多いです」
「これはご丁寧に。私はローナって言います。ご両親は王都で商いをされてると。とてもそうは思えない気品ですね」
アリシアは一目で自分について断言するローナの観察眼に内心驚きつつ、冷静を装った笑顔で白を切った。
見つめ合う女性二人の間に少し尖った空気が流れた。二人とも人目を惹く美人なためか、周囲の温度まで下がっていくように感じられる。
「あー、面倒な話はいいからさ。手続きしてくれないなら前みたいに勝手に出ていくだけだよー。あの時そっちが泣きついてきたんだぜー。次からは門を通れってー」
剣呑になりそうな空気を破って、キーチは軽い冗談を口にするように笑った。その言葉はアリシアには意味が分からず小首を傾げたが、ローナは慌てて腰を浮かした。
「あああ! 前みたいな無茶はやめて下さい!! わかりました、わかりましたから! もうあんな面倒事はコリゴリなんですっこのまま出てって下さい!」
ローナの態度に満足したのか、キーチはありがと、と口の動きだけで言う。
そしてアリシアを伴って、受付のすぐ右手に併設された境界門に続く通路へ向かうと、その入口を塞ぐ腰の高さのスイングドアに手をかけた。
キーチがドアに手をかけたのを見たローナは、さらに慌てて声を荒げる。
「ちょ、ちょっと! 鍵かかってるのに無理やり開けようとしないで!? 掌紋記録で開くんだから、そのくらいはちゃんとお願いしますっ!」
ローナはそう叫んで呼び止めると、受付の上に金属の枠組みでしっかりと嵌め込まれた、艶やかな輝きを放つ黒い板を指さした。
「ははっ冗談冗談、そのくらいはしないと俺も後で煩いのに怒られるしね」
キーチは慣れた様子でローナが指さした黒い板に右手の掌を押し当てると、黒い板の色が一瞬光り輝き、鍵が掛かってると言われたスイングドアがひとりでに開いた。
そしてキーチが通り過ぎると、そのドアはまたひとりでに閉まる。その様子を不思議そうな顔で見るアリシアをキーチは楽しそうに見やった。
「アリシア、俺がやったみたいに黒い板に掌を押し当てるんだ。そんな怖がらなくっても、熱かったり痛かったりしないから安心して」
「別に怖がってなんていません! ちょっと興味深かっただけです」
からかい口調のキーチにアリシアは言い返すと、先ほどのキーチと同じように黒い板に自分の右手を恐る恐る押し当てた。アリシアの掌が触れると、黒い板はやはり一瞬発光し、少し遅れて目の前のスイングドアが開いた。
「もー、次からは私が居ない時に通って下さいね。いってらっしゃい!」
ちょっと困った笑顔で見送るローナにキーチは振り返らず、軽く手を振りながら歩いていく。その後ろでアリシアはローナに丁寧に頭を下げると、すでにかなり先を行くキーチを小走りに追いかけた。
「いいんですか? 彼女、ものすごく困ってたように見えたんですけど……」
アリシアはキーチと肩を並べると、罪悪感から横目で少しだけ抗議する。彼女自身、面倒な手続きを省けたのはありがたかった為か、その声に力はない。
「いいのいいの、帰ったら俺がちゃんと怒られてくるさ。前にも似たような事してるから、俺の名前出せばローナはそんなに怒られないはずだよ」
「はあ、少しだけ気が軽くなるし、誤魔化されることにします。いまは辺境で目的を果たすことだけ考えなければですから」
「その意気その意気。大体、開拓者ギルドに払う義理なんて俺にはないんだけどね」
「そんなこと言って、あんまり酷いとギルドから除名されちゃいますよ? いくら名だたる辺境渡りとは言え、開拓者廃業なんてことになったら困るんじゃないんですか?」
全く悪びれないキーチの言葉に、アリシアは意地悪そうな口調で睨み付けた。
「開拓者廃業って、俺べつに開拓者じゃないし、除名もクソもないさ」
あはは、と笑うキーチの言葉にアリシアは驚き、思わずキーチの腕を掴むと声を荒げる。
「えっ!? キーチさんが辺境渡りなんですよね!? 凄腕中の凄腕って噂の開拓者の!」
そんなアリシアの戸惑いを含んだ声にも、キーチはやはりどこ吹く風と言った雰囲気のまま答えた。
「ん? ――ああ、確かに俺はその噂の辺境渡りだよ。ただし開拓者じゃない」
「開拓者じゃないって、辺境を行くのはみな開拓者でしょう。からかってるつもり!?」
判然としないキーチの言葉に苛立ちを募らせたアリシアを、キーチは得意げに見るとニヤリと笑った。それは普段の軽薄な顔とは違い、得体の知れない凄みを感じさせる笑顔だった。
「いいや、俺は開拓者じゃない……案内屋さ」
「案内屋って、いったいなんの――!」
さらに問い詰めようとするアリシアの言葉を、キーチは片手を上げて制するとその手で前を見るように促した。アリシアはその手の動きを追いかけるように顔と視線を動かすと、その先にある物を見て息を飲んだ。
石畳の通路が途切れた先、開けた場所に境界面から流れ出す濃霧が溜まっている。
深い霧の為に全体が判然としない広場の中、苔むした岩を複雑に組み合わせた土台の上に、門は立っていた。一辺の長さが3メートル程で出来た真四角の枠組みは、アリシアの目には素材が全く分からない艶やかな黒色の何かで出来ており、継ぎ目は一切見られない。
「――これが、境界門……!!」
濃い霧を真っ黒に切り取ったかのようなその門の先は何も見通せず、深い暗闇にアリシアは本能的な恐怖を覚えて立ち竦むと、自分の体を抱き絞めるように手を組んだ。
キーチはそんな根源的恐怖を掻き立てる闇に足をかけ、上半身を捻って後ろを振り返ると、アリシアへ誘うように手を伸ばした。深い霧に煙っても、その強い眼差しはアリシアを勇気づけるかのように輝いて見えた。
「さ、笑っていこうぜアリシア。この闇の先には果てしない辺境が、心躍る未知と冒険が待ってる」
キーチのその目の輝きと言葉に、アリシアも勇気を振り絞って笑顔を浮かべると手を伸ばした。
「未知や冒険も楽しそうだけど、わたしの目的は黄金の平原です。絶対に連れていって!」
キーチとアリシアは深い霧のなか手を取り合うと、しっかりとした足取りで境界門の先へ進む。
二人をその身に飲み込んだ後も、昏い闇を内側に孕んだその門は、ぽっかりと四角い口を開いたまま、深い霧の中にひっそりと佇んでいた。