エピローグ
私が倒れたのは極度の精神的な疲労によるものだったらしい。確かにあの本の中では色々といっぱいいっぱいだったので納得できるが、更に悪いことにそのまま酷い風邪を引き、一週間程ベッドに縛られる生活を余儀なくされてしまった。
あれからアリスがどうなったかというと、事態を知った長老に更にこっ酷く叱られ妖精の国へ強制送還されたそうだ。今は長老直々に一から魔法の特訓をされられたり大量の反省文を書かされたりと色々やっているらしい。……しかもその反省場所はアリスの反省度合に合わせて流れる時間を調整しているというから長老の本気度が恐ろしい。
冬樹君にはあの出来事から一度も会っていない。私はつい先日まで寝込んでいたし、それに学校も冬休みに突入しているので顔を合わせないのだ。私と同じように体調を崩していなければいいのだが。
「それで、あんたはもういいのか」
「うん。元気になったからアリスに大丈夫だって伝えてね」
完全に体調が戻った大晦日の日、私は近所のケーキ屋のイートインスペースでケーキを口にしながらそんな話をしていた。相対する人物は美味しそうにモンブランを口に入れながら片手間に私と話している男、レオだった。
私が知っているアリスの状況は全てレオから聞いたものだ。今は人間の姿に変身しており、周りの人達も彼を認識することが出来るので少々周囲が騒がしい。美形の外国人と一緒にお茶をするのは私にとってちょっと肩身が狭かったりする。
何故レオがこちらの世界に来ているのかというとやはりというべきかアリスに頼まれたのだそうだ。アリスを最後に見た時私は気絶してしまったし、ちゃんと生きているのか不安になった彼女に代わって私の様子を見に来たのだ。
「レオ、アリスのこと教えてくれてありがとね」
「別に、アリスの頼みのついでだからな。まあそんなに感謝してるならケーキをもうひとつ貰ってやってもいいんだぞ?」
「……しょうがないなあ」
ちょっとは大人になったな、と思っていたのにこういう所は相変わらずだ。妖精のレオがこの世界のお金を持っている訳もないので、今彼が食べているケーキは私が奢ったものなのだが……せっかくアリスのお使いで来てくれたのだし、何より小学一年生がケーキをおねだりしていると思うとまあいいか、と許してしまった。
苺入ったミルクレープを選んだレオは、しかしそれをここで食べるつもりはないらしく持ち帰り用の箱に入れてもらっていた。
「あれ、食べないの?」
「俺のじゃない。これはアリスのだ」
「……レオ、やっぱりちょっと大人になったね」
アリスへのお土産を慎重に受け取った彼を見て思わずしみじみと感慨に耽ってしまった。アリスとの約束があるからだと思うが、それでも以前の癇癪を起していた頃を思うと本当に変わったなあ、とまるで弟を見ているような気分になる。
私の言葉に彼は「当たり前だろ?」と自信満々に口の端を釣り上げた。
「俺はアリスの婚約者だからな、オトナの余裕ってやつがあるのさ。お前こそ俺を見習って精々あいつを惚れさせる為に頑張るんだな!」
「……大きなお世話」
どうして私が冬樹君のこと好きなの知っているんだろう、とも思ったが、よくよく思い出してみればアリスが妖精の皆に吹聴してたんだと記憶が蘇ってきた。
……別に冬休みだからと言っても彼の家は知っているし会おうと思えば簡単に会うことが出来る。だけど私は一応彼に告白した身であり、更に言ってしまえば本の世界から抜け出す為に言われた言葉を思い出してしまって余計に合わせる顔がなかった。
同じクラスだ、冬休みが終わればどうあっても会うことになる。だからこそせめて少しだけでも時間を引き延ばして心の準備をしておきたかった。彼の性格上、どちらにしてもうやむやのまま終わらせることはないだろうから。
「ホタル!」
「わあっ!」
そして迎えた冬休み明け。始業式も終えたその日の放課後、私は静かな教室で一人席に着いている。……いや、たった今静かだった教室は騒がしくなって一人から二人になったが。
「アリス!?」
「ホタル生きてる!? どこも悪くない!?」
「……健康体だよ」
突然現れたアリスは大騒ぎしながら私の周りをぐるぐると飛び回り心配そうに声を掛けて来た。彼女の姿を見るのは久しぶりだが、なんだか少し疲れているように見える。
「アリスこそ大丈夫?」
「何とかこっちに来る許可が下りたのから無断じゃないわ!」
「いやそうじゃなくて……ちょっと疲れてる?」
「……まあちょっと」
私の所為なんだけど、ちょっと長老にしっかり絞られたから……と少し遠い目をする。アリスからすれば私よりもずっと体感的に長い時間を過ごしていただろうから余計に大変な思いをしていたんだと思う。
「ホタル」
「何?」
「改めて、本当にごめんなさい」
彼女は急に飛び回るのを止めたかと思うと真面目な表情で頭を下げた。
「もういいってば。アリスは私が喜ぶと思ったからやったんでしょ?」
「でも酷い間違いをして」
「わざとじゃないし、無事だったんだから。アリスがいつもたくさん私の為に行動してくれてるのは分かってるから、一度の失敗くらいいいよ」
いつもありがとねと彼女の小さな頭を撫でる。
アリスは無言で大人しく頭を撫で続けられていたが、不意に思い出したかのように「そういえば」と顔を上げた。
「ホタルはここで何をしているの? もう皆いないけど……」
「……冬樹君を待ってるんだよ」
私が放課後になっても家に帰らず人気のない教室に居続ける理由。それは冬樹君に話があると伝えられた所為だ。
どんな風に彼と話せばいいのか。そう緊張しながら登校したのだが、朝教室に着くとすぐさま先に来ていた冬樹君が「放課後、悪いが時間が欲しい」と告げて来た。あまりに不意打ちで話し掛けられた為首を上下に振ることしか出来なかったのだが、彼は納得したようにさっさと席に戻ってしまった。
そして例によって、というやつだが現在冬樹君はここに居ない。式の後に先生に頼みこまれるように引き摺られていった、と栗原君が言っていたのだが……本当に先生いい加減にしてほしい。誰かあの先生の弱点を知っている人はいないのだろうか。
「フユキを……そっか」
アリスは少し嬉しそうな顔をして私の机に座り込む。私の顔を見上げながら何かを言いたそうに口をむずむずさせ、十秒ほど時間を空けてようやく口を開いた。
「ねえホタル……思い出したくないかもしれないけど、あの本からどうやって戻って来れたの?」
「え?」
「移転魔法じゃないわよね、フユキが魔法でどうにかしたの? でもあの魔法を破るなんて……そもそもあの空間で魔法は――」
アリスは質問しながらも自ら考え込むように黙り込んだ。別にあの時のことを思い出すのが苦痛な訳ではないのだが、しかし内容が内容なので言うのを少々躊躇ってしまう。
私は落ち着く為に一度深呼吸してから本の中の記憶を頭に蘇らせ、そして一つ一つ順を追って話し始めた。
「……それで、その、結婚しようって言われて」
「成程ね」
にやにや、と徐々に笑みを浮かべるようになったアリスを見てちょっとは以前のように戻ったな、ととりあえず喜んでおく。彼女は思考を巡らせるように宙を眺めてぶつぶつと何かを呟いたかと思うと、「それは多分、ちょっと違うわね」とはっきりと口にした。
「違う?」
「フユキの仮説は間違っていないけど完璧じゃないわ。人魚姫と王子が結婚する、確かに実際そうなったら魔法も壊れたかもしれないけど、一度口約束で言ったくらいじゃどうにかなるものじゃない」
「そういえば……」
あの世界は酷く強引だった。私と冬樹君以外の人達は皆物語を正しく進めようと一致団結していたし、確かに人魚姫と結婚すると冬樹君が言った所でそれは却下されてしまうだろう。
「だからこそあの魔法を壊すには完全に物語が破綻するような、どうあっても修復不可能な状況を作り出さなきゃいけない」
「じゃあどうして戻って来られたの?」
「……さあね」
アリスは肩を竦めると羽を羽ばたかせてふわりと浮かび、そしてとてもとても楽しそうに笑った。
「私が単純に魔法を掛け間違えたのか。
……それとも、物語の方が絶対に人魚姫を泡に出来ないと諦めてしまうほどに――王子が人魚姫を心から愛していたか」
「え」
「ねえ、王子様?」
アリスがそう言いながら体をくるりと反転させたのとまったく同じタイミングで、ばさっと何かが落ちる音が聞こえた。その音の発信源、そしてアリスの視線の先を追うとそこには沢山のプリントを盛大に床に散らばらせて固まっている冬樹君の姿があった。
顔を赤くしてぴくりとも動かない彼を見て、私もどうしていいのか分からずに動けなかった。
「あ、アリスお前――」
「邪魔者は退散するので後はごゆっくり」
「え、ちょっとアリスっ!?」
私が彼女を止めるよりもアリスがステッキを振る方が早かった。目の間で彼女の姿が掻き消えてしまうと、教室内には私と冬樹君、そしてなんとも言えない空気だけが取り残される。
「砂原……」
暫し沈黙が続いた後先に動き出したのは冬樹君の方だった。彼は落ち着かない様子で視線をあちこちに飛ばしながらこちらに来ようと歩き出し……そして、床に落ちていたプリントに滑って思い切り転んでしまった。
「ふ、冬樹君!?」
慌てて席から立ち彼の元へと向かう。背中を打ち付けたのか痛そうに顔を歪めた彼は「……かっこ悪い」とぽつりと呟き自嘲気味に少し笑う。そんな冬樹君を起こそうと彼に伸ばした手は、逆に強く引かれて今度は私がバランスを崩すことになった。
倒れ込んだ先にいるのは、勿論冬樹君だ。
「わっ」
「猛のようにはいかないな」
強く抱きとめられ……抱きしめられ、私はパニックになったまま顔を上げようとした。けれどその前に後頭部を押さえられて視界が真っ黒に塗りつぶされる。
「砂原」
「は、はい……」
「その、だな」
ばくばくばく、と恐ろしい勢いで心臓が暴れている。押し付けられた胸からも、同じように壊れてしまわないか不安になるほどに早い鼓動の音が聞こえて来た。
無意識に彼の背中に手を回すと、背中に込められる力が強くなった気がした。
「――好き、だ」
――泡になんて、させないくらいに。
ここまでお読み下さってありがとうございました。
最後におまけとして冬樹視点を一話書きましたので、よろしければご覧下さい。




