第32話 人魚姫と王子様の結末
さて、船に乗った私達が隣国に着いてから何日もの日が過ぎた。まるでカレンダーをぱらぱらと無造作に捲るようにあっという間に時間は過ぎ、刻一刻と私の寿命を縮めようとしてくる。
しかし冬樹君とはこの国に到着して以来顔を合わせていない。王女様と会っていて忙しいのかもしれないが、それでもここまですれ違うというのは何らかの妨害に遭っているような気さえしてくる。物語の邪魔はさせない、というような圧力を。
その間に私もどうにかこの世界から脱出する方法を考えた。例えば最初に冬樹君と妖精の国行った時に掛かった罠のように、正しい道を選べば脱出できる抜け道があるかもしれないとか、あくまでここは限定された本の世界なのだから何処かの方向に真っ直ぐ進んでいけばそのうちページから零れ落ちるのではないか、とか。
魔法については私は全く分からないのでまるで見当違いなことを考えているかもしれないが、それだって冬樹君と相談できなければ何も分からないままだ。
「ねえ聞いた? 王子とこちらの国の王女様、とうとう婚約したんだって!」
「おめでたいわね! 式はいつかしら」
「これでうちの国も安泰ね」
「……っ!」
今日こそ冬樹君に会えないだろうか、と痛む足を無理やり動かして部屋の外に出た時、廊下で使用人の女性達がそんな会話をしているのが耳に入っていた。
思わず動揺し必死に保っていたバランスが崩れてしまい、私は床に倒れ込んだ。その音で私の存在に気付いたらしい女性達は驚いてこちらへ駆け寄って手を貸してくれた。
「ホタル様、大丈夫ですか?」
「足が悪いのですから、あまり外へ出てはいけませんよ」
「さあ、部屋に戻りましょう」
一応王子自らが連れて来た娘ということで丁重に接してもらっているが、それでも足を理由にずっと部屋に閉じ込められていることが多い。なんとか部屋から出たというのに三人に体を支えられてあっという間に部屋に戻されてしまった。
「……お可哀想に」
使用人の一人が去り際に小さく呟いた言葉が随分と耳に残った。
またもや部屋で一人になった私はため息を吐いて、今度は窓の傍に寄る。窓枠に体を預けるように外を見ると、目の前には海が広がっており街の喧騒からは少し遠ざかった静けさがあった。
冬樹君が、王女様と婚約した。勿論これは物語の通りで彼の意志ではないはずなのだが、暫く会えていない所為で不安が頭を占領している。もしかして本当に彼はその王女を好きになってしまったのでないか、なんて嫌な想像ばかりが過ぎる。
「――ホタル!」
私の思考のようにどんどん沈みゆく夕日を見ていると、どこからか私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。微かに聞こえた声は何度も繰り返すように同じ名前を呼び続け、私はようやくその声の発信源を見つけることが出来た。
私を呼んでいた声は私がいる部屋から真下――海から聞こえていたのだ。
お姉さん達!
声にならない声を出して目を瞬かせていると、五人の人魚のお姉さん達は「ホタル大丈夫よ! あなたは助かるわ!」と叫ぶ。
「王子が他の娘と結婚すると聞いたわ。このままだとあなたが死ぬ。だから魔女に頼んだの!」
一人のお姉さんがそう言うのと同時にこちらに向かって何かを放り投げた。咄嗟に受け取ろうと手を伸ばしたものの、急に体勢を変えた所為で足の痛みに気を取られて私は尻餅を着いてしまう。受け止められなかったそれは、からん、と軽い音を立てて私の隣に転がり、そして私はまじまじとそれ――鞘に入ったナイフを見つめた。
「そのナイフで王子の心臓を刺して、その血を足に塗りなさい。そうすれば、あなたはまた人魚に戻ることが出来る」
「……」
転がるナイフをそっと手に取る。それだけで手はがたがたと震え、これが人を――冬樹君を殺してしまえるものなのだと恐ろしくなった。包丁だって碌に使えないのに傷付ける為の凶器なんてもっと怖いに決まっている。
「ホタル、躊躇っては駄目よ、そうじゃなきゃあなたが死んでしまうんだから!」
日が完全に落ちた暗闇の中でお姉さん達はそれだけ言い残すと人間に見つからないようにと海の中へ消えてしまった。
これまでずっと冬樹君に会えなかった。でも今夜だけは確実に会うことが出来るだろう。…ナイフを貰ったということは、今日が最後の夜なのだから。私が死ぬか、それともこの世界から逃げ出せるか、あと少しで全てが決まる。
……アリス、私にどうしろって言うの。何でこの世界に連れて来たの。疑問を答えてくれる妖精の彼女はここにいない。
私は寝静まる時間になってから立ち上がり、足を引き摺りながら目的の部屋を目指して歩き出した。
ナイフを受け取った人魚姫は王子の寝室を訪れ、眠っている彼にナイフを突き立てようとする。けれど彼女は愛する王子を殺せず、そしてナイフを捨てて海に身を投げる。
「……」
ここだ。足の痛みを必死に我慢しながら辿り着いた冬樹君が眠っているであろう部屋。私は一度呼吸を整えてから、ばくばくと煩い心音を耳に扉を開けた。
「……砂原」
部屋に入ってすぐ、久しぶりに彼の聞く声が心地よく耳に入って来た。何日も見ていなかった冬樹君はどこか疲れたような、苦しそうな表情を浮かべている。
彼の視線が私の手元に止まると、「何で」と更に眉間に深く皺が寄った。
「何で、ナイフを持って来なかった!」
「……」
冬樹君とは対極的に、私は空の手を握り締めながら少しだけ笑った。ナイフはここに来る前に海に投げ捨ててしまってある。どんな結末を迎えようと私には冬樹君を殺すことなんて出来る訳がないし、万が一何かしらアクシデントがあって冬樹君を傷つけてしまったら、と思うとここまで持ってくることすら恐ろしかった。
いや、冬樹君じゃなくても人を刺すような度胸なんてありはしない。泡になることとナイフで刺されること、リアルに痛みを想像できるのは断然後者なのだ。そんな怖いことなんて、私には無理だ。
「砂原」
はい。
心の中で返事をして冬樹君を見る。彼は立ち上がって私のすぐ目の前まで来ていた。
彼は私を見下ろしながら苦しそうな、何か言いたそうなとても複雑な表情を浮かべて沈黙している。
「……砂原」
心の中で返事を返す前に、死ぬのが怖くて強く握りしめていた手を冬樹君が両手で包み込んだ。
「好きだ」
は……い?
好き?
全く想像もしていなかった言葉に思考が停止して、一瞬異世界にいることも、もうすぐ死にそうになっていることさえ全て頭から吹っ飛んだ。
大口を開けたまま硬直した私を真面目な顔で見つめながら、彼は再度言葉を紡ぐ。
「好きだ。――結婚しよう」
……え、ええええっ!?
声が出せながらきっと冬樹君の鼓膜を破りかねないほどの音量だっただろう。いやいやちょっとそれは早いんじゃないかとか、妙に冷静に考えてしまったり、かと思えば「この冬樹君は偽物なんじゃないのか」とか疑惑すら浮かんでくる。
「砂原、返事は」
え。
「早く返事を!」
頭の中がお花畑になっている私とは裏腹に、冬樹君はずっと真剣だった。彼の眼光に気圧されて慌ててこくこくと何度も何度も大きく頷く。
勿論返事なんて決まっている。私はずっと、ずっと冬樹君のことが好きだったのだから。
心の中でそう強く思った瞬間、部屋のどこかで何かが軋む音がした。
気のせいかとも思ったが違う。なぜならその音はどんどん大きくなり、それがずっと鳴り響き……そして最後にパリン、と何かが割れるようなとても大きな音が響き渡った。
――え?
刹那、周囲が突然何もない真っ暗な闇と化す。寝室にあった調度品も、窓から覗いていた景色も何もかもばらばらになって壊れ、そして消えたのだ。
何もない空間に、私と冬樹君だけが残った。
「……何とか、なったな」
「え?」
「これで現実に戻れる」
酷く疲れた様子で安堵の息を吐いた彼は、気が抜けたのかふらりとよろめき倒れそうになる。私は慌てて冬樹を受け止め、ふらつきながらしっかりと足を踏みしめて支えた。
……あれ、そういえば足が痛くない。それに――
「声が」
「もう人魚姫の世界は壊れた。だから元に戻ったんだ」
「……冬樹君、どういうこと? どうやって脱出できたの?」
彼は全て理解しているようだが、私には全然分からない。
体勢を戻して私から離れた彼は「あれは本の世界だった」と分かり切ったことを口にした。
「どうやってあの魔法を壊そうかずっと考えていた。だけど俺じゃアリスの魔法には敵わないし、空間の抜け道もどこにも存在しなかった」
「だったらどうやって……」
「さっきの言葉だ」
さっきの、と鸚鵡返しに聞き返そうとしてぴたりと言葉を止める。この空間が壊れた時に言っていた言葉なんて、思い出すまでもなかったからだ。
「王子が人魚姫と結婚する……本来ストーリーにあるはずのない筋書きだ。だからこそそんな状況になれば媒体である本との間に齟齬が生まれて、ストーリー通りに進めようとする魔法に歪みが出来る。それが耐え切れなくなって……壊れた」
仮説でしかなかったが上手く行った。とほっとしたように告げる彼に、私も色んな意味で力が抜けそうになった。
そうか、さっきのプロポーズは本の世界から脱出する為のキーワードのようなもので、実際に冬樹君の意志ではないのか。偽物だと疑いそうになったくらいだ、何か事情があるとは思ったけど、実際に説明されるとちょっとがっかりしたような複雑な気持ちでもやもやする。
……だけど脱力したのは勿論それだけの理由ではない。今までずっと張りつめていた緊張が解れ、涙腺も緩んだのかぽろぽろと勝手に涙まで零れて来た。
「……死ななくて、よかった」
本当に、よかった。
どうにかする、と言った彼の言葉を信じたかったけど、死ぬかもしれないと何日もずっと頭の中でぐるぐるとその言葉が回っていた。ようやく、帰れるんだ。
「砂原、帰ろう」
「……うん!」
涙を拭って冬樹君の手を掴むと、途端に何度か覚えのある浮遊感に全身が包まれた。
閉じていた目を開けるとそこは見覚えのある高校の書庫だった。先ほどまで暗闇に居た所為で窓から入って来る日差しさえもとても眩しく思える。
「も、戻った……」
本の世界じゃない。私達が暮らしている当たり前の現実に戻ることが出来たのだ。鞄から携帯を取り出して日時を確認すると、そこには終業式でも冬樹君の誕生日でもある日にちが表示されており、時刻は午後一時過ぎだった。
つまりまったく時間が経っていないのだ。あの世界で何日も過ごしたはずなのに、まるで本当に白昼夢でも見ていたかのような気分だ。
エアコンも入っていない寒々しい書庫、少し埃の匂いがする本棚、そして目の前で私と同じようにぐったりと座り込んでいる冬樹君。いつもと同じ学校なのに、それが嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
一度止まっていた涙が再び流れ始める。拭っても拭っても溢れて来るそれを見て冬樹君が慌ててハンカチを渡してくれるが、その優しさに余計に泣いてしまった。
「大丈夫か」
「ありがとう。……っ……こんなに泣いてたら、またアリスに泣き虫って、言われちゃう」
普段はそんなに泣く方でもないのに、と思いながら受け取ったハンカチで涙を拭きとっていると、不意に思い出したかのように冬樹君が「アリス……」とぽつりと呟いた。
「……そうだ、アリスのやつは――」
「ホタル、フユキ、死なないでえええっ!」
どこにいる、と続けられた言葉だったが殆ど掻き消される。突然書庫に悲痛な叫び声が響き渡ったかと思えば、直後にアリスが目の前にぽん、と現れたのだ。
うわあああんっ! と、号泣しながら現れたアリスに思わずこちらの涙が止まった。
「あ、アリス……?」
「ほ、ホタル? フユキ? 無事だったのね!?」
私達の姿を確認すると突撃する勢いで懐に飛び込んできた彼女は、更に涙腺を決壊させながら「よかった……本当によかった……」とぐすぐすと縋りついて啜り泣いている。
「アリス」
冬樹君が彼女を呼ぶ。
ぽかん、と状況に着いて行けずに茫然としていた私とは裏腹に、彼は私に泣き付いていたアリスをべりっと剥がすと今までに見たことがないくらい怖い表情を浮かべて至近距離から彼女を睨み付けた。
「説明、しろ」
「は、はい……」
地を這うような声に、やはりアリスも恐ろしさに涙を止めざるを得なかった。泣く子も黙る、とはこういうことを言うのか。
それからアリスはぽつりぽつりと説明を始めたものの、途中で再び泣き始めるわ冬樹君が余計に怖くなるわで、私は口も挟めずにただ二人を見守ることしか出来なかった。
彼女の話を要約すると、私達に渡した本は人魚姫で合っていた。しかしそれはアリスがうっかり本を取り違えた結果で、本当はシンデレラの本に魔法を掛けようとしていたという。
シンデレラと王子になってちょっと楽しい体験をして終わり。アリスが考えていたのはそれだけだったのだが、それが人魚姫だったのだから冗談ではない。確かにシンデレラなら間違っても死に怯える必要もなかっただろうけども。
「うっかりで済む話かっ! ふざけるな!」
「ごめんなさあああい!」
「あと少しで砂原が死ぬ所だったんだぞ!? ずっと話せなかったし足だって痛い思いをして……砂原がどれだけ苦しんだか分かるのか!」
「冬樹君……もうそれくらいに」
ごめんなさいごめんなさい、とずっと泣きながら謝っているアリスにも彼は全く容赦しない。妖精と人間では大きさが違い過ぎるからか流石に手を上げることはないが、そうしても可笑しくない程の怒気を撒き散らしている。
私だって理不尽に死にかけたことに対して言いたいことは勿論あったものの、目の前で冬樹君が今までに見ない程に怒り狂い、そしてアリスも痛いほどぼろぼろに泣いて謝罪を繰り返している姿を見れば私が二人の仲裁に入らなければと考えてしまう。
まだ怒り足りない様子の冬樹君は私が二人の間に割って入ると納得できないように眉間の皺を深くした。
「だが砂原はっ!」
「私のことはもういいから。ほら、せっかく無事に戻って来たんだからね? アリスももう謝るのはいいから泣き止んで」
手に持ったままだった冬樹君のハンカチでアリスの顔を拭きながらそう声を掛けるものの、まだまだ謝りながらら泣き止む気配はない。どうしたものか。
「……あれ」
アリスを泣き止ませようと頭を捻っていたその時、何故か突然頭がぼうっとして思考に霧が掛かるような感覚に陥った。なんだろうと頭を押さえてふらつく体を支えようと片手を本棚に添えようとする。
しかし距離感を見誤ったのかその手は本棚に触れることなく空を切り、余計にバランスを崩して倒れ込んでしまった。
「ホタル!」
「砂原!?」
結構勢いよく倒れたのだが痛いとは思わなかった。それよりも意識が朦朧として何も考えられない。
「ホタル死んじゃ嫌あっ!」
いや、死なないよと言いたいが口が回らない。
どんどん閉じて行く思考が考えることを放棄し、私はそのまま意識を手放した。




