第31話 生きて帰るためには
目を開けると、そこはまた見慣れた景色ではなかった。今度は海の中ではなくどこかの部屋のようだが、視界に入る豪華絢爛なシャンデリアに見覚えなどない。
「砂原、起きたのか!?」
辺りを見回そうとするが、それよりも早く名前を呼ばれて反射的にそちらを振り返る。
「本当によかった……どこか痛い所はあるか?」
すぐ傍で安堵の表情を浮かべていたのは、見慣れない煌びやかな服を着た冬樹君だった。見慣れないとは言ったが、私は一度同じような服を着ているのを既に見ている。やはりまだ現実には戻れていないらしい。
「……っ」
「どうした」
冬樹君、と呼ぼうとした私の口からその名前が出ることはなかった。ぱくぱくと動かした口は空気を吐くことしかできず、私ははっとして喉を押さえた。
そうだった。人間になるのと引き換えに声を奪われたのだ。
依然として話そうとしない上喉を押さえた私を見て冬樹君は「まさか……」と私の状況に気付いたように大きく目を見開いた。
「声が出ない、のか」
無言で一度頷くと「何なんだ一体……」と彼は自分の頭をくしゃくしゃに片手でかき回した。
「アリスのやつ、今度は何のつもりなんだ」
アリス?
急に出てきた名前に首を傾げる。
「この世界に来る前のこと、覚えてないのか?」
彼はこの世界、と言った。つまりここは私が眠っている間に見ている夢ではなく、妖精が住むあの国のような異世界なのだろうか。
そう思いながら人魚姫として目覚める以前のことを思い出すべく記憶の糸を辿る。……確か学校は終業式の日で、なにより冬樹君の誕生日だった。そんなに長い間この世界にいる訳ではないのにとても懐かしく思えた。
そう、それで私は図書館にいた彼の元へ行ってプレゼントを渡したんだ。手作りのクッキーとブックカバー。……そして。
冬樹君に、告白した。
「ここに来る前、砂原がアリスから預かっていた誕生日プレゼントの本を俺が床に落とした。その本が開かれた瞬間目の前が真っ白になって……俺は気が付いたらこの世界にいたんだ」
目の前の彼に想いを伝えてしまっていたことを思い出して思わず逃げ出したくなったが、冬樹君はそれに気付かなかったようにそのまま冷静に話を続けた。何だか真面目に話している彼に申し訳なくなった。
一度深呼吸して落ち着きを取り戻すと、私もアリスから渡されたあの黒い本を頭に思い浮かべた。深く考えずともあれだけ一人で開けるな、冬樹君と二人の時しか駄目だと釘を刺されたのを思い出せば、ただの本ではなかったのだろうと容易に想像できる。
「俺が最初に気が付いた時は、何故か船の上に居たんだ。しかもこんな服を着て周囲にいた人達から王子と呼ばれていた。それから急に嵐が来て船から放り出されて……正直あの時は死んだと思ったんだが、何とか救助されたんだ」
そこまで聞いて、冬樹君はまだここが人魚姫の世界だと知らないのかと理解する。それはそうか、私は最初からストーリーにそって行動させられていたが、冬樹君にしてみれば人魚の姿も見ていないのだ。
ということは、アリスが持ってきた本は――。
「それで、砂原は一体何があったんだ。あんな所で溺れて、それに声も……」
ああ説明するにも喋れないのか、と困ったように眉を寄せた冬樹君は筆談をしようとしたのだろうか、紙とペンは……とどこかに探しに行こうとする。しかし彼が椅子から立ち上がった所で私は冬樹君の服を掴んで歩き出そうとするのを制止した。
「砂原?」
紙やペンを探さなくてもすぐに終わる。私は振り向いた彼の腕を取ってそのまま掌に触れてゆっくりと文字を書き始めた。私が何をしたいのか気付いた冬樹君は立ち上がっていた体を再び椅子に沈め、私が一文字書くごとにそれに合わせて文字を読み上げる。
『にんぎょひめ』と平仮名でそれだけを書き終えると冬樹君はそれを反芻して黙り込み、やがて「……そういうことか」と苦々しげに口を歪めた。
「つまりあの本は恐らく人魚姫の童話で、俺達はその世界に入り込んだ……いや、入り込まされたということか」
多分、と頷く。どう考えても明らかにこの世界は人魚姫のストーリーに沿って動いている。夢でないというのなら、恐らくそれが正解なのだと思う。
「声が出せない、ということは……砂原は、人魚姫だということで合っているか?」
頷く。
「つまりこの世界に来た時は人魚になっていて、話の通りに薬を飲んで人間になったのか?」
これにも頷くと、冬樹君はまるで私に聞かせるように大きくため息を吐き、そしてやけに低い声で私の名前を呼んだ。少々震えているその声は、心なしか……いや確実に怒っているように聞こえる。
「砂原……何でそんな薬を飲んだんだ! 声が出ない、足だって痛いんだろう! それに、砂原だって人魚姫がどういう結末を迎えるか知っているはずだ!」
「……」
「この世界は、ある意味現実と同じだ。妖精魔法の幻覚で作られた仮想空間……怪我なら現実に帰れば治るだろうが――もし、死んだら」
現実でも、死ぬ。
同じように可笑しな空間……子供部屋に閉じ込められた時にもアリスが言っていた。実際に傷付いていなくても、心が死んだと思い込めばそのまま死んでしまうと。恐ろしい言葉だったからよく覚えている。
ここまで来るのに、本当に無理やりストーリーを進行させようとばかりに話が進んだ。恐らく冬樹君も似たようなことを経験したのだろう。だからこそ、ストーリーの最後に死ぬと確定している人魚姫になってしまった私を前に途方に暮れている。
けれどきっと、今更だけど薬を飲むことだって抗えなかったのだろうとも思う。あれだけ強引に魔女に話をつけたのだ、無理やりお姉さん達に飲まされていても可笑しくはない。
どちらにしても、逃げ道などなかったのかもしれない。……そう思わなければやってられない。
「……悪い、怒っても仕方のないことを」
「……」
「とにかく俺達がするべきことは、この空間からどうにか抜け出して現実に帰ることだ。タイムリミット……この物語が終わる前に」
人魚姫が泡になる前にこの世界から脱出する。目的は定まっているものの、しかしそうする為の方法は分からない。
冬樹君の魔法で、妖精の国に行く時のように移動できないのだろうかと思い『まほうは?』と手の平に書いてみたものの、彼は表情を曇らせて首を振るだけだ。
「この空間はアリスの魔法で出来ている。妖精の血を引いているとはいえ人間である俺には妖精が掛けた魔法を打ち破ることは出来ない」
そんな。これでどうにかなるのでは、と一縷の希望を託していたのに。
「……だが、きっと何か方法はあるはずだ。前に向こうの世界の人間が妖精の結界を掻い潜って侵入したように、魔法を破らずとも少しでも空間に隙間や揺らぎが作れれば、そこから脱出できるかもしれない」
まだ希望はある、と冬樹君が私の両肩に手を置いて安心させるように目を合わせた。
……確かにじっと死を待つくらいなら、どんなことでもやって足掻いた方がずっといい。そこに望みがあるかもしれないのなら尚更だ。
「とにかく何とか脱出できないか考える。だから――」
「王子、よろしいですかな」
冬樹君の言葉が終わる前にコンコン、とノックの音と共にドアの向こうで男性の声が聞こえた。ぎゅ、と眉間に皺を寄せた彼は私に一言断ってから立ち上がりドアノブを捻る。
開かれたドアから姿を現したのは老年の男性で、彼は一度私の方へ視線を向けて会釈した後冬樹君に向かって口を開いた。
「国王様がお呼びです。至急お戻りください」
「……嫌だと言ったら?」
「さて……城に侵入した素性の知れぬ娘が、王子を誑かして国王様に反発させているとでも言いましょうか」
「お前……!」
「用件は以上です。それでは、失礼いたします」
ぶるぶる、と拳を振るわせている冬樹君は背を向けていてもその怒気を感じ取れるほどに怒っている。そんな彼を見ても顔色一つ変えない老人は、そのまま冬樹君に一礼してすたすたと去って行ってしまった。
「……っ」
私の所為で冬樹君の身動きが取れなくなっている。そう分かっていても私には彼に謝る為の声さえないのだ、話せないのがこんなに苦痛だとは想像出来ていなかった。
けれどこちらに戻って来た彼はまるで私の気持ちを読み取ったかのように「砂原の所為じゃない」と首を横に振り、つい先ほどまでの怒気を消して僅かに微笑んだ。
なんで。
「助けてくれて、本当に感謝している」
「?」
「物語の通りなら、船から落ちた俺を助けてくれたのは砂原なんだろう。砂原がいなかったら、俺は今ここに居ない」
……そっか。ただの王子様なら一生気付かなくても、冬樹君なら助けたのが人魚だと分かるはずだ。
全て物語と同じように世界が進もうが、私と冬樹君だけは完全に役には重ならないでいられる。そこに、突破口があるかもしれない。
「ずっと名前を呼ばれていた気がしたんだ。暗闇の中でその声だけが頼りだった。――だからこそ、今度は俺の番だ。砂原は絶対に死なせたりしない。どうにかしてみせる」
だから信じて欲しい。と冬樹君は励ますように、安心させるように強く強く私の手を握った。
予想が出来たことだが、冬樹君が国王に呼ばれたのは隣国の王女との結婚の話をする為だった。そしてその王女とは、作中の王子が命の恩人だと思い込む娘のことだ。
王子は隣国の王女と対面した時に、その娘が命の恩人だと知って喜んで結婚しようとする。これが本来のストーリーだ。
冬樹君もどうにか先延ばしにしようとしたが駄目だった。そもそも既に決定事項だったのだ。彼にしたのはその報告だけで、冬樹君に初めから選択肢など与えられていなかった。
そして王女に会いに行くために船で隣国へ行くことになったのだが、その旅に私も同行できることになった。確か実際の物語でも同行していたはずだ……何しろこのまま王子と王女は婚約して、そしてあの最後の夜が訪れるのだから。
「ほら、砂原」
船へ乗り込む為には勿論移動しなければならない。しかし今の不完全な足では一歩踏み出しただけで強烈な痛みが走って前に進むことは非常に困難だった。人魚姫はこんな痛みを持ってでも王子と結ばれたかったのかと感慨すら覚える。
冬樹君も私がまともに歩けないことは承知だったようで、迎えにやって来た彼は私に背を向けてベッド脇にしゃがみ込んだ。どうやら背負ってくれるつもりのようだ。
「……」
「遠慮しなくていい。足、相当痛むんだろ。早く乗るんだ」
少々躊躇っていたのが分かったのか冬樹君は顔だけ振り向きながら言葉を続け、後ろ手に両手を広げてみせる。何だかこの世界に来てから段々と何も言わなくても私が考えていることが冬樹君に伝わるようになってきている気がする。喋れなくて感情が以前よりも表に出やすくなったのか、それとも冬樹君の方が鋭くなったのか。
船着き場まで歩く自信などなく、結局私は大人しく彼の背中に乗るしかなかった。重くてごめんね、と心の中で謝る。
王子におんぶさせているなんて普通不敬罪とかで罰せられる気がするのに、通りがかりに私達を見る人達は何も口にしない。ここで人魚姫が処刑されたら話が駄目になってしまうからだろうか。私達以外の人々がまるで行動をプログラミングされたロボットのように見えた。
怖い、と思った。今までだって出来るだけ考えないようにしていただけで、ずっと怖かった。周囲には沢山の兵士や使用人がいるけど、彼らは全て物語の為に用意されただけの役でしかないのだと。
そしてそれは私達にも言える。勝手に人魚姫と王子なんて役目にさせられて、嫌がってもその役の通りに動いている。まるで文化祭の時の劇の様だ。その世界の役割を押し付けられた主人公達が、元の現実へと帰る為に必死に抗う話と。
だけどこれは劇じゃない、向き合いたくない現実なのだ。私が肩を掴んでいた手に無意識に力を込めてしまっていたのか、冬樹君が振り返る。
「……大丈夫だ」
俺が絶対に助けるからと本当に劇の様な台詞を言った彼に、私は無理やり今までの不安を押さえ込んで強く頷いた。不安なのは私だけじゃないのだ、冬樹君にばかり負担を掛けてはいけない。何とかしてこの世界から出る方法を探さなければ。
もう一度、あの幸せな日々に戻るために。




