第22話 アリスの物語
夏休みが明け、9月が始まった。
新学期最初のイベントは文化祭だ。夏休み明けから早速準備が始まり、順調に出し物も決まった。私のクラスは演劇をすることになり無事に場所も確保できた為、続いて劇の内容を決めようということになったのだが。
「うーん、なかなか決まらないね……」
「何か思いついた?」
放課後の空いた時間を使って、私はクラスメイトの女子数人と共に劇の演目を考えていた。文芸部に所属している子がいたのでその子がシナリオを担当することになったのだが、そもそも大まかな設定も全然決まっていないのである。
あらかじめクラス全体で一度話し合ったものの、その時に決まったことと言えば大雑把な事項だけなのだ。
まずクラスの出し物ということでそれなりの人数が出演出来るもの、そして内容は時間の関係もあり簡潔で分かりやすいもの、後味が良いハッピーエンドであること。そしてもうひとつ……これは女子がごり押しで意見を通したものなのだが、恋愛ものであること、だ。
確かにヒーローとヒロインが結ばれてハッピーエンド、というのは内容的にまとめやすいかもしれないが、これだけの条件で詳しい内容を考えろと言われても漠然とし過ぎていて中々意見も出ない。
「普通に既存の物語じゃ駄目なの?」
沈黙する会議にアリスがぽつりと疑問を投げかけるが、勿論私にしか聞こえていない。確かに私も彼女と同じように思っていたのだが、いつの間にかオリジナルでという話にまとまっていたのだからどうしようもない。後先考えずに出された意見が何故かずっと残っているというのはまあある話だ。
「完全にオリジナルじゃなくてもさ、何かのモチーフとかにすればいいんじゃない? 童話とか」
望が手元のノートに落書きしながらそう言うと、まあそれがいいよね、いいんじゃないかな、と肯定的な声が所々から上がる。そうすれば、ぽつりぽつりと誰からともなくいくつかの童話の名前が出されるようになった。
「シンデレラとか白雪姫は?」
「恋愛ものなら美女と野獣とか」
「人魚姫とかどう?」
「それバッドエンドじゃん」
「いや逆にハッピーエンドになる話にするとか。あくまでモチーフだし」
ざわざわ、と静かだった教室に活気が戻る。皆思いついた物語を次々と口にし、今まで白紙だったノートに箇条書きで書き連ねていく。粗方意見が出尽くした所で、宮田さん――シナリオを担当することになった文芸部の女の子だ――がその文字列を眺めて「んー、この中から何か絞り出すしかないか」と考え込むように腕を組んだ。
「でもしょうがないけど、こういう劇だと衣装作るの大変そうだよね」
「ねー、衣装の型紙とかも探さないとだし」
例え型紙があろうとなかろうと、私には到底無理な話である。見た目を気にしなければ雑巾くらいは何とか縫える、というくらいの実力しかなく、「衣装作りとかやってみたいなー」なんて楽しそうに盛り上がる女の子達が少し羨ましかった。
「ドレスなんて魔法でやればぱぱっと完成するのに、人間って大変ね。ホタル、フユキも魔法上手くなったし今ならホタルにドレス着せられると思うわよ?」
「……だからアリス、その話は」
もういいって、と数か月前のことを思い出してげんなりしながら口にした。……そう、いつの間にか口に出してしまっていた。
「アリス?」
宮田さんが鸚鵡返しに聞き返して来た所でようやく自分の失態を理解する。「あ、いや、何でも……」と咄嗟に誤魔化すように必死に首を振ったものの、しかし宮田さんは考え込むように「アリス、アリスかー……」とぶつぶつ呟き始めてしまった。
「あー。そういえば不思議の国のアリスってまだ出てなかったよね」
「は? 不思議の国?」
「蛍が自分で言ったんじゃないの」
確かにアリスとは口に出してしまったが、勿論そんなこと頭になかった。周囲が上手いこと勘違いしてくれたようなので「そう、それ」と曖昧に笑って誤魔化していると、俯いて考えていた宮田さんががばりと顔を上げ、「何か創作意欲湧いてきたわ」と清々しい顔で言った。
「砂原ちゃんが言ったのでちょっと書いてみてもいいかな? あー、早くしないとアイディアが逃げる」
手元のノートに私には理解しがたい文字で急いで何かを書きつけている宮田さんを見て、私はとりあえず怪しまれなくて良かったと安堵の息を吐きながら頷いた。
ごく平凡な毎日を過ごす高校生の主人公は、ある日学校の帰り道に突然現れた白兎に誘い込まれて不思議で不気味な世界に迷い込む。
「君は“アリス”だ」
白兎はそう言って笑う。自分はこの世界でアリスの役割で、そして永遠にこの世界の住人になるんだと告げられる。他の住人も彼女と同じように連れて来られたが、もう以前の記憶など全て忘れて楽しく暮らしていると。
気が付けば、彼女はもう自分の元の名前も思い出せなくなっていた。
「俺、チェシャ猫って呼ばれてる。君は?」
「……アリス」
どうしようと困り果てた彼女の前に現れたのは、チェシャ猫と名乗る一人の明るい少年だった。
アリスと同じようにここへ連れて来られた彼は家に帰りたいと泣く彼女を必死に慰め、「一緒にここから出よう」と励ます。
アリス達を逃がすまいと他の住人や様々な罠が襲い掛かる中、手を取り知恵を出し合って困難を乗り越え、そして彼らはとうとう現実世界へと帰還する。
以前と同じように当たり前の日常へと戻った主人公は、ある日公園で猫と戯れる一人の少年を見つける。彼は彼女を見ると微笑み、そしてこう言った。
「今度こそ、君の本当の名前を教えて欲しい」
「――とまあ、最終的にくっつく所までは行かなかったけど一応ハッピーエンドってことで、こんな感じでまとめてみたんだけど」
「……宮田さん、すごいね」
何がすごいって、昨日の今日で仮とはいえ脚本を全部書いてくるなんて恐れ入った。ついでに言うと彼女の目の下の隈もすごい。
「委員長にも渡したし、後は皆の意見を聞くだけだけど」
「いやこれ絶対採用だよ。少なくとも私は好き。何かヒーローの男の子が……」
望が言いかけた言葉をはっとして止める。しかし止めたはいいが恐らく私には――いや多分宮田さんにも、彼女が言おうとしたことはばればれである。
ヒーロー役であるチェシャ猫の少年が栗原君みたいだと思ったのだろう。
アリスを明るく導き、時にふざけそして時にかっこよく。栗原君のかっこよさは望と私達の間に認識の差がありそうだが、口調や普段の明るい性格は確かに似ていると思う。
微笑ましげに望を見る宮田さんを見て、これはやっぱりクラスの大半には望の気持ちがばれているのではないだろうかと推測する。そもそも望も栗原君も二人で居る時の反応が実に顕著なのだ。同じクラスに居ると大体の人は「あー」と勝手に理解してしまう。
「それじゃあ、今から文化祭の役割を決める」
皆から多くの賛同を得て無事に劇の内容が決まると、続いて行われるのは各々の役割分担である。
脚本を書き上げてから数日経ったその日、教壇の前に委員長――日高君が立ち、騒がしい教室を静めるように声を張った。彼の隣にはチョークで役割を書き出すもう一人の委員長――女の子だ――が居て、こういう場面になると毎回「大変でも委員長に立候補しておけばよかった」と後悔してしまう。
役割は演劇の登場人物は勿論のこと、背景作りなどの大道具や衣装係、音響や照明などやることは盛り沢山だ。
「まず主役のアリス……とチェシャ猫、立候補者は?」
日高君がそう言って教室を見回すが、皆様子を窺いあっているようで手は上がらない。ちなみにしんとした教室内で唯一「はいはーい!」と自分の名前が呼ばれた瞬間に手を上げた妖精が居たが、日高君が少々口を引き攣らせただけだった。
「もうっノリ悪いわね、ホタルはやらないの? 主役よ?」
そうは言われても先日のこともあって迂闊に返事が出来ないので黙って小さく首を振る。そもそも私は主役なんて柄じゃないし、目立つ可愛い子なら教室内に何人かいる。
手元に広げたノートに“そもそも演技なんて出来ない”とアリスに見えるように書き込むと、彼女は「ホタルはぴったりだと思うんだけどなあ」と口を尖らせた。
「ほら、異世界に迷い込んだ実体験を生かせばいいのよ」
確かにそんな経験があるのは私と日高君くらいだろうけども。
「主役は先に決めておいた方がいいし、立候補が居ないなら投票にしようと思う。それでいいか?」
「いいんじゃねーの」
「まあその二人が決まらないと先に進まないしね」
口々に賛成意見が出てきたところで、小さなメモ用紙が一枚ずつ配られる。これにアリス役、チェシャ猫役になってほしい人の名前を書くのだ。
私はシャーペンを握って一度教室内を見る。そしてぐるりと視線を一周させた頃にはもう書くべき名前は決まっていた。
アリス役には桜井望、チェシャ猫役には栗原猛だ。
数日前に言っていた望の言葉が決定打だったとも言うが、確かに栗原君なら役のイメージに合っていると思う。そして栗原君がヒーローならば、ヒロイン役は自動的に決まる。アリス役が合うという理由ではないのは申し訳ないが、望ならば舞台映えもするだろうし、栗原君の隣にはやっぱり彼女がお似合いだと思うのだ。
「なになに? ヒーロー役、フユキにしなかったの?」
“この役は栗原君が合ってると思ったから”
「ふーん。まああのフユキが演技上手いとも思えないしね」
アリスの失礼な発言に申し訳ないが頷いてしまった。
然程時間も掛かることなくメモ用紙は回収され、一つ一つ結果を黒板に書き足していく。早速アリス役に望の名前が書かれ、更に正の字が少しずつ足されるのを見て少し嬉しくなる。一方チェシャ猫は栗原君が圧倒的に票を伸ばしているのに「ええ、俺!?」と驚愕の声が上がるのが聞こえた。
望以外にもいくつかクラスメイトの名前が書かれていく中、可愛い女の子に混じって『砂原蛍』という名前が紛れ込んだ瞬間、私は思わず栗原君同様に驚きの声を上げてしまった。
「ほら、ホタルの名前もあるよ!」
「一体誰が……」
もしかして、と望の方を窺うと、彼女は分かっていたかのように私の方を見ていい笑顔を見せた。立候補しなかったのだから自分の名前を書くことはないだろうとは思ったが、それで私に入れる意味が分からない。
数人の女の子に混じって書かれた自分の名前が場違いな気がして俯いていると、「あっ」とクラスの喧騒に紛れてアリスの声が聞こえた。釣られて顔を上げると、彼女は黒板を指さして嬉しそうにこちらを見ているではないか。
「ホタル、もう一票入ったよ。良かったね!」
「――は?」
今度こそぽかんとして自分の名前の下に書かれている二画目までの正の字を見る。隣で望がどんどん票を伸ばしているのも気にせず、只々本当に誰が入れたんだと首を傾げた。
その後、圧倒的に票を獲得した栗原君と、他の子に五、六票の差を付けた望が無事に主役に決まった。抜擢された栗原君は相手役が望ということもあり面白いくらい張り切っていて、望も望で大丈夫かな、と不安になりながらもアリス役を承諾した。
さて、主役が決まったことで他の役はするすると順調に埋まり始め、私も衣装係などの明らかに貢献出来無さそうな担当になってしまわないように早く決めなければと焦った。
「はいっ!」
適当に端役でもと思っていたのに、私は気が付いたら照明係に勢いよく立候補していたのだった。理由は簡単、委員長の片割れが誰も手を上げなかった照明係になると言い出したからに決まっている。
今まで手を上げなかった癖に日高君が決まった瞬間に立候補するなんて明らかに彼目当てではないかと勘繰られたら(勘繰るも何もその通りなのだけど)どうしよう。そんなことを思ったが、案外周りは私の言動一つくらい気にしていない。むしろ自分の役割をどうするかに集中している為、何の問題もなく照明係り二人はクラスメイトの気に留められることなくあっさりと決まったのだった。
「砂原も照明だな。よろしく」
「うん……」
下心で選んでしまった手前、いつも通り酷く真面目にそう言った彼に少々罪悪感が湧いてしまった。




