第2話 非日常への入り口
「……重い」
次に私が我に返った時、最初に感じたのは背中に圧し掛かる重さだった。
起き上がろうとして無理やりその重さを振り払うと、ごろんと背中を転がるようにしてそれは私の隣の床に落ち――。
「……って、日高君!?」
床に仰向けになるようにして転がったのは何と日高君だった。気を失っているのか目を閉じて微動だにしなかった彼は、驚いた私の声に反応するように瞼をぴくりと動かし、やがて薄く目を開く。
「さ、はら?」
「大丈夫!? というか何で気絶して」
頭を押さえて起き上がった日高君を支えながら彼を覗き込むと、暫しぼうっとした顔をしていたものの不意にはっと我に返るように表情を引き締め、そして私の肩を掴んだ。
「一体何を考えてるんだ! 急に飛び出して危ないだろうが!」
「え? ……あ、ごめんなさい」
至近距離で怒鳴られたこととその意味が分からなくて一瞬間が空いたが、すぐにそれが先ほど車の前に飛び出してしまったことを言っているのだと気付く。
そうしてようやく、日高君が私に圧し掛かっていた理由が分かった。きっと彼は車から私を庇おうとしたのだろう。自分の不注意で彼まで危険な目に遭わせてしまったことに気付いて酷く申し訳ない気持ちになった。
「日高君、ごめんなさい。私の所為で日高君まで巻き込んで……」
「……幸い砂原も俺も怪我がなかったからいいが、もし万が一のことがあったら――っ!」
そこまで口にした所で日高君が何かに気が付いたように息を呑んだ。私も同じように彼の言葉を聞いて、慌てて周囲を見回す。
そもそも今まで冷静になっていなかったのだが、私達を轢きそうになっていた車など周囲のどこにも存在していなかった。いや、それ以前に夜道を歩いていたはずの私達はどうしてこんな場所に居るのだろうか。
「子供、部屋?」
私達が倒れていた場所は、おもちゃや人形に囲まれた子供部屋のような場所だったのだ。
可愛らしい色とりどりのカーペット、小さな子が描いたようなクレヨンの絵が飾られている壁、クマやウサギのぬいぐるみ、オルゴール、こちらに向けて笑いかけるような人形。
まるで絵に描いたような子供部屋に、私達は茫然と顔を見合わせてしまった。
「何、ここ……?」
「外に居たはずなんだが」
気を失っているうちにどこかに運ばれた? いやしかし、そうだとしてもこんな場所に放置されている理由が分からない。
そうして只々混乱していたその時、突然かたりと音を立ててオルゴールの蓋が勝手に開いた。
「ひっ」
急に鳴り出したオルゴールの音に私は身を竦める。誰も触れていないはずなのに淡々と音を紡ぐそれに日高君も警戒するように周囲を見回した。
一つ不気味だと思ってしまえば微笑ましいクレヨンの絵も愛らしいぬいぐるみも、そしてこの部屋自体が恐ろしいものに思えてきた。そもそもどうしてこの場所に居るのかも分からないのだ、何かの事件に巻き込まれてしまったのだろうか。
ここは、何だ。
「……とりあえず外に出るぞ」
「日高君?」
「このままここに居ても仕方がない。砂原、立てるか?」
怯えて座り込んだままだった私の腕を引き立ち上がらせた日高君は恐る恐ると言った様子で歩き出し鳴り続けているオルゴールの横を通り過ぎると、この部屋に唯一存在する扉のドアノブを捻った。
するとぎい、と音を立てて扉は易々と開き、私達は二人揃って安堵の息を吐いた。少なくとも閉じ込められていた訳ではないらしい。
しかしその部屋を出る前に私は嫌なことに気が付いてしまった。
「日高君……」
「どうした」
「人形の頭が、動いてる」
座り込んでいた時にこちらに笑いかけていた女の子の人形が、今部屋を出る直前の私達を同じように見つめているのだ。錯覚などではない、首の角度が不自然な程曲がっている。
「……」
暫く人形を見て沈黙していた彼はそのまま私の手を引いてくるりと前を向いた。見なかったことにするらしい。
「行くぞ」
「うん」
ゆっくりと軋む扉を開くとそこは短い廊下と、そして次の部屋へと繋がる扉しか存在しなかった。真っ直ぐ進むしかない。
先導するように歩く日高君の後ろを着いて行くのだが、しかし私は今更手を掴まれている事実を再認識して途端に恥ずかしくなった。何もない廊下に来てようやく好きな人と手を繋いでいるという所まで思考が至ったのだ。
「あの、手……」
「何があるか分からないからこのままにしておいてくれ」
「……分かった」
場違いにドキドキしていた気持ちが、彼の言葉によって冷水を浴びせられたように冷める。本当に場違いだ、日高君はこんなにも真剣なのに私ときたら。
私は深呼吸をして掴まれていただけだった彼の手をしっかりと握り締めた。照れている場合ではない、とにかくこの可笑しな家から出なければ、と。
すぐに次の扉へと辿り着き、一呼吸置いてから開かれる。するとそこは先ほど同様の子供部屋で、しかしおもちゃや内装が少々異なっている。
床一面にはカーペットではなく、クレヨンで書いたと思われる様々な色の線が縦横無尽に這い回っていた。動物のぬいぐるみが置かれているのは同じで、しかし先ほどの部屋よりも数が多い。
そして、目の前に扉が一つ。
「本当に、何なんだここは」
無意識にだろう呟かれた言葉に返せる人はいない。慎重に歩みを進め、再び扉を開こうとした日高君は、しかし唐突にその手を止めて振り返った。私も同じだ、何故なら。
くすくす……ははは……
背後から複数の小さな笑い声が聞こえて来たのだから。
視線の先では棚に行儀よく並んでいた動物のぬいぐるみが一斉に床に飛び降り、そしてその手にはいつの間にか――様々な刃物が握られていた。
「――っ!?」
恐ろしくて声にもならない。可愛らしい丸い手にはナイフ、カッター、鋏、包丁……。それらを全て確認する間も無く、私達は走り出した。
廊下に飛び出した背中に、笑い声が着いて来る。
にげるの? にげるの? つかまえなきゃ!
「砂原、もっと早く!」
「分かってる!」
分かっているのに、恐怖に足が縺れる。次の部屋に転がり込むように飛び込んで扉を閉めるが、しかし押し寄せているぬいぐるみ達によってがんがんとこじ開けられそうになっている。
二人で押さえようとするが、それよりも早く日高君は扉から手を放して次の扉に走り出した。
「日高君!?」
「この部屋もぬいぐるみも動き出した! 出るぞ!」
「え」
彼の言葉に押さえていた扉から視線を引きはがしてみれば、そこには棚から次々と飛び降りて凶器を手にするぬいぐるみや人形が何体もこちらを見ていた。
震える足を叱咤して恐怖のままに走り出すと途端に押さえていた扉が開かれて沢山のぬいぐるみが押し寄せてくる。ナイフが足を掠めるのに構わずに部屋の外に出て次の部屋へと向かう。全く同じ廊下の光景に一体どこまでこれが続くのかと恐怖が増す。
「え!?」
しかし次に入った部屋では今までのものとは明らかに違うものがあった。
扉が二つあるのだ。
「どうしよう!?」
「……こっちだ!」
二つの扉を見比べて途方に暮れた私とは裏腹に、日高君は強い力で腕を引いて迷わず右の扉を開けた。
右、右、左、右、左、左、真ん中。
そうして進む度に扉は増え、けれど日高君はまるで正解を知っているかのように悩むことなく扉を開けていく。
「日高君、分かるの!?」
「なんとなくだっ!」
いつもきっちりしている彼には全く似つかわしくない言葉を叫んだ日高君は息を切らしながら扉を開け、そして足を止めた。数歩遅れるようにして立ち止まった私もその理由を理解する。
「行き止まり……!」
この部屋には今入って来た扉しか存在しなかったのだ。必死に部屋の中を見回すものの、窓は愚か隠れる場所だってありはしない。そうこうしているうちに背後からの笑い声がどんどん大きくなっていくのを感じた。
こうなったら反撃するしかないのか。私が部屋の中で使えそうなものを漁ろうとした時、日高君がはっとしたように「下だ!」と叫んだ。
「下?」
「カーペットを捲れ!」
どたどたと、決して少ないぬいぐるみでは出ないような足音が響く中、私は彼の言葉に従って急いで部屋の中央に敷かれたカーペットをどかす。そうすればそこには下へと続く階段が隠されており、私達は一二も無く降り始めた。
「はあ……はあ」
階段は登るのも辛いけど降りるのも大変だ。何より焦りによってそのまま下まで転げ落ちそうになる。廊下よりも随分長い階段は薄暗くてその先を見ることは出来ない。
いつまで続くのだろうかと思った瞬間、前を走っていた日高君ががくんと体勢を崩し、そして繋がれていた手が勢いよく引っ張られた。
「え、な、わあああああっ!」
引き摺られたその先は、階段ではなく滑り台のような急な下り坂になっていたのだ。
私達は比喩ではなく転がるようにその坂を落ち、そして落ちながらも不意に光を見た。出口だろうかと考える間もなくその光は大きく近付き、私達はその光に包まれる。
「痛っ」
どさり、と音を立てて体が止まった。体の節々が痛いが、どうやら外に出られたようだった。
「重い……」
「ご、ごめん!」
体の下から聞こえた呻き声に、私は自分が日高君を下敷きにしていたことに気が付いた。慌てて上から退けば、彼はゆっくりとその身を起こして周囲をぐるりと見回す。
「ここは……」
私達が抜け出した先は、またしても可笑しな場所だった。
「何かファンタジーな……」
そこは何というか、可愛らしい場所だ。お菓子の家のようなファンシーな家がいくつもあり、しかしそれらは非常に小さい。村のような雰囲気で辺りは自然が満ち溢れ沢山の花が咲いていた。
まるで小人の集落かと思われるそれらに、私は先ほどまでの恐怖も忘れて立ち上がった。
「――捕えろ!」
勇ましくも可愛らしい子供のような声が聞こえたのはその刹那である。
ひゅんひゅん、と何かが空を切る音が聞こえたかと思うと、直後体に何かが巻きつく感覚がした。
「何!?」
「砂原!」
一瞬で全身を雁字搦めにしたのはよく見れば細いロープで、足まで縛られた私はバランスを崩してそのまま草の上に倒れ込んでしまう。驚いて目を見開いた日高君が私を助けようと体を動かすが、しかしすぐに彼も同じように拘束された。
「侵入者を捕えたぞ!」
先ほどと同じ声が聞こえて寝転がった状態から顔を上げると、そこには男の子がこちらを勝ち誇った表情で見下ろしていた。
しかしただの男の子ではない。その子は私の手の平よりも少し大きいだろうかというほどの身長しかなく、そして何より……その背中に半透明の羽を生やしてぱたぱたと飛んでいたのだ。
そんな男の子に唖然として目を白黒させているうちに、彼の元には同じく羽を生やした子供達が何人も飛び寄って来て嬉しそうにハイタッチをしている。
「妖精……?」
絵本でしか見たことが無いその姿は、まさしく妖精と言ってイメージするような生き物だった。
「とぼけるな、お前達は僕達を捕まえに来たんだろ!」
「牢屋に入れてしまえ!」
いくつかの妖精らしき子達が口々にそう言うと他の子達もうんうんと同意する。そしてその中の女の子がどこからかステッキのようなものを取り出すと、それを一振りした。
「ちょっ」
「うわっ!」
まるで魔法使いみたいだなんて呑気なことが頭を過ぎったがまさしくその通りだった。ステッキが降られた瞬間、私達の体がふわふわと宙に浮いてしまったのだ。まるで宇宙に来てしまったかのような浮遊感に、私は混乱しながら彼女達を見返した。
「何なのこれ!」
「今から牢屋に入れるのよ! 不可侵条約を破ったあなた達には罰を……ん?」
そこまで言った妖精の少女は不意に言葉を止めて首を傾げた。彼女はそのままふよふよと漂いながら日高君の前まで来ると、その周りをぐるぐると回り出す。少女の様子を訝しげに見ていた他の妖精達も次第に日高君の元へと集まり、ひそひそと話し始めた。
「こっちの男は長老の所に連れて行こう! 女は牢屋でいい」
「な、止めろ!」
何やら話し合いが纏まったのか、そう言うやいなや日高君の体が宙に浮いたまま移動を始める。そして私の体も、彼とは別方向に動き出した。
「日高君!」
「放せ、この!」
体に絡みつくロープを解こうと身をよじるが全く効果はない。そうしているうちにどんどん私と日高君の距離は開き、そしてとうとう姿が見えなくなった。




