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9/23

台風と危機

 夏休みも過ぎ、後期の授業が始まる。まだ残暑が続いているがそれでも本格的な暑さは過ぎ去り、徐々に秋に近付いて行く。



 夏が終わって何が来るかというと、ずばり台風の季節である。





「うわあ」


 もはや時刻表が意味を無くした電車にぎゅうぎゅうと詰め込まれながらなんとか最寄りの駅に着いたのだが、想像以上の雨と風に思わず声が出た。まだ直撃している訳ではないのにこれだ、一番近くを通る今夜は酷いことになるだろう。


 握りしめていた傘を差した所で意味はないどころか壊れるだけだ。家までは歩いて十分程で、私はどうしようか少し考えた後に鞄を抱きしめるようにしてそのまま大雨の中を走り出した。

 十秒も経たないうちに全身がびしょ濡れになる。プリントはクリアファイルに入っているので大丈夫だと思うが、教科書がどれだけ被害を受けるか。とにかく無事を祈って酷い視界の中、私は足を速めた。



 今のアパートに暮らし始めてから4年程経つが、これほどまでに強い台風が襲ったことなど無かった。駅からの道で予想以上に増水している川を見ながら橋を渡る。ここを渡れば後は少し急な坂を上って家に着く。うちのアパートは比較的高い位置にあるので一階の我が家でも浸水はしていないだろう。




「――て」



 ますます強くなっていく雨足に追われるように帰路を進んでいると、雨と風の音に混じって甲高い何かが聞こえた気がした。



「え?」


 普段ならば聞き逃してしまいそうだったそれに気付いたのは、その短い声がまるで悲鳴のようだったからだ。微かに聞こえた声は何度も繰り返し耳に入り、それが聞き間違いでないことを証明する。


 途切れ途切れに聞こえた声のする方――橋の下へ、顔の雨粒を拭いながら視線を向けると、そこには赤いものが見える。



 よく目を凝らしてそれが川に流されそうになっている女の子だと認識した瞬間、私は考える暇もなく走り出し、橋を渡って川の傍まで急いで降りた。流されてきた流木にランドセルが引っ掛かり身動きが取れなくなっている女の子は、たまに近所で見かける子だ。




「大丈夫!?」



 鞄を放り出してすぐさま女の子に手を伸ばすが、届かない。何とか届いたランドセルを手繰り寄せるように引っ張るものの、川の流れにプラスして女の子の体重が片腕に重くのしかかる。



「お姉ちゃん……」

「すぐ助けるから!」



 大泣きしている女の子を必死に励ましながら、私は全力でランドセルを引っ張る。少しずつ手繰り寄せることは出来ているのだが、しかし今度は女の子の方が背負っていたランドセルから腕が抜けそうになっている。


 どうすればいい。少しでもバランスを崩せば今度は私も一緒に川に落ちてしまうだろう。だが、無理をしなければ女の子はこのまま流されていってしまう。


 誰か通りかかる人はいないかと橋の上を見上げるが、車が通るだけで通行人はいない。ドライバーは橋の下など見ている余裕もないだろうし、この雨風の中で車内まで通るような声を出すことなど不可能だ。



「やっ、た……!?」



 どうにか女の子の腕を掴んだかと思った矢先、ずるりと重心が前に持って行かれて体が傾く。やばいと思った瞬間、私は咄嗟に流木をしがみ付くように掴み何とか川への転落は免れた。


 しかし、元の体勢に戻ることは困難。おまけにこの流木だって今は何かに引っ掛かってここに留まっているが、いつ流されてしまうか分からないのだ。




 女の子が流されるか、私が流されるのが先か。そんな状況で橋の上に人影を見つけた時、私は本当に奇跡が起こったことを知った。



「鈴木さん!」



 青色のレインコートを羽織った隣人が、今まさに橋の上を通りかかっていたのだ。確かにこの道は彼も通学に使っているのでよく通るが、まさに今この瞬間に帰って来てくれたのは一体どれくらいの確率なのか。



 自分が出せる精一杯の声を張り上げて何度も彼の名前を呼ぶと、彼の視線がちょうど私を捉えた。そして捉えるやいなや彼は走り出し、橋を渡り終える前になんとそのまま上から飛び降りたのだ。



「片桐さん!」



 私達の居る岸のすぐ傍になんなく着地した鈴木さんは、動揺しながらも私の体に手を回した。



「その子、しっかり掴んでいて下さい」



 言われる前からしっかりと掴んでいた手の力を更に強める。少し痛いかもしれないが我慢してもらおう。




「いきます」



 次の瞬間、視界がぐるりと回転した。


 一瞬何が起こったのか分からなかった。急激に体を圧迫感が襲い、女の子を掴む腕に掛かる重さが増す。そしてどさりと地面に体が落とされた時になってようやく現状を理解した。


 鈴木さんは、私の体を勢いよく引っ張り、まるでマグロの一本釣りかのように一気に女の子ごと川から引き上げたのだ。彼の腕力も恐ろしいが、私自身片腕で女の子の体重を支えることが出来たのは火事場の馬鹿力に他ならない。



 女の子はというと、宙に浮いて川から岸に戻されたことに驚いて固まっていたが、次第に張りつめていた緊張や不安が解けたのだろう、火が付いたように泣き出した。

 正直、私も安堵で泣きたかった。




「鈴木さん……」

「もう大丈夫ですよ、早く上に上がりましょう」



 立ち上がれない女の子を抱え上げた鈴木さんが立ち上がり、私もそれに続こうと泥だらけになった体を起こして一歩踏み出そうとした。


 しかし、早々にその足は止まった。動かそうとした足は増水でぬかるんだ地面に深く嵌り、抜けなくなったのだ。



「え、ちょ」



 慌てて抜け出そうとするが、逆にどんどん嵌っていく。無理やり引き摺り出そうとした所で、先ほどから吹いている風よりも一等強い暴風が私を襲った。




「片桐さん?」



 一向に付いてこない私を不審に思ったのか鈴木さんが振り返るが、私に返事をする余裕などなかった。一際強く吹いた風でバランスを崩した私は、背中から倒れるように川に逆戻りしてしまっていたのだから。



 彼の驚愕の表情を見ながら、私の視界は淀んだ水で染まった。














 一瞬気絶していたかもしれない。再び開けた視界は相変わらず雨風に支配されていたが一つだけ異なる点がある。


 私は気が付くと、流されながら鈴木さんに抱きかかえられていたのだ。




「鈴木さん、なんで」



 私の言葉に返事をせず、彼はただ腕の力を強めるだけで答えた。

 私を助ける為に、こんな川の中に飛び込んだというのか。彼は、泳げないのに。



「いや、どうして、死んじゃう!」

「暴れないで下さい。ここはまだ足が付くのでどうにかなります」

「でも」

「大丈夫です、後少し――」



 鈴木さんが岸にあった大きな岩に手を掛ける。しかしそれを阻止しようとするかのように風で波打った水が私達に襲い掛かって来た。



「げほっ」



 今だけではない、多分落ちた時にも大量に水を飲んでしまったのだろう。苦しくて仕方がない。


 波にも負けずに岩を放さなかった鈴木さんはそのまま岩へしがみ付き、一気に体を川から引き上げる。私も一緒になって持ち上げられ、先ほどのようなことがないようにか川から距離を空けて地面へと下ろされた。



 ぜえぜえと、お互いの荒い呼吸だけが残る。



「片桐、さん。もう大丈夫です……」


「何で……助けたんですか」



 私は全身泥だらけで酷いことになっている。服もどこかで引っ掛けたのか所々穴が空いていた。だが怪我は殆どない。


 鈴木さんは私よりもずっと酷い。恐らく私を庇ったのだろう、全身ボロボロで大きく切り裂かれた腕や足の皮膚は彼の本体を隠すことも出来なくなっている。彼の体が正しく人間であったなら、大怪我していたはずだ。


 こんな、私を助ける為だけに、自分の身を危険に晒して。




「泳げないって言ってたじゃないですか! どうして無茶したんですか!」

「……無茶ではありません。この辺りは比較的下流なので足は着くだろうと、一応確証はありました。私の重量ならば簡単に流されることもないはずだと」

「だからって、絶対に大丈夫なはずないのに……!」

「例え確証がなくとも、あなたを助けない訳がありません」



 我慢できずに涙が溢れた。何で、だって私はただの隣人で、彼が命を懸けていいような人間じゃなくて。


 彼は故郷に家族がいると言っていた。私とは違って、彼には待っている人がいるというのに。




「また、私の所為で人が死んだら……!」



 私は誰かに守られていいような人間じゃないのに。


 苦しくて苦しくてたまらない。水を飲んだからだけではない、唇を噛み締めて必死に堪えているのに流れていく涙が止まらないからだ。



 もう目の前で人が死んでいくのを見たくない。人の命を背負って生きていくなんて、無理だ。



「片桐さん」



 溢れる涙を拭っていた手が、温かいものに包まれた。


 潤んだ視界の中で、むき出しになった鋼鉄が私の手を掴んでいた。




「生きてますよ」

「……」

「私は、生きています」



 生きている、と何度も何度も彼は私に言い聞かせるようにそう繰り返した。困ったように眉を下げて、しかし手は力強く、鈴木さんは私を安心させるようにただひたすら繰り返す。



「生きて……」

「はい、そうです」



 暖かい手は彼の体温で、言葉以上に彼の存在を知らしめてくれる。雨も風も、そしてそれに晒されている服も体も冷たかったのに、それだけが温かかった。



 いや、もうひとつ温かいものはあった。



「す、すずきさ……」



 堰を切ったように私は彼の手を握りしめて大声で泣いた。私は、何も失わずにいられたのだ。




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