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黒いあいつと停電

 しとしとと雨が降るどんよりとした天気、そんな薄暗い夕方に事件は起こった。


 やつが、やつが現れたのだ。





 言葉にするにもおぞましい例の黒いあいつはタンスの隙間から唐突に姿を見せた。


 落ち着け、冷静になるんだ。パニックになっても私を助けてくれる人はいない。1人暮らしを始めて早4年目なのだ、こういう状況に陥ったことも既に数回ある。こうならないようにどんなに丁寧に掃除をしても、やつはふとした瞬間に唐突に現れるのである。



 私は一度深呼吸をして、やつから視線を外さないように慎重に、しかし素早く動き、殺虫剤のスプレー缶を手に取った。一度見失ったらもう駄目だ。どこかに潜んでいるのが分かっているのに普通に生活を送れるはずがない。さながら暗殺者に命を狙われているターゲットのように。


 ごくりと息を呑んで、私はやつに忍び足でゆっくりと近づいて行く。下手を打つと逃げられてしまうので動きが止まっている今がチャンスだ。



 後三歩、二歩、い――





 次の瞬間、静寂を切り裂く「ピンポーン」という軽い音が響き、次いで隣人の声が聞こえてきた。視線は外さなかったものの僅かに意識が逸れたそのタイミングをまるで計ったかのように、やつは動き出す。




「ぎ、ぎゃああああっ!」



 叫ぶしかない。

 何しろ黒いやつは、逃げるどころか私に向かって嫌な音を立てながら一直線に飛んで来たのだ!



 無理、無理無理無理無理!



「片桐さん! どうしたんですか!?」



 思わず身を屈め丸くなった私の背中に「入りますよ!」と焦ったような声が聞こえて来る。



「何かあったんですか!?」

「鈴木さん……」



 頭を抱えていた私の肩に手を置いて心配する声に、私はようやく顔を上げた。恐る恐る周囲を見回すが、やつはどこかへ隠れたのかその姿を消している。



「ちょっと、やつが飛んできて……」

「やつ?」

「Gが付く黒いあいつですよ! 本当に飛ぶのは無理、卑怯、ありえない……!」

「はあ……」



 思い出すだけでぞわっとする。


 あまり分かっていない鈴木さんに、しかしとても正式名称を口にしたくなくて適当な言葉で済ませる。



「……ところで、鈴木さんは何の用でした?」

「ああ、そうです。またちょっとレシピで分からない所があったので聞きたいなと思いまして」



 これなんですけど、と肉じゃがのレシピを見せて来た鈴木さんの背後に私の目は再びやつの姿を捉えて固まった。



「あ」

「片桐さん?」

「あれです、やつですよ!」



 私が指を差すと鈴木さんはその指の先を目で追い、そしてやつの姿を見つけて「ああ」と納得したように手を打った。



「虫ですか」

「そうなんです」

「しかし、何をそんなに恐れているんですか?」

「分からないんですか!? あの気持ち悪い触角とか、動く時の音とか……もう言葉にするだけでも嫌です! 鈴木さんはそう思ったことはないんですか?」

「思ったことも何も……初めて見ましたし」

「初めて!? つまり、鈴木さんの惑星には、あいつは居ないんですか?」

「はい」

「羨ましい……」



 今の心境ならば、もうそれだけでその惑星とやらに移住したいくらいには羨ましい。



「あ、どこか行っちゃいますよ」

「待て!」



 彼の声に慌てて殺虫剤を使うが、私の狙いが悪かったのかやつが早かったのか、とにかく命中することなく本棚の後ろへ潜り込んでしまう。


 うわあああ、また見失ってしまった。



「あれを退治すればいいんですか?」



 がっくりと項垂れる私に、鈴木さんは持っていた料理本を開いたまま丸めて本棚……ではなく、その隣の鏡台に近付いて行った。



「え、そっちに居るんですか」

「はい。こちらに生命反応が移動しています」



 ……便利だなあ。


 やはり彼には何かしらのセンサーが付いているらしい。頼りになる隣人は私に一言断って鏡台をずらそうと身を屈め――。



 ふっと、目の前が唐突に真っ暗になった。




「え?」

「あれ、停電ですかね」



 雷は鳴ってなかったので落雷によるものではないですね、きっとすぐに付きますよ。なんて呑気な声が聞こえて来るが、正直私はそれどころではなかった。


 時間はそれなりに遅く、更に雨が降っている為いつもよりもずっと薄暗い。そんな中、私の部屋には例のやつが当たり前のように存在しているのである。




「す、すすすすずきさん!」

「片桐さん、落ち着いて下さい。ちょっと暗いだけですから」

「これが落ち着いていられますか! だって、やつはこの暗闇の中で近づいて来るかもしれないんですよ!?」



 気のせいかもしれない。しかし闇の中、どこかでかさかさという不吉な音が聞こえて来るような気がして悪寒に震える。



「大丈夫です、今片桐さんの周囲にはいませんよ」



 私を宥めるように柔らかい声でそう諭されて、パニックになっていた頭が少し冷えてきた。何が頼もしいって、その言葉が気休めでないことがはっきりと分かる所だ。センサー、本当に助かります。



「あの、明かりとか持ってませんよね」



 暗闇の中に立ち尽くしていることが不安でそう問いかける。私の携帯は部屋のどこかにはあるだろうが分からない。



「すみません。生命探知とは違ってライトは標準装備されていないので……」

「そ、そうなんですか」


 標準装備って、じゃあ後から付けることも出来るんだ。機械人って本当にロボットみたいだ。



 軽い雑談で少し気が緩んでいると、消えていた電気が少し点滅を繰り返して元通りに明るく部屋を照らし出した。本当に短い時間で良かったと、ほっと息を吐く。

 しかしながら、停電で中断されてしまった戦いはまだ続いているのである。



「っ鈴木さん!」



 再び鏡台を動かし始めた彼の足元をさささ、とやつがすり抜ける。そして明かりの下に出てきたそれは、どういうことか、またもや私に向かってその翅を広げて来たのである。



「っ!」

「片桐さん!」



 こいつは何なんだ、私に何の恨みがあるんだ! 殺そうとしていることが分かるのだろうか!?

 もはや恐怖で声すら出ずに動くことも出来なかった私目掛けて、やつは耳障りな音を立ててどんどん近づいて来た。



 しかしそれは刹那、私に到達する前に宙から一気に床へと叩き落されたのだ。


 鈴木さんが丸めた本は的確にやつを狙い打ち、私を今までの人生で三番目くらいの危機から救い出してくれた。




「片桐さん、殺虫剤を」

「……あ、はい」



 茫然としていた私は冷静に掛けられた声に我に返る。動けなくなっているもののやつはまだ死んではいない。プシュ、と殺虫剤をかけるとやつは少し抵抗したものの二度目で完全に動けなくなった。




 私も気が抜けてしまい、そのまま床にへたり込んでしまう。そんな間にも鈴木さんはやつを手早く片付けてくれていた。片手に持った料理本を広げて戻す彼を見て、しかしやつを叩き潰したページを見て料理はしたくないな、と頭の片隅で思った。



「片桐さん、あの」

「鈴木さん、本当にありがとうございました!」



 立ち上がり思い切り頭を下げる。彼には本当に感謝してもしきれない。こんな虫でぎゃーぎゃー煩い隣人など面倒くさいだろうに、退治どころか後片付けまでしてくれるとは……本当にいい人だ。



「鈴木さんは救世主です、命の恩人です!」

「大げさな……。いえ、それより」

「今度何か好きな物をご馳走しますね!」

「え、いいんですか? ……ではなくてですね、あの片桐さん、言い辛いのですが」



 私の言葉に嬉しそうに表情を緩ませた彼は、しかしすぐに何か伝えたいことがあるのか言葉を濁し、私から目を逸らした。


 彼の言葉を聞いた瞬間、今まで舞い上がっていた気持ちは一気に地に叩き落されることになった。




「……まだこの部屋に、いくつか先ほどと同じ生命反応があるのですが」




 一匹居たら、なんとやら。





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