バレンタインとチョコレート
「はあ……」
成人式のあの日から、一か月が経っていた。
一か月も経っているというのに、その時間がどれだけ貴重なものか苦しいほど理解しているというのに、あの日から私はずっと立ち往生している気分だった。
あれから、鈴木さんとぎこちない。私はろくに彼の顔を見ることが出来ていないし、鈴木さんは至って普段通りに接してくれるものの時々何か言いたげに言葉濁し、しかし決してあの日のことを口にしなかった。
あの夜、意識が落ちる瞬間に感じたあれは、本当に真実だろうか。
聞きたくても、まさか本人にそんなこと尋ねる訳にもいかない。普通の会話ですら儘ならない状態なのに、面と向かって「キスしたんですか」なんて言えるはずがない。
そうしてもだもだと悩み鈴木さんと微妙な関係になりながら、気が付けばカレンダーは二月へと変わっていた。
二月十四日、それが今日の日付である。今日が何の日かなんて言うまでもない。
私は現在、デパートのバレンタインチョコの特設売り場に立っていた。
どうして当日になってまで買わなかったのかというと、別にチョコの値下げを狙っていたとかそんな理由ではない。今の鈴木さんに渡せるような勇気がないと諦めていたのだが、当日になって急にお世話になっているのは事実だし、本命としてでなくても義理でもなんでも渡そうと思い立ったのだ。
「どれが好きなんだろ……」
一番賑わっていた頃よりは品数も減っているのだと思うが、それでも目移りするほどの種類が目の前に広がっている。流石に手が出せない金額のものは除くとしてもトリュフ、生チョコなど美味しそうなものが盛り沢山だ。自分の分も買いたくなる。
「……ん?」
食い入るようにチョコを見つめていると鞄から振動が伝わってきた。すぐに途切れない所から考えて電話だろうと、私は携帯を取り出して表示されている名前を確認する。テオさんだ。
「もしもし?」
「悪いな、今大丈夫か?」
「はい、平気ですけどどうしたんですか? またぬいぐるみとか」
「いや、今日は違うんだが……ちょっと頼みがあってな」
「頼み?」
テオさんが私に頼みなんて珍しい。それこそぬいぐるみの一件くらいで他に彼が何か私に頼んできたことなどない。
どうしたんだろうと彼の言葉を待っていると、テオさんは少し迷うように沈黙した後にようやく口を開いた。
「あのさ……甘い物って好きか?」
「テオさん!」
「片桐、わざわざ済まないな」
チョコを買うのを一旦止めた私はテオさんとの待ち合わせ場所へと向かった。聞いていた喫茶店に向かうと彼は沢山の荷物と共にぐったりとテーブルに項垂れており、見るからに疲れているのが伝わってくる。
そんな様子でも周りの女性はテオさんが気になるらしくちらちらと視線を送り、そしてその女性とバレンタインデートに来ているらしい相手の男性からは恨みがましい目で見られている。
私はテオさんの正面に座ると、彼は早速とばかりに床に置いていた紙袋を持ち上げた。そして次々とその中から綺麗にラッピングされた箱がテーブルに置かれていく。
テオさんの頼みが何だったのかというと、これらのバレンタインチョコを貰ってほしいということだった。
「全部は無理ですよ」
「分かってる。とにかく少しでも減らしたいんだ」
テーブルに溢れるチョコの数は想像以上で、本当にテオさんはモテるんだなと改めて思った。彫が深い西欧系の整った顔立ちは女子大生に相当受けが良さそうである。
とりあえず三つ手に取った所で「もうちょっと頑張ってくれ!」と頭を下げられ、次いでに更に二つ押し付けられた。
結局五つ受け取ることになったのだが、それでもまだもう一つの紙袋にはたっぷりとチョコの箱は入っている。
「助かった、ありがとう」
「テオさん、チョコそんなに好きじゃないんですか?」
「チョコというか……地球の食材全般が苦手でな」
「え、そうなんですか!?」
私は驚いてつい大声を上げてしまい、我に返って椅子の上で縮こまる。元々テオさんに視線が向いていたものだからそれが私に移ってしまって本当に恥ずかしい。
「……でも、それじゃあ大変じゃないですか?」
「別に食えない訳じゃないし、エネルギー効率がいい物を選んでるからそこまで苦ではないな。そういう意味ではチョコは楽なんだが……ここまで多いと流石に辛い」
テオさん自身もチョコを受け取るつもりはなかったのだが、大学で皆の目の前で差し出され、更に周りから受け取れよと煽られたが為に貰わざるを得なかったのだという。そして一人受け取れば芋蔓式にどんどん襲撃され、結果こんな状態になったということだ。
「機械人って、皆鈴木さんみたいに地球の食事が好きだと思ってました」
「あいつは……まあ、母親似だからなあ」
確かに、おせちをばくばくと口に入れていた姿は完全にシンクロしていた。……そういえば、彼のお父さんは思い返してみればあまり食べていなかったような。お酒は飲んでいたけど。別の種族なのだから、そもそも味覚が合う方が珍しいのだと今更思う。
普段すっかり忘れてしまっているというか意識しないでいたが、鈴木さんもテオさんと同じ機械人なのである。例え味覚が人間に近くても、へらへらした表情が機械に見えなくても、彼は宇宙人だ。
そう思うと余計に気が重くなる。彼が残ろうが帰ろうが、結局問題は山積みなのである。
「どうした、元気ないな」
無意識にため息を吐いていたようだ。駄目だ、最近鈴木さんのことを考えるとすぐこれだ。
ちらりと俯いていた顔を上げてテオさんを見上げる。
「……テオさんも、ですか?」
「何が?」
「もうすぐ、向こうに帰るんですか」
「……そうなるな」
やっぱり。
それで落ち込んでたのか、とテオさんは気遣わしげに目を細めた。
「留学は基本的に一年間、そう定められている」
「そうですか……」
「仕事ならもう少し長く居られるが、特例でもない限り永住することはまず不可能だ。俺達のような一般人に覆せるような簡単な問題じゃない」
ただの海外からの留学とは訳が違う、自分の意志でどうにかできる話ではないのだ。鈴木さんに残ってとお願いして仮にそれに頷かれたとしても、それを決めるのは彼じゃない。
結局、どうにもならないことなら考えるだけ無駄な話。それが現実なのだ。
「ところで、もう太郎にはチョコ渡したのか?」
黙り込んだ私にテオさんは暫しうろうろと視線を彷徨わせた後、少し声を明るくしてそう言った。この人には随分気を遣ってもらっているというか、世話を掛けている気がする。見た目もあるだろう、年上のような……兄がいたらこんな感じなのかなと思ってしまうのだ。
私は話題を変えてくれたテオさんの言葉に乗って返事を返そうとした。
……したのだが、紡ぐ言葉に詰まってすぐに口を閉じる。
「まだ……というか」
「ん? そうなのか。まあ隣だからいつでも渡せるしな」
「そもそも買ってもいなくて」
先ほどまでは義理でもなんでも送ってしまおうと考えていた。だが紙袋に大量にチョコレートを詰めたテオさんを前にして、私はだんだんその気持ちがしぼんで来てしまった。
「鈴木さんもモテるし、私一人渡さなくてもいい気がして来て……」
もし仮に鈴木さんにチョコを買ったとしよう。そして彼に渡そうと部屋を訪れて、そこに大量のチョコレートがあったら、そしてそれに喜んでいる鈴木さんを見たら。そう思うと渡す気も失せてしまう。彼がカロリーの高い食べ物を沢山貰って喜んでいるだけだとしても、私は姿も知らない彼女達に醜く嫉妬してしまうだろうから。
「それに、テオさんだって鈴木さんにおすそ分けしたんじゃないんですか? チョコレートなんていくらもらっても喜びそうだし」
「あのなあ……片桐、お前」
努めて軽い口調で言ったのだが、テオさんは片手を頭にやり眉間に皺を寄せて小さく呻く。そして一つ息を吐くと、彼は至極真剣な表情で真っ直ぐに私の目を見た。
「太郎がチョコレートみたいな脂肪分の高い食べ物が好きなことは、お前に言われなくてもよく知っている。むしろ俺の方がずっと付き合いが長いからな」
「はあ……」
「だからわざわざ片桐に連絡する前に当然あいつにも電話した。むしろ太郎が全部引き取ってくれると思ったからな。……でも、現状チョコレートはここにある」
その理由が分かるか、とテオさんは私に問いかけたものの、考える時間も与えずじれったそうに話を進めた。
「断ったんだ、あいつが」
「え?」
「あの太郎が、タダで貰えるチョコレートを全て拒否した。大学でも一切受け取らなかったと言っていた。たった一つ、それだけ貰えればいいと。あいつは――」
次の瞬間、彼はふっと表情を和らげた。
「お前のチョコを待ってるんだよ」
私はテオさんと分かれると先ほどのデパート――ではなく、近所のスーパーへと駆け込んだ。そして必要な材料を手早く購入すると早足で自宅へと向かう。
テオさんの言葉が何度も何度も脳内を反響する。いつもよりも急いで帰っているので息も弾んでいるのだが、しかし頭の中はその言葉を呼び起こしながらもやけに冷静だった。
鈴木さんが、私のチョコレートを待っている。
わざわざ義理のチョコレートの為に他の物を受け取らないなんて、あのエネルギー欠乏症にはありえない。例えば私が他の物を食べられなくするくらいの腕前だったのなら話は別だが。
つまり、鈴木さんは私のチョコが本命であると予想している可能性が高い。
以前から薄々感じていたのだが、恐らく彼は私の気持ちを知っている。証明は出来ないが何となく確信している。
機械人である鈴木さんは今まで難なく私の変化を感じ取って来た。表情筋、心拍数、体温、それらを感知して非常に的確に感情や体調を指摘する。テオさんだって少し話しただけで私が鈴木さんを好きなことを見抜いたのだ。ずっと顔を合わせている本人が気付かないはずがない。
家に着くとさっさと準備を始める。もう夕方だ、急がなくては。
「深雪さん」
そんな声が聞こえたのはオーブンの電子音とほぼ同時だった。出ない訳にもいかず、私は少し待つように声を掛けて鉄板を取り出してから玄関へと足を向けた。
「鈴木さん、どうしました?」
「夕食、一緒に食べましょう」
この時間ならば恐らくそうだと思ったが、タイミングが悪い。彼は大きな鍋を手に持っており、こちらで食べる気満々である。いつもならば多少散らかっていようとあまり気にせずに通してしまっているので余計に断りづらい。
だって、今私の部屋は甘い匂いで充満しているのだ。おまけに出来上がったお菓子も冷ましているのですぐに見つかってしまう。まだラッピングも何も出来ていないのに。
「……」
「どうしました?」
「何でもないです、どうぞ」
もう、どうにでもなれ。考えるのに疲れて思考を放棄した。
「あ」
鍋を持ってきたということはイコール、キッチンへと持っていくということで。つまり、早々に甘い匂いの根源は見つかった。
「マドレーヌですか」
私が作ったのはチョコレート味のマドレーヌだ。細かいアーモンドも入れてあるのでサクサクとして個人的にお気に入りの一品だ。
しかしそれがバレンタインに贈りたい物かといえば首を横に振る。何度も作ったことがあるので鈴木さんもチョコ味では無いにしろ食べたことがあるし、何より素朴でシンプルなものなのでプレゼントにはちょっと華がない。
しかしそれでもこのレシピを選択したのは、ひとえに時間がなかったからだ。短時間で作れ、かつ失敗しない簡単なものをと選ぶとこれしか思いつかなかった。結局渡す――しかも手作り――のなら、もっと前から準備しておけばよかったと後悔しても当然ながら意味がない。
「鈴木さん」
マドレーヌに視線を送っている彼の意識をこちらに向けさせる。
「テオさんから聞きました。チョコを全部断ったって、本当ですか」
「テオ君に? ……はい、その通りです。テオ君のは勿論、他の人からの物も全てお断りさせていただきました」
淡々と答える鈴木さんをじっと見つめる。嘘ではないんだろう。もし受け取っていれば今頃、夕食の代わりにチョコレートを食べていたのかもしれない。
無意識のうちにほっと安堵のため息を吐く私を見ながら、鈴木さんはよく見なければ気付かないくらい、ほんの少し表情を歪めた気がした。
「……深雪さんは、テオ君と仲が良いんですね」
「え?」
「いえ、何でもありません」
小さな声で呟かれた一言が微かに耳に入って来た。しかし鈴木さんはすぐに取り繕うように否定して鍋を火に掛け始める。
――もしかして。
一瞬そんな言葉が頭に過ぎるが、すぐに打ち消す。今はもっと意識を置かなければならないことがある。
私はコンロの前に立つ鈴木さんのすぐ傍に移動する。一つ、出来立てのマドレーヌを持って。
「鈴木さん。チョコは全て断ったって、そう言いましたよね」
「だからそう言って――」
「受け取って、くれますか」
こちらを振り向いた鈴木さんの前にマドレーヌを差し出す。瞬間、驚くように動きを止めた彼にこちらの緊張も最高潮に達する。
他のチョコは断った癖に、私のは受け取ってくれますかと、そんな傲慢なことを言っている。
テオさんの言葉が後押しになったのは事実だ。けれどそれだけじゃない。
鈴木さんは言った。私に優しくするのには理由があると、言葉にしなければ分からないのかと。
……期待しても、いいんだろうか。
「不格好でおしゃれでも無くて、ラッピングも無いですけど……鈴木さん、貰ってくれませんか」
「……勿論、頂きます」
震えそうになっている手に鈴木さんの手が添えられる。顔を上げれば、いつも以上に柔らかな微笑みを湛えた鈴木さんと目が合った。
涙が出そうになった。