プロローグ その1
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私――片桐深雪は、ごくごく一般的な大学生である。そこそこの大学の文学部という、同じ立場の人間が全国に数えきれないほどいる、とても平凡な人間だ。
ただそんな私にも、一般的という言葉からかけ離れた事項が存在する。いや、正確には私自身のことではないのだが。
「片桐さん、おはようございます」
「鈴木さん、おはようございます」
一人暮らしをしているアパートの入り口で、隣に住んでいる男性と鉢合わせる。
見た人が息を呑むほどの美形、しかし独特なのほほんとした空気によって周囲を和ませる彼は、鈴木さんと言う。
そして何より特筆するべき点はただ一つ。
鈴木さん――私の隣人は、機械人である。
「初めまして、隣に越してきた鈴木と言います。よろしくお願いします」
大学も二年に上がった四月某日、鈴木さんはそう言って朗らかな微笑みを湛えながら丁寧に頭を下げてきた。
艶やかな黒髪に首が痛くなる程の長身、スタイルは良いが鍛えているのか軟な印象を受けることはなく、しかし独特の雰囲気で圧迫感を一切与えない。
一目見て最初に思ったことは「すごいイケメンも居たもんだ」という感嘆だった。
一瞬凝視してしまったのにも気を悪くすることもなく、鈴木さんは「つまらないものですが」と蕎麦まで差し出してくる。
「……えっと、わざわざすみません。片桐です」
「片桐さん、ですね。一年間ですがお世話になります」
こうして、鈴木さんという人間は、初対面から私に非常に好印象を残す人となった。
隣人とはいえここはアパートで、然程これから交流もないだろうな、と軽く考えていた私は、次の日殆ど同時に玄関の扉を開けて対面してしまった事実に驚愕することになる。
更に進行方向まで被ってしまった――最寄の駅なので仕方がないと言えばそうなのだが――ので流れでそのまま一緒に駅まで歩くこととなれば、奇妙な偶然に首を傾げるしかなくなってしまう。
これが嫌な人間だったら最悪なのだが、鈴木さんはこの時点で既に言うまでもなく良い人だった。穏やかな雰囲気をそこら中にまき散らしている彼はとても話しやすい人で、そこまで人付き合いが得意とは言えない私でも楽しく会話することが出来た。
鈴木さんは大学こそ違えど私と同じ二年生で、元々は国外に住んでいたのを一年だけ留学する為に日本に来たのだという。……名前も見た目もどう見ても日本人なのだが、ハーフか何かなのだろうか。
そんな感じで、時々ではあるが通学時間が重なると一緒に駅まで歩くようになる。こんなイケメンと二人で歩くなんて恐れ多いとも思ったりするが、そこは鈴木さんのほやほやとしたオーラで帳消しになり、むしろ癒されてしまう。
そんな鈴木さんをちょっと変わってるな、と思い始めたのは少し経ってからだ。
ある休日、バイトの帰りに玄関の近くで倒れている鈴木さんを発見した時のことだった。
「す、鈴木さん!?」
通り魔にでも襲われたのかと内心戦々恐々としながら彼に掛け寄ったのだが、声を掛けてもぴくりとも動かない。
うつ伏せに倒れた鈴木さんを起こそうとしたのだが、しかし彼は予想以上に重たくてひっくり返すことはおろか、腕一本上げるのがやっとだった。
そうこうしているうちに気が付いたのか、鈴木さんは小さくうめき声を上げながら起き上がり、座り込んだ。
見た所、どこも怪我をしている様子はない。
「あの、大丈夫ですか?」
「片桐さん……」
しかしぐったりとして立ち上がれる様子もない彼に、何か持病でもあるのだろうかと心配になる。
「あの、救急車呼びましょうか?」
「いえ! あ、大丈夫ですから、本当に」
私の言葉を遮るように強くそう言った鈴木さんは、何とか立ち上がろうと足を踏ん張るのだが……根性で立ち上がった彼の足はがくがくと揺れており、見ているこっちが不安になってくる。
「あの、やっぱり病院に」
「本当に、大丈夫ですから!」
こちらを安心させる為か微笑んだ表情にも力はなく、寧ろ余計に無理をしていることが伝わって来てしまった。
どうにも見ていられなくて、結局私の身長では役に立つのか分からないが肩を貸して家の前まで送ることにした。幸いだったのは部屋が一階だったことである。
「重……」
うっかり出た本音を聞いてしまった鈴木さんは申し訳なさそうに体を縮める。先ほどは意識を失っていたから重かったのだと考えていたのだが、どうやら鈴木さんは見た目以上にずっと体重があるらしい。
鈴木さんを部屋に送り届けた次の日、私は彼の様子が気になって――正直、生きているだろうか、失礼なことを考えながら隣の部屋のインターホンを押した。
最近はインターホンを押しても出てこない人が多いのに、鈴木さんは殆ど時間を掛けずに大きく扉を開き「あ、片桐さん!」と予想よりもずっと元気そうに言った。
一人暮らしなのに色々と不用心だなあ。
「あの、昨日大変そうでしたので心配になって……」
「……ああ! もう大丈夫です。ちょっと遠出していて補給できなかっただけですから」
「補給?」
「あ、えーと、ご飯が食べられなかったんです」
空腹であれだけ死にそうだったとは、一体どれだけ長い間食べなかったのだろう。
私が首を傾げていると、鈴木さんは漂う匂いに気付いたのか私が持っている土鍋に目を向けた。
私の手には雑炊の入った一人前用の土鍋がある。心配になって差し入れを用意したのだが、ここまで元気であったら余計なお世話だっただろう。
目を離さない鈴木さんに、私は一応土鍋を差し出してみる。
「これ、雑炊なんですが、よかったら……」
「雑炊?」
「はい。まだ体調が悪かったら食事を用意するのも大変かな、と」
……今更なのだが、よく考えなくても迷惑ではないか?
知り合い以上友人未満の人間から料理を――ご飯を入れるだけのレトルトだとしても、相手は分からない訳であるし――もらうなんて、困惑するに決まっている。しかも彼は顔も良いし、これを機にお近づきになろうと考えていると邪推されてもおかしくない。
私は僅かに彼の方へ差し出した土鍋を引き戻そうとしたのだが、それよりも鈴木さんが受け取る方がやや早かった。
「心配して下さってありがとうございます。ありがたく頂きますね」
ああ、やっぱり迷惑だったか。
いつものほやほやした微笑みの中に困った表情を混ぜた彼は、そう言って私に丁寧に頭を下げてくる。
嘘が吐けない人なんだろうな、と思いながらやっぱり土鍋を引き取ろうとした私を制して、鈴木さんは再度お礼を告げて部屋へ戻っていってしまった。
……やってしまった。よく合う隣人であるし、これで鈴木さんと気まずくなると嫌だなと考え、私はおずおずと自分の部屋に戻ることにした。
しかし、僅か三十分後。インターホンの音と共に「片桐さん!」と彼の声が玄関から聞こえて来て、私は目を白黒させながら慌ててサンダルを履いた。
何かあっただろうか。雑炊の賞味期限が切れていてお腹が痛くなったとか。
悪い想像ばかりが頭を過ぎりつつドアノブを捻ると、そこにはキラキラと目を輝かせた喜色満面の男が立っていた。
「片桐さん!」
「は、はい」
しかも何だかいつもよりもテンションが振り切れている。
「雑炊とっても美味しかったです!」
「え?」
「今まで食べたものの中で一番美味しくて! 本当にありがとうございました! あ、土鍋返しますね」
「はあ……それは、どうも」
綺麗に洗ってある土鍋を受け取りつつ、私は頭の中にクエスチョンマークを大量製造していた。
悪い結果にならなかったことには勿論安堵したのだが、ここまで喜ばれるとは……しかも演技にも見えない。
それも、渡した雑炊は私が味付けをした訳ではないので美味しさについて語られても困る。メーカーを教えたらそのままお礼文を書きそうな勢いである。
鈴木さんが今までどんな食生活を送ってきたのか不安になりつつ、変わった人だなあと熱弁を振う彼を見て思った。
ただの隣人という、私と鈴木さんの関係が崩れたのは、彼の秘密を知ってしまったあの時だった。
課題を終えるのに時間が掛かって随分暗い夜道を帰っていた日、アパートに辿り着く直前、私はいきなり背後から襲われたのだ。
奇声に驚いて振り向くと、そこには長い髪を振り乱した女が出刃包丁をこちらに突き出している所だった。
「死ねっ!」
驚きすぎて声も出なかった。
私は咄嗟に身を屈めしゃがみ込んだが、包丁が腕を掠めて血が流れる。痛いが、それよりも目の前の女が怖すぎて、私は悲鳴を上げながら全力でアパートまで走った。
しかし、「待てえええ!」と体が竦むような女の声が背後から響き、そしてその声はどんどん近づいてくる。
なんで、どうして、私が何をしたって言うんだ!
執拗に私を追いかけて来る女から必死で足を動かして逃げながら、私はひたすら助けを求めて叫んだ。
しかし決して人通りが多いとは言えない場所と時間、更にこの辺りは一人暮らしの人間が多くあまり他人に干渉してくる人はいない。まして包丁を持って半狂乱になった女を止めてくれるような人など果たして居るものか。
「片桐さん!」
居た。
アパートの入り口まで逃げて来ると、私の叫びを聞きつけたのか鈴木さんが血相を変えて部屋から飛び出して来た。しかし彼が私に辿り着くよりも早く、鈴木さんの登場で思わず鈍った足に女が飛び掛かって来たのだ。
「ひいっ」
「死ね死ね死ね! あんたが居る所為で!」
足を掴まれた所為で勢いよく顔面からアスファルトに顔を打ち付ける。そして思わず振り向いた背後に奇声と共に鈍い光を見て、私はこれから起こる光景を直視することを恐れてきつく目を閉じた。
ギギ、と何か金属音のような音が聞こえた。そして予想していた痛みはやって来ない。
女の腕が足から離れたのを感じて恐る恐る目を開けると、そこには鈴木さんが女と対峙している所だった。
私に向かっていた包丁は彼の腕を大きく斬り付けており、言葉にならない悲鳴が出た。
女は鈴木さんを視界に捉えて今度は彼に包丁を振り上げ「やっぱりこの女があなたを誑かしたのね!」と大きく顔を歪ませている。
このままでは鈴木さんが殺されてしまう。それなのに彼は申し訳なさそうにこちらを見た後、酷く冷静に彼女に向き合い、そして。
「止めて下さい、と言いましたよね」
彼は女が持つ包丁を難なく掴み取った。柄ではない、刃の部分をしっかりと握りしめて。
「鈴木さん!」
彼は包丁を奪い取ると未だに暴れる女を取り押さえ「怪我をしている所すみませんが、警察に連絡してもらっていいですか」と淡々と私に告げる。
言われるまで女の恐怖で腕を斬り付けられたことなど忘れていたが、その言葉を聞いてか、はたまた命の危険が去った安心からか、じわじわと痛みがやって来る。
そして私よりも、鈴木さんの方がずっと酷い怪我をしていることにようやく思考が至った。
「殺してやる!」と彼に取り押さえられながらも殺気を振り撒いている女に恐怖を覚えながら、私は鈴木さんに掛け寄り、斬り付けられていた腕と包丁を掴んだ右手を見た。
取り押さえている彼女に気を取られていた鈴木さんは突然傍に来た私に驚き「片桐さん!?」と声を荒げたが、私は構わず彼の腕に触れる。
「え?」
私のように掠めたどころではない、あれだけしっかりと斬られていたはずの腕は、血の一滴も流れてはいなかった。同様に、女を掴む手も。
「……見られて、しまいましたか」
鈴木さんのため息混じりの言葉が聞こえる。
大きく斬られた彼の腕はその皮膚をしっかりと切断され、更にべろんとその皮膚が捲れたことに私は小さく悲鳴を上げた。捲れた皮膚の奥は、真っ黒な鈍い輝きを放つ、決して人間にはないものがあった。
金属である。
「私は、人間ではありません」
騒ぎが収まったと分かったのか何人かの野次馬がやって来るのを視界に入れながら、鈴木さんは小さな声でそう言った。