秋の女王
シラユリリー号は目立つ芦毛に愛らしい顔立ちをしている。
彼女は、今年の桜花賞を制し、優駿牝馬オークスは最有力と言われていたけれど、オーナーの意向で牝馬でありながら日本ダービーに挑戦した期待の三歳馬だ。
残念ながら日本ダービーを制すことにはならなかったけれど、結果は皐月賞馬との接戦の末の二着でそんなに悪いものではなく、秋の秋華賞はもちろん、エリザベス女王杯でも古牝馬に勝てるだろうと当然期待されていた。ともすれば、エリザベス女王杯ではなくジャパンCに出るのではないかってくらい。
ともかくシラユリリーはとても人気があって、同世代の牝馬なんて置いてきぼりなくらい、どのスポーツ新聞の競馬記事でも取り上げられるスターホースなのだ。
正直、面白くない。私は不服だった。
私の名前はルビーリリウム号。今年の優駿牝馬オークスを制した三歳馬だ。シラユリリーと対照的な青毛が自慢なのだけれど、芦毛ほどのアイドル性はないってことは承知している。
そういうことじゃないんだ。
私が怒っているのは、迫り来る秋華賞での期待度のことだ。間違いなく人気はシラユリリーの方が高いだろうなんて当然のように言われているのだから。
確かに皐月賞馬相手に二着は凄いかもしれない。最後は二頭の争いだったわけだし。でも、私は桜花賞には出られなくて、フローラステークスをステップにオークスを制し、さらに休み明けはローズステークスも危なげなく勝ってここまで駒を進めたのだ。
ダービー二着とはいえ休み明けぶっつけのシラユリリーと比べても、もっと評価されてもいいのではないか。
でもまあ、世間の評価というものは単純でもない事は知っている。競走馬には大事なお家柄……つまり血統でも私とシラユリリーでは差があるのだ。
私の母は異国からの輸入馬で、日本での知名度はとても低い。対してシラユリリーのお母様は日本でもお馴染みの牝系出身で、ファンの多かったとある名牝。その娘というだけでも当然ファンはつく。
さらに言えば、父親にだって差がある。
私の父は主流からやや外れた父系出身の、八大競走でもないG1を二つ勝っただけのマイナーな種牡馬。対してシラユリリーは、文句なしの主流父系を継いだ三冠馬の娘。競馬をさほど知らない人でも名前くらいは聞いた事のある、とても有名なお父様だ。
情報を並べれば並べるほど、シラユリリーに人気が集まるのは当然のことなのだ。
もちろん、だからって、いつまでもうじうじしていたいわけじゃない。文句を言っているだけじゃ駄目なのだ。実力でシラユリリーを打ち破り、私、ルビーリリウムこそが今年の三歳牝馬の頂点であると日本全国の競馬ファンにアピールしなくては気が済まない。
秋華賞の近づく中、私は日に日にその闘志を燃やし続け、トレーニングに励んだ。
実を言えば、シラユリリーと私は脚質も全くの逆だ。シラユリリーは生粋の逃げ馬。最初から最後までハナを譲らず、そのままゴール板を目指すという逃げ馬ファンに火をつける根性娘。対して私は生粋の追い込み馬。最後の最後まで足をため、瞬発力を頼りに直線で一気に抜き去る末脚戦法だけで勝ってきた。
逃げ馬ファンがいるなら、追い込み馬にだってファンはいる。だから、もうちょっと私にも注目してくれたっていいのに、なんでもう競馬ファンの皆はシラユリリーばっかり持ち上げるのかしら。
特に女性ファン。芦毛ってだけでシラユリリーを応援するなんてヒドイ。
でも、そんな状況でもあえて私を推してくれる人はいるわけで、彼らのエールが耳に届く度に、私は闘志を燃やしてきた。
そして秋華賞当日、秋晴れの京都競馬場のパドックで私の名前が書いてある横断幕が見えたときは、思わず入れ込んでしまうところだった。危ない。
鞍上は若手のホープと名高いお兄ちゃん。シラユリリーの方は彼女のお母様とも組んだベテラン騎手だから、やっぱり馬券を買う層からも、あちらの方が期待されている。
でも、私達だって負けられない。私の相棒であるこのお兄ちゃんだって調子がいいんだから。
そして本馬場入場。まるで誘導馬のように、シラユリリーは優雅に入場していく。返し馬もごく軽めでレースに集中する気満々ってところだろうか。私の方はというと、ちょっとシラユリリーを気にし過ぎだってお兄ちゃんにお小言をもらってしまった。
それにしても人が多い。
オークスの方が凄かったかもしれないけれど、それでもG1レースの人の多さは怖くなってしまう。それに、シラユリリーを観にきたファンも多いのだろう。でも、怯えていてはいけない。このレースが終わったら、泣いても笑っても、古馬との戦いが待っているのだから。
どうやらファンファーレが鳴っているらしい。ゲートインまでの緊張と、はやく走りたいという想いが私の鼓動を高めている。
そして、ゲートは開いた。
大方の予想通り、ハナにたつのは芦毛の馬体。鹿毛や栗毛ばかりのこのメンバーならば見間違えもしない。あれこそシラユリリー。やっぱり彼女がレースを引っ張った。
それを追って私と同世代の乙女たちが各々のペースで走っている。シラユリリーや私ほど注目されていない娘ばかりかもしれないけれど、私と同じG1の舞台に立てているのだから油断ならない。
それに、彼女達の動きは重要だ。最後に追い込む時に彼女達が壁になったら大変だからだ。大外一気という手もあるけれど、それだけで勝たせてくれるほど競馬もシラユリリーも甘くないだろう。
このレースは2000メートル。オークスと違って400メートルも短い。追い込むのならば、レース全体の動きは一瞬たりとも見逃せない。
さあ、そろそろ第三コーナー。早くも動きが生まれてくる。
シラユリリーは相変わらず先頭。このまま押し切っていくつもりだろう。彼女だってスタミナ切れになるわけがない。先頭集団の一部が早くもシラユリリーに追いつこうと動き出した。それに釣られるように、他の子達も動き出す。
けれど、私はついて行かなかった。お兄ちゃんも指示をまだ出さない。
私は信頼している。デビューこそ違ったけれど、フローラステークスからこっち、私はずっとこのお兄ちゃんと一緒に戦ってきたのだから。
そして、第四コーナーに差し掛かる直前、鞭は入った。
今だ。
全神経を集中させて、燃え上がる炎のように、全身に力を込める。
目指すは未だ先頭のシラユリリー。誰も追いつけていない。早くも上がっていった子達の方がスタミナを切らしている。その一方、シラユリリーはさらに突き離していく。
これがスターホース。まさにその姿は天使。桜の女王となった頃よりも更に白みを増した身体が、他馬をぶっちぎってゴール板を目指している。まるで白い風そのものになったよう。
ならば私は黒い風だ。悪魔と呼ばれたっていい。あの天使を捕えられるなら。
他馬を一気に抜き去り、シラユリリーだけに狙いを定める。
あのゴール板に先に辿り着くのは私。これまでの悔しさをばねに私は走り続けた。力を振り絞り、荒波のように天使を追いかける。
もう少し。もう少しだ。
そして馬体を合わせた時、シラユリリーの目がちらりと私の姿を捕えた。彼女は彼女で一杯一杯のはずだ。そうでなければ生き物じゃない。けれど、それでも彼女もまた根性だけを頼りに弱みを見せたりしなかった。
残り200メートル。
その数秒が、私にはとても長かった。ゴール板に先に届くのは、私の鼻か、シラユリリーの鼻か。そのくらいの差で、私達はこの200メートルを走り抜いた。その終わりの本当に一瞬。ほぼ同時に私達がゴール板に駆けこむ瞬間の気付きを、私は見逃さなかった。
きわどい勝負だった。
全馬がゴールした後も、電光掲示板の一着二着は写真判定のまま。その成り行きを見つめていると、ふとシラユリリーが疲れを隠すような笑みと共に私に話しかけてきた。
「凄かったわ……さすが、オークス馬ね……」
震えるような声には、まだ興奮が宿っている。その愛らしい顔を振り返り、私もまた小さく答えた。
「あなたこそ、さすがだった。スターホースのあなたと共に戦えた事、光栄に思う」
「光栄……か……」
シラユリリーはそっと両耳を伏せると、あっさりと私に背を向け、深い溜め息と共にこう言った。
「そうね。そう言ってもらえて嬉しいわね」
そして、そよ風にタテガミをなびかせ、凛とした後姿を見せながら、シラユリリーは透き通るような美しい声で宣言したのだ。
「ルビーリリウム。私もあなたと戦えた事を光栄に思うわ」
ちらりと振り返り、円らな瞳で私を見つめる。
「次のエリザベス女王杯で会いましょう。その時はきっと、あなたを打ち破るわ」
そして、彼女が立ち去った時、勝敗は確定したのだった。
秋華賞馬。秋の女王。その称号と歓声を味わいながら、私は白き好敵手シラユリリーの事を思った。
――打ち破る……か。
彼女は敢えて言わなかったのだろうけれど、私は気付いていた。
ゴール板を通り過ぎる直前、シラユリリーが落鉄しかかっていた事を。蹄鉄が外れかかっても言いわけにしなかった彼女を思うと、勝利の歓声を受けていても何だか苦い想いが込み上げる。
そう、本当の意味での勝負付けはまだ済んでいないのだ。
打ち破るのは私の方。来月のエリザベス女王杯で、今度こそ私はあの天使を捕えてみせる。
強い決意と共に、私はターフの感触と風の匂いを味わった。秋晴れの下のやや涼しげな空気が、汗をかいた肌に妙に優しく沁み込んできていた。