サンタクロースは海からやってくる
目を覚ますと、一時間十分寝過ごしていた。
バネ仕掛けの人形のように飛び起きたが、今更ジタバタしても仕方がないことに気づいた。もう一度ベッドへ倒れこんだと同時に、電話が鳴った。
「何してるんスか、コータローさん! 凄え、良い波入ってますよ!」
こちらが何か言う前から、若い後輩のカツヒコが叫んだ。既に興奮状態らしい。昨日の落ち込みようが嘘のようだ。
キリストの誕生日が翌日だということも、おそらく理解していないだろうカップルたちで溢れかえる街全体が、聖なる夜は性なる夜であるかのごとく勘違いしている。そんな中で、この日ばかりはちょっと高級な店に客が流れ、妙に閑散とした居酒屋で、サーフィンに没頭するあまり半分身持ちを崩したカツヒコ、トオル、ハルオの三人が自棄酒を飲むのに付き合ったのだ。
彼らは、常に海の傍にいる。定職にも就かず、生活できるぎりぎりの収入で満足し、人生の全てをサーフィン一色に塗り込めている。狭いアパートを三人でシェアし、良い波が来れば全てを放り出して海に突進する。こんな生活を送っていれば、ガール・フレンドが出来なくても不思議ではない。彼らはそれを嘆くが、染み付いてしまった今の生活を改める気もないのだ。
浮世離れして、常に自由でいることの居心地のよさと漠然とした不安感は、そんな生活に僅か数年でドロップアウトしてしまった私には、わかり過ぎるくらいにわかる。
「メリーXmasだと? メリー・セックスマスの間違いじゃねぇのか?」
酔ってわけの分からないことを叫んでいた昨夜の彼らを思い出して、私は思わずニヤリとした。
「聞いてるんスか? コータローさん! 歳だからな、二日酔いになっちまってるんスか?」
「聞こえてる。行くよ」
「待ってますよ! さすがに今日は誰もいません。貸し切りッス!」
「わかった……」
続けて職場へ欠勤の連絡を入れる。
「どうも風邪を引いたようで……」
私が会社をサボるときの常套句を口にした。電話を受けた部下が含み笑いと共に
「お大事に……。ホントに風引かないでくださいよ」
と低い声で付け加えた。苦笑しつつ電話を切る。
再度勢い良く起き上がると、裸の上半身が冷気に触れて、一瞬のうちに鳥肌立った。二日酔いの兆候はない。素早くトレーナーを着ると、冷蔵庫の中に放り込んであったジャガイモを十個ばかりアルミ・フォイルで包んだ。牛乳をコップ一杯飲むと、防水袋にウェット・スーツ、ビーチタオルを詰め込み、紙袋にジャガイモを放り込んだ。荷物とボードを抱えて駐車場まで歩いた。
ビーチの駐車場には、車は一台も止まっていなかった。素早く着ているものを脱いで、ウエット・スーツに着替える。寒い。屋根から下ろしたボードケースから引っ張り出す。ジャガイモの入った紙袋と裸のボードを抱えて、海へ向かった。
確かに波は、オフショアの風できれいにシェイプさた腰から胸サイズが入っている。セットが入ったときには、頭サイズまでアップしていた。沖にカツヒコたちが揃って波待ちしている。他にサーファーの姿はない。
逸る心を抑えつつ、先ずは砂に穴を掘って、枯草や流木を集めた。ライターで枯草に火をつけて、その上に流木を乗せると、あっという間に盛大な炎を吹き上げ始めた。はじめの流木が熾き火になるまで、私はストレッチをしていた。熾き火になったところでジャガイモを放り込んだ。さらにその上に枯草と 大量の流木を積んだ。海から上がってくる頃には、丁度食べごろになっているだろう。
波待ちしていた三人が、私に気づいて一斉に手を振る。それに応えて手を振っていると、五本ほどのまとまったセットがやってきた。まるで打合せしていたかのように、三人が順番に、そして鮮やかに波を捕まえてテイクオフしてくる。適度に遊びながら、あっという間に波打ち際までやってくると、さらにスープに乗って岸へ戻ってくる。
「何スか? その真っ赤なスーツは?!」
トオルが素っ頓狂な声をあげた。
確かに私の赤いスーツは、真っ黒なウェット・スーツに囲まれると、異様な雰囲気ではある。四十歳に手が届いた私が着ているのだ。今時、若い女の子でも着ないだろう。
「クリスマス・スペッシャルだ。サンタクロース仕様だよ」
「クリスマス? それは昨日終わったじゃないスか!」
「バカだな、トオルは。キリストの誕生日は今日なんだよ。昨日は前夜祭なんだ」
「お前は貧乏なだけじゃなくて、バカだから女にモテないんだよ」
ハルオとカツヒコにからかわれても、トオルはにこにこと笑っているだけだ。
「それにしてもコータローさん、サンタクロースッスかぁ? サンタの波乗りなんて聞いたことないッスよ」
「バカだなお前ら。サンタクルーズじゃ、サンタクロースはボードに乗って海から来るんだぞ」
「ええ、そうなんスか?」
「ふうん……」
こいつらといるときには、つい茶目っ気を出してしまうのだが……。
「おいおい、お前ら。感心してるなよ。駄洒落なんだから。ツッコミ入れるとか笑うとかしろよ!」
「何だ。物知りだと思って感心してたのに」
彼らは時々、本当にバカなのではないのか、と疑いたくなるときがある。サーフィンを取ったら、何も残らないような人生を歩んでいるのだ。その分、多少子供じみてはいるが、私が遥か昔に失ってしまったり捻じ曲げてしまった純粋さや夢を、彼らはそのままの形で持ちつづけている。
私は寝不足の身体と重く長いクラッシクタイプのロングボードのテイルを引きずりながら海へ入った。波が大きいときは、セットの間隔をうまく利用して沖に出ないと、恐ろしく体力を消耗する。セットの波を何度も食らうからだ。一度入れば最低でも二時間はサーフするから、要領よくやらないと、最後には波を捕まえられなくなってしまう。
これだけ大きなうねりが入ると、波待ちもダイナミックになってくる。うねりをやり過ごすたびに一メートル以上、身体が上下する。 大きなうねりが入ってきた。素早くボードを岸に向け、パドリングする。うねりのスピードは大きさに比例するから、ボードのスピードを波に合わせるのは重労働だ。波に持ち上げられ、ボードが滑り出した途端に立ち上がる。波が作り出す急斜面を斜めに滑り降り、斜面の底で急激にターンする。
斜面と向き合うように進みながら、ボードのレールを斜面に食い込ませると、ボードは波の頂上までフワリと持ち上げられる。持ち上げられながらボードの先端までクロス・ステップを踏んで歩いていく。私の体重を受けてボードの上昇は止まる。
ボードは先端に私を乗せたまま、斜め下へ向かって下っていく、ダウン・ザ・ラインでロケットのように突っ走っていく。波が巻き上がる力と見事に釣り合い、斜面の一点に固定されたような感じだ。冷たい風が顔を打つ。
波のショルダー越しに振り返ると、次の波でハルオが激しいアクションを付けながら斜面を上下しているのが見えた。
仲間同士でつるんでいても、所詮海の上では一人なのだ。もちろん常に周囲に注意を払って、仲間がピンチになれば寄って集って助けることは言うまでもない。しかし、波と対話するとき、自分以外の他者が介在する余地はないのだ。
何度か波に乗っては沖へ帰るということを繰り返していると、肩や背中の筋肉が強張ってくる。波待ちしているときに、何故俺はこんなことをしているのか……という疑問がふと湧いてくる。何度乗っても、同じ形の波も同じライディングも二度と出来ない。つまりはどれだけ波に乗っても飽きないのだ。身体一つでできる遊びで、これほど奥が深いものはないだろう。
昼近くまで乗り続けていると、さすがに空腹感が耐えられないものになってきた。一度上がることにした。焚き火は、殆ど消えかけていた。灰と砂の中からジャガイモを掘り出す。それから三度枯草と流木を積んで盛大な焚き火にする。水の中にいるときは良いのだが、一度出てしまうと、冷たい空気と風のために体温はみるみるうちに下がってしまうのだ。
身体の中から暖めるために、フォイルを剥いてジャガイモを食べる。皮の部分は黒焦げになっているが、一皮剥けば中はホクホクだ。塩と胡椒を振って食べる。熱い塊が胃へ落ちていくと、瞬間的に身体が暖まる。若者たちが波に乗る姿を見ながら、瞬く間に三つのジャガイモを平らげた。
タバコを吸いながら、しばらく海と若者たちのサーフを眺めた。
普通の社員から比べればかなり休みがちで、良い波が来れば仕事も家庭もすべて放り出してしまう。こんな生活を二十年近く送っていれば、あっという間に家庭崩壊……という図式が見えてくる。崖っぷちのぎりぎりのところで踏みとどまっている、と思っているのだが、本当は私もカツヒコたちと同じなのかもしれない。自分が思うとおりに生きてきた。
「やっぱり、ここか……」
防波堤の上から降ってきた声に、我に帰った。
「会社に電話しちゃったわよ。海に出るなら連絡してくれない?」
自転車用キャリアにボードを括りつけた妻が、仁王立ちになって見下ろしていた。黒とグレーのツートンのウェット・スーツ姿だった。どうやらこの格好で、三十分近くも自転車を漕いできたらしい。このあたりでも有名なサーファー・オバサンの面目躍如といったところだ。彼女は、ドサリとリュックサックを放り出すと、ボードを抱えたまま身軽に防波堤を飛び降りてきた。
「カツヒコくんから電話があったんでしょ? 彼、わたしのところにも電話してきたのよ。それであなたのところに電話したのよ。そうしたら、今日はお休みになられてます、でしょ。赤っ恥よ」
妻は機関銃のようにしゃべりながらストレッチに余念がない。
「……で、何て言って帰ってきたんだい? 仕事の方は大丈夫なのか?」
「生理休暇よ。女の特権ね」
「あれ? 生理だったけか。まぁ、初日でなければタンポン突っ込んで海に入っちゃう笑子さんだからな」
「バカねえ、あなたと一緒よ。仮病です。生理は先週終わりました。あなた、エッチができるって喜んでたじゃない」
若者たちがわらわらと海から駆け戻ってきた。やっぱり来たんですね、来ると思った、さすが……と口々に声をかけられ、妻は嬉しそうに微笑んでいる。
私は彼らと入れ替わりに、再び海に入った。焚き火に当たっているのも良いが、多少寒いのを除けばやはり海の中のほうが気持ちが良い。直ぐ近くで鰡が跳ねた。少し向こうでは、鱸に追われた小魚が水面近くで大量に跳ねている。波は高いが、海はいつもと変わらぬ営みを続けている。
しばらくするとカツヒコたちも海に入ってきた。妻のライディングは、軽やかで流麗だ。
何度目かの波待ちのとき、カツヒコが隣に並んだ。
「さっきコータローさんが乗っているの見てたら、サンタクロースが波に乗ってくるっていうの、ホントかもしれないと思えてきましたよ」
「サンタクルーズは冗談だけどな。オーストラリアやブラジルは今は夏だから、本当にサンタクロースは海からやってくるのさ」
「やっぱり、そうなんスか! 何か嬉しいッスね。オレもそのうちハワイかバリでサンタクロースになりたいッスよ」
「今日の波なんか、貧乏で彼女もいないお前たちへのクリスマス・プレゼントかもしれないぞ」
夕方まで波に乗り、カツヒコたちの家でシャワーを借り、そのまま酒盛りとなった。妻も加わり、昨日以上に酒を飲んだ。家に帰り着いたときには、寝不足も加わってかなり疲れていた。一息入れて、リヴィングのソファでぼんやりしていると、妻がバーボンを片手にやってきた。
飲みながら他愛もない話しをしていると、自分は幸せなのだと気づく。これだけ適当に生きている私に、呆れながらも妻は付き合ってくれる。というよりは彼女の生き方と、私の生き方が合致した結果が、今の我々の生活なのだ。お互いが思うとおりに生きて、それでも離れることなく 我々は常に寄り添っている。
幸せで満ち足りた気分と、激しい運動の疲れは、アルコールの作用によって心地よい睡魔となる。明日は寝過ごさずに起きられるだろうか? そんなことを考えながら、私は眠りに就くのであった。