後篇
軽くですけど、そういう表現が入ります。
閲覧の際は注意してください。
若菜に絢乃伯母さんを重ね合わせるようになったのは、多分……この思いを隠さなければならないと、決心したその瞬間から。
年頃になった若菜は、だんだんと絢乃伯母さんにそっくりになってきた。その見た目も、声も、ふとした仕草でさえも。
そんな彼女に絢乃伯母さんの面影を見るようになったのは、俺にとって必然だったのかもしれない。
あるいは、一種の現実逃避だったのか……。
だって、若菜となら――従妹である若菜をそういう目で見ることならば許されるし、合法的に祝福を受けることもできる。
だから俺は、若菜を好きになろうとした。若菜のことを守ろうと、誰よりも若菜を一途に想い続けようと、努めた。
でも若菜は、気づいていたんだろうね。俺が優しくする理由に。俺が誰よりも若菜を慈しむようになった、その根本にある感情の正体に。
いつもは鈍いくせに……そういう知られたくないところにだけはやたらと敏感なんだから、若菜ってずるいよ。
本当に……ずるい奴。
あれは、母さんの病気が発覚する少し前のことだから……確か、若菜が高校に入って半年後ぐらいのことだったかな。
たまたま部屋で二人きりになったときに、俺は言ったんだ。そろそろ俺たちも年頃だから、付き合わないか、って。
そしたら若菜は突然、あの暗い、空っぽな目で俺を見た。それから淡々とした低い声で、普段なら使わない標準語で言ったんだ。
『違うでしょう、悟? あなたが本当にそれを言いたいのは、私に対してじゃない』
他に、その感情を向けている相手がいるはず。そうでしょう?
何もかも見透かしたようなその目が、怖かった。その声も、口調も……何よりもその見た目も、全部が怖かった。
あまりに、絢乃伯母さんにそっくりだったから。
絢乃伯母さんが、俺を真っ向から問い詰めているような気がして。俺を拒絶し、責め立てているような気がしたから。
俺は耐えきれなくなって、衝動的に若菜を布団の上に押し倒した。その身体は存外あっさりとバランスを崩して、俺の下に組み敷かれた。
けど、さすがに予想外だったみたいで……若菜は大きく目を見開いて、混乱したような表情で俺を見た。
『さ、とる……?』
掠れた声で俺を呼ぶ若菜は、殊更絢乃伯母さんに似ていた。俺はただ本能のままに、その唇を荒々しく塞いだ。
『ん……ふっ』
重なった唇同士の隙間から洩れる、若菜の吐息にも似た声が、なおさら俺の行動に拍車をかけた。あんまり覚えてはいないけれど……もしかしたらその時、若菜の口内に舌を入れていたかもしれない。
それからどれくらい時間が経ったか分からなかったけど、息ができなくて苦しくなったのであろう若菜に、必死な様子で胸をどんどん、と叩かれて、それでようやく唇を離した。唾液の糸が互いの唇を繋いで、それが今までの行為の生々しさを物語っている気がした。
それからも、俺の行動は治まるどころかエスカレートして……涙目でこちらを見ている若菜になど構うことなく、今度はその白い首筋に顔を埋めた。耳元で、若菜が小さく呻く声が聞こえた。
服の下に手を差し入れようとしたところで、若菜が叫んだ。
『悟っ、やめて!! 私は、絢乃じゃない!!』
その声にようやく我に返った俺は、とっさに若菜の身体から離れた。
起き上がった若菜は、泣きながら俺の頬をひっぱたいた。ジンジンと痛む頬を手で押さえながら、俺はしばらく茫然とした。
『っ……ごめん』
謝ったって後の祭りだ。あそこで正気に返らなかったら、俺は若菜を本当に無理やり抱いていたかもしれないんだから。
若菜は何度も首を横に振りながら、どうしていいのかもわかっていない様子でずっと泣きじゃくっていた。
俺はそんな若菜を、ただ座り込んだまま呆然と見つめていることしかできなかった。
もう、駄目だって思った。
若菜は一生俺を許さないだろうし、次にまた会ったところで、存在を無視し続けることだろう。確かに俺は、それだけのことをしたんだから。
けれど予想に反して、その次……半年後くらいに顔を合わせた若菜は、拍子抜けするくらいにそれまで通りだった。
次に俺たちが二人きりになる機会を作ったのは、若菜の方だった。
あの部屋で――半年前に俺が若菜を押し倒したのと同じ部屋で、俺は若菜に言った。あんなにひどいことをしたのに、俺を許したのか、と。
若菜は俺から背を向けてうつむくと、フッ、と小さく笑った。
『許したわけと違うよ。……ただな、悟。世の中には、報われへん想いっちゅーのもある。確かにそれはあかんことかもしれん。けどそれを抱くだけやったら、それは私らの勝手やろ?』
核心をついた一言に、俺は固まった。何も答えることができずにいると、俺から背を向けたままで、若菜はさらに続けた。
『アンタには、一生報われへん想いを抱いてる相手がおる。それは……私も、同じや』
『同じ……?』
尋ねると、若菜はこくりとうなずいた。それからこちらに振り返ったかと思うと、不敵な笑みを浮かべて言った。
『……なぁ、悟。私と、契約しようか』
アンタにも、私にも、好きな人がおる。それは絶対に手に入らん相手で、一生報われることが許されんし、知られてもあかん秘密や。
『これから私らで、秘密を共有しようやないか』
俺が絢乃伯母さんに対して抱いているこの感情と同じものを、若菜もまた別の人に対して抱いている。
互いに、その重大な秘密を共有し合う。それはつまり……。
『共犯、か』
『簡単に言ったらそういうこっちゃな』
若菜が高校生らしからぬ、悪徳めいた笑みを浮かべる。
『あの時のことは、それでチャラにしたるわ』
そんなに簡単に、割り切れるものではないと分かっていた。あの時のことは、若菜に大きなショックを与えているはずだ。
きっと、若菜は一生、俺を許さない……。
彼女と『契約』を交わすことは、きっと俺にとっての、せめてもの償いという意味があるのだろう。
そう思った俺は、若菜の提案に乗るべく、小さくうなずいた。
その瞬間から、俺と若菜の普通じゃない関係――互いに知られてはならない、秘密を共有し合う共犯関係と……同時に俺の若菜に対する、一生をかけた償いが始まった。
◆◆◆
「――なぁ、凛? 俺は、最低な人間だろう。若菜を傷つけておいて、まだこの許されない想いを抱き続けているなんて。おかしいだろう? 軽蔑、するだろう?」
自嘲気味に、次々と言葉を吐きだしていく兄に、わたしは何も言うことができずにいた。
何も、知らなかった。兄と若菜ちゃんの間にあった出来事も、そのせいで兄がずっと苦しんできたことも、何もかも。
わたしはただ、悔しかった。
「――……っ」
気づけばまた、唇を強く噛んでいた。流れ込んできた鉄の味が、かすかに舌の上へと伝わる。
兄はすがるように、わたしの肩に額を押し付け、震えていた。もしかしたら今彼は、泣いているのかもしれない。
何を言っても、気休めにすらならないことは分かっている。それでも何か言わなければと口を開きかけた時、わたしはふと思い出したことがあった。
『私は――……』
別れ際に若菜ちゃんが残した言葉は、このことを指していたのだ、とわたしは悟った。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
小さな声で、語りかけるように呟く。
「実はね。お兄ちゃんがここに来るまで、若菜ちゃんと電話で話していたの。わたしがお兄ちゃんの抱える秘密に気付いてしまったのは、そのせい」
「……」
「言っておくけれど、若菜ちゃんが直接言ったんじゃないよ。間接的なヒントから、わたしは気付いただけ」
「……」
兄はさっきからずっと黙っている。それでもわたしは、話すことを止めなかった。
「それでね、電話を切るとき……お兄ちゃんに伝えておいてほしいことがある、って若菜ちゃんが言ったの」
「伝えて……欲しいこと?」
熱にうなされたような、掠れた声が耳元で聞こえた。兄がのろのろと顔を上げたのが、気配で分かった。
「うん」
「なんて……?」
今の兄は、わたしが今まで知らなかった……すがる物をなくした子供のような、弱々しげな様子だった。
兄の腕に乗せたままだった手に力を込め、わたしは穏やかにゆっくりと目を閉じた。そうして若菜ちゃんが先ほど電話口で告げたのと同じように、トーンを落とした真剣な声で、彼女がわたしに告げたセリフをなぞった。
若菜ちゃんが兄に伝えたかった、たった一つの本心が、わたしを通して伝わってくれればいい……と、そう心から念じながら。
「私は、アンタのことを恨んでなんていない……」
「――……っ」
兄が息を呑むのがわかった。まるで混乱しているかのように、その呼吸が徐々に乱れていく。
舌がもつれそうになりながら、兄は絞り出すように問うてきた。
「……本当に、若菜がそう、言ったのか……?」
「信じられないなら、直接電話をかけてみればいいよ」
テーブルの上に放置されている携帯電話に目をやりながら、わたしはサラッと答えた。
わたしを抱きしめる腕を強め、兄は首を横に振った。髪が耳や首筋にかすって、くすぐったくて思わず身をよじる。
その様子が可笑しかったのか、兄はクスッ、と小さく笑った。
「……いや、お前がそう言うんならそうなんだろう。お前は僕に、嘘をついたことなんてないからね」
一人称が『僕』に戻っている。どうやら、先ほどより幾分か落ち着いてきたようだ。
何だか空気が和らいだような気がして、わたしはフフッと笑った。
「当然でしょ」
「そうか」
兄も安心したのか、また少し笑った。それからずっと抱きしめていたわたしの身体を、ようやく離す。ずいぶん長いことそうしていたせいか、背中が急激に冷えていくのを感じた。
わたしの方に改めて向き直ると、わたしの唇に滲んだ血に気付いたらしく、兄は目をぱちくりとさせた。来るときにその辺で貰ったのであろうポケットティッシュを取り出し、中から一枚取ってわたしの唇に当てる。
「だから唇を噛むのはよせと言ったのに」
苦笑混じりにたしなめられて、わたしは唇を尖らせた。
「仕方ないじゃん、無意識なんだから」
フッ、と笑って、兄はいつものようにわたしの頭を撫でた。
いつもの光景に戻ったような気がして、わたしは内心ほっとした。
「……そういえば、お湯沸かしてたんじゃないのか」
「あっ、忘れてた!」
慌てて台所へと向かうわたしを、兄は黙って見送ってくれた。
兄の中に燻る想いが、これで消えたわけではもちろんないだろう。それは兄や若菜ちゃんの言った通り、そう簡単に割り切れるようなものではないし、捨てられるようなものでもない。
けれど……今こうしてわたしに全てをぶちまけ、ずっと罪悪感を抱いていた若菜ちゃんに(間接的ながらも)許しの言葉をもらったことで、少しでも彼の心が楽になっていればいいと……抱えてきた重荷を、少しでも下ろすことができていれば、と思う。
それはもしかしたら、甘い考えなのかもしれないけれど。
ひと時でも、兄の心が安らげばいい……そう思いながら、わたしはもう一度紅茶を淹れるため、水を入れ替えたポットのスイッチを入れた。