中篇
「珍しいね。今日はあんまり、反応が良くなかった」
部屋へ上げるや否や、兄の悟は小さく笑いながらそう言った。
「……ごめんね、ちょっと寝てたんだ」
淡々と答えながらテーブルに着くように促すと、珈琲と紅茶とどっちがいい? と尋ねる。兄は少し考える仕草をして、こう答えた。
「じゃあ、紅茶をもらおうかな」
「わかった」
台所で二人分のカップ、そしてインスタントの紅茶を準備すると、お湯を沸かすためポットのスイッチを入れた。
あんな電話をしていた直後のことだ。正直言って、わたしは兄に対してどう接していいのかわからないままだった。それでも、何も知らない兄にそんな混乱やショックを察してもらっては困ると思い、先ほどから平静を装おうと努めている。
けれど生憎、わたしはあまり演技の上手い方ではないし……それに、察しのいい兄のことだ。こんなことをしたところで、大して効果などないだろう。
ポットのお湯が沸くのを待つために兄のいるテーブルへ足を運び、座っている兄から少し離れた場所で腰を下ろす。何も言えずにうつむいていると、兄が近寄ってくる気配がした。逃れる間もなくその腕を掴まれ、下から顔を覗き込まれる。
「どうしたんだ凛。何かさっきから、様子がおかしいよ?」
ほら、やっぱり。
もっとうまく、演技ができる人間だったらよかったのに。
……いや、そうじゃない。仮にどれだけ完璧に感情を隠すことができたところで、わたしが兄に盾突くことなど、結局できはしないのだ。
心配そうな表情で目を見つめてくる兄から、わたしは視線をそらし、そっと唇を噛んだ。
兄がますます眉を下げて、わたしを見る。
「若菜にも注意されたろう? そんなことしてると、また血が出るよ」
「どうして、知っているの」
「若菜から聞いたんだ」
ふっ、とわたしは小さく息を吐いた。
「……別に、何でもないよ。何でもないから、放っておいて」
「放っておけるわけないだろ。大事な妹なんだから」
大事な、妹……か。
「だったらどうして、今までわたしに何も話してくれなかったの」
思わず口をついて出た言葉に、兄が困惑したような表情を向ける。
「……え?」
「わたしはっ……」
至近距離にあった兄の顔から逃れるように、わたしは座ったままの状態でくるりと背を向けた。
「わたしは……そりゃあ若菜ちゃんより年下だし、とんちんかんだし、しっかりしてないかもしれない。けれど……お兄ちゃんから何も言わない限り、わたしがずっと気づかないままでいるとでも思っていたの?」
一度口をついて出た言葉は、止めることができない。それこそ湧いて流れ続ける泉のように、胸に溜まった感情が口からどんどんあふれ出ていくのがわかる。
背中を向けてしまったから、兄の表情は分からない。けれど大体は予測ができる。きっと先ほどと同じ、困惑しているような、わたしを心配しているような顔をしているのだろう。
「お兄ちゃんにはずっと、わたしに……いいえ、世間に対して隠し続けてきたことがあるよね」
「凛……?」
「その秘密が誰にも言えないことで、知られちゃいけないことだっていうのは、よく分かってるつもりだよ。妹であるわたしにさえ隠したかったっていう、その気持ちも」
「凛、」
「わたしだって知りたくなかったよ……けど、知ってしまった。わたしが若菜ちゃんに、あんなこと言わなかったら……そしたら若菜ちゃんが、口を滑らせることなんてなかったのに。わたしはずっと、間違った認識を抱いたままでいられたのに。お兄ちゃんと若菜ちゃんの関係を、微笑ましいものとしてずっと見ていることができたのにっ」
「凛!」
わたしの言葉を遮るように、後ろからどんっ、という軽い衝撃とともに、背中に柔らかな温もりが伝わってきた。首元に、男の人特有のがっしりとした両腕がふわりと回る。
昔から、哀しいことや辛いことがあった時に抱きしめてくれていた、頼りがいのあるその腕が、今日は小刻みに震えていた。
「凛……お前は、知ってしまったんだね。僕がずっと、世間に対して何を隠し続けてきたのか」
直接的なことを一度も言ったわけではないけれど、兄は気付いたらしい。わたしがどうして、こんなにも感情を高ぶらせてしまっているのかを。どうしてこんなに、混乱しているのかを。
「軽蔑……しているだろう?」
わたしを抱きしめたまま、兄は感情を押し殺したような声で言った。
「自分でもわかっているんだよ。こんなの異常だってこと。分別をわきまえられるはずの年になっても。こんなの叶わないって、駄目だって、理性ではわかっていても。それでも、僕は……俺は」
わたしの耳元に、乱れた吐息がかかる。落ち着こうとしているのに、落ち着くことができていない。それはおおよそ、いつもの兄らしくなどないことだった。その瞬間に、一人称もいつもの『僕』から普段聞き慣れない『俺』へと変化する。
「俺はそれでも、あの人を……絢乃伯母さんを、断ち切ることができない。彼女を伯母として……純粋に親戚のおばさんとして、見ることができないんだ」
苦しそうな声で、兄は告げた。わたしが、思っていた通りの名を。
わたしの記憶の中で、兄をその腕に抱え上げながら微笑んでいた人の……母の姉であり、若菜ちゃんの母親である、優しいあの人の名を。
「軽蔑なんてしてない……」
嗚咽混じりに、わたしは言葉を絞り出した。
「今はただ、どうしたらいいのかわからないだけ。ちょっと……混乱しちゃっているだけだから」
「けどっ」
わたしの言葉を遮るように、兄は悲痛な声で、短く叫んだ。
「俺は、まだお前に言ってないことがある。それを言ったらお前は絶対に、俺を拒絶する」
「どうして……」
「俺は昔、そのせいで……若菜のことを、傷つけてしまった」
「若菜、ちゃんを……?」
あぁ、と掠れた声で兄は肯定した。
兄が若菜ちゃんを通して、その母親である絢乃さんを見つめていたことは分かっていた。若菜ちゃんが、それに気づいていたということも。
けれどそれ以上のことも、詳しいことも、若菜ちゃんは言わなかった。
まだそれ以上に、何があるというのだろう……?
それを聞いたら、またわたしは大きなショックを受けるだろう。若菜ちゃんに告げられた真実以上に、それはわたしの心を傷つけることになるかもしれない。混乱の渦に、わたしを突き落してしまうかもしれない。
だけど、それでも……。
「ねぇ、お兄ちゃん。抱え込まないで、話してほしい。わたしが相手じゃ役に立たないだろうし、頼ることなんてできないかもしれないけど……」
わたしを抱きしめたまま、先ほどから何かに耐えるように震えている兄を落ち着けるために、わたしは首に巻きつくその腕に手を置くと、極力優しい声で言った。
「わたしは絶対に、お兄ちゃんを拒絶したりなんかしない。どんなお兄ちゃんでも、わたしは受け止めるよ……。だってお兄ちゃんは、わたしにとって頼れる、ただ一人のお兄ちゃんだもの」
これは本心だけれど……兄に、どれくらい伝わっているのかはわからない。気休めだとはぐらかされてしまうことも、お前は何もわかっちゃいないと突っぱねられるであろうことも、覚悟していた。
けれど今の兄には、もうこれ以上我慢することなどできなかったのだろう。何もかも、ぶちまけてしまいたかったのだろう。
わたしを抱きしめる力を一瞬だけ強くしたかと思うと、ポツリポツリと一言ずつ、その心情を吐露し始めた。
◆◆◆
俺は昔から、甘えることをあまり知らなかった。
物心ついた時から両親はいつも仕事でいなかったし、母さんに至ってはあんな性格だったから、素直に甘えたいなんて言えるはずもなかったし、すり寄っていくことさえできなかった。
それに物心つくような年齢になった時には、もう妹――つまり凛がいただろう? だから、その世話をしなきゃいけないって……俺が守ってあげなきゃいけないって、そう思ってた。誰かに甘えてる暇なんてないって。そう信じ込んでは、欲求を押さえ続けてきた。
そんなんだから、周りの大人たちには『悟君は、しっかりしているね』とか『もう一人立ちしているんだ、偉いね』とか言われて……またそんな求めていない過大評価を得るもんだから、なおさら甘えられなくなって。
もうそこからは堂々巡り。『甘える』という行為も、『子供のように無邪気に振る舞う』ことも、俺にはできなくなっていた。
ぶっきらぼうだった母さんの代わりに俺をその手で掬い上げ、頭を優しく撫でてくれたのが……唯一俺を子供扱いし、その成長を見守っていてくれたのが、絢乃伯母さんだった。
彼女の柔和な雰囲気と優しい口調が……甘えさせてほしいっていう、頼りたいっていう、今まで必死に抑え続けてきたはずの欲望を俺から次々と引き出していった。
絢乃伯母さんが直接俺に『甘えていいんだよ』って言ったわけじゃない。なのに、気づけば甘えさせられていた。絢乃伯母さんの前でだけは、俺は周りの同世代の人間と同じような、無邪気な子供でいられた。
そしてそんな彼女に、俺はいつしか恋愛感情を抱くようになっていた。
今は守られているけれど、いつかはその華奢な身体を、成長した俺のこの手で守ってあげたいと……この手の中に閉じ込めたいと、そんな普通じゃ考えられないような感情を、彼女に対して傾けるようになっていた。
もちろんそれは、何も知らない小さな子供が勝手に抱くような、単なる幻想に過ぎないこと。たとえば幼稚園の先生に『僕のお嫁さんになってください』って言うようなものだ。相手の境遇なんて考えない、単なる独りよがりで、一時的な感情――の、はずだった。
なのに……成長して、絢乃さんが結婚しているという事実を知っても。若菜という娘が既にいるということを理解しても。それでも、この思いはどうしても消えてくれなかった。
叶わないって、こんなの異常だって、頭では……理性では、十分すぎるくらい理解していても。それでも俺は、幼い頃と同じように、彼女をずっと『そういう意味で』好きなままだった。
『そういう風に』しか、彼女を見ることができなくなっていた。
親戚で集まることも……彼女と顔を合わせることすらも、いつの間にか怖くなっていた。絢乃伯母さんと椋介伯父さんが一緒にいるところを、見ることすらも辛くなった。
けれどこれを表に出してしまうことは……大事な存在であるはずの、絢乃伯母さんを傷つけてしまう。絢乃伯母さんを悲しませてしまう。
それだけは、絶対にしてはいけない。
だから俺はなけなしの理性をフル回転させて、絢乃伯母さんに対して何事もないかのように、ただの甥として接することしかできなかった。
すみません、長くなったのでいったん切りますorz
中途半端な感じですけど…。
ってなわけで、次話に続く。