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前篇

 もうすぐ十月になろうとしていた、ある休日のこと。

 仕事で実家の田舎町から離れ、現在北陸にいるわたしは、伯母の絢乃(あやの)さんから連絡を受け取った。

 夏休みの少し前から入院していた従姉の若菜(わかな)ちゃんが、退院したという知らせだ。八月に実家へと帰っていたわたしがここに戻ってきた後、時期にして九月の初旬ごろに退院し、無事勤務先である関西へと戻って仕事復帰しているという。

 病気というわけではなかったのだが、少し精神状態が良くないと診断されていたらしく、カウンセリングを受けたり精神安定剤を処方されたりしていて、なかなか退院させてもらえなかったようだ。『もう大丈夫やっちゅーのに……ほんま、病院って過保護やわ』というような不満のこもった電話が病院から何度もかかって来たと、絢乃さんが苦笑混じりに言っていた。

 二歳年上とはいえ、昔から友人同士のように接してきた従姉に関するよい知らせに、わたしは年甲斐もなく胸が躍るのを感じた。

 今日は兄がこの場所に来ることになっているのだが、それまでにはまだ時間がある。それに休日だから、よっぽどのことでもない限りは、若菜ちゃんも家にいるだろう。

 わたしは彼女に電話を掛けることを思いつき、携帯電話を取り出した。


『――久しぶりやなぁ、(りん)。その後、元気にしとったか?』

「それはこっちのセリフだよ、若菜ちゃん」

『左様か、それは堪忍なぁ』

 受話器から聞こえてきた、いつものほのぼのとした関西弁交じりの言葉に、わたしはなんとなく心が癒されるような心地を覚えた。

 かつて人生からの脱却を図ろうとした人と――誰にも言えずにいた、秘めた想いを病室にてわたしに語って聞かせた人と、同一人物だとはとても思えない。

『それはそうと、夏休みは見舞いに来てもうておおきにな』

「どういたしまして。……あれから、新宮(あらみや)先生と、ちゃんと話ができたの?」

 少しの沈黙のあと、若菜ちゃんは小さく答えた。

『……あぁ』

 新宮先生とは、若菜ちゃんの高校時代の担任の先生だ。そして同時に……彼女が、一生叶わぬ想いを抱いている相手でもある。彼女自身はそれを『恋ではない』と否定していたけれど、やっぱり今でもわたしはそうなのではないかと思うのだ。

 いくら新宮先生に、家庭があったとしても――それでも若菜ちゃんが彼以外の男性を受け入れることなど、きっと一生ないのだろう。

 それは単なる従姉妹同士という関係性でしかないはずのわたしにとっても、とてもつらいことだった。

 だって、わたしは知っている。彼女には――……。

『あんたら兄妹の、おせっかいすぎる計らいのおかげやで』

 少しだけ皮肉っぽく、けれどとてつもなく優しい声色で、若菜ちゃんはそう続けた。

 わたしたち兄妹、というのは紛れもなくこのわたしと、その兄である(さとる)のことだ。

 けれどわたしは、あの時若菜ちゃんのために一番一生懸命になっていたのは、兄だと思う。わたしなんかよりもずっと彼女のことを心配していたのであろう兄は、連日彼女のいる病院へと足を運んでいたらしい……と、後に絢乃さんから聞いた。

 あの日病室で、若菜ちゃんと新宮先生を引き合わせるのに一役買ったのも兄だった。病室を出た後で電話を掛けた時、兄はただ一言『そっか』と言っただけだったけど……その声がいつもより心なしか弾んでいたことに、妹であるわたしが気付かないはずなどなかった。

 その時のことを思い出し、微笑ましさに人知れず頬を緩めながら、わたしは言った。

「あの時尽力したのは、わたしじゃなくてお兄ちゃんだよ」

『左様か?』

「うん。……だってお兄ちゃんは、若菜ちゃんのこと」

『それは、ちゃうよ』

 わたしの言葉を途中で遮るように、不意に若菜ちゃんの固い声が受話器から飛んできて、わたしは思わず身体をこわばらせた。言おうとした言葉の代わりに、声になりきらない掠れた声が漏れる。

「……え?」

 若菜ちゃんの口から出た予想外のセリフに、一瞬心臓に冷たい手で触れられたかのような寒気を覚える。それまでの空気ががらりと変わったのを肌で感じながら、わたしは絞り出すように問うた。

「どういう、こと?」

 若菜ちゃんは淡々とした低い声で、答えた。

『言葉通りの意味。悟は私のことなんて、どうとも思っちゃいない。一度だって私をまっすぐな方向から見てくれたことは……私の存在を全身で認めてくれたことは、ない』

 断定的な強い口調に気圧されながらも、その真意を尋ねなければならないという義務感から、わたしは無理やりに口を動かした。

「……何故、そうだと言い切れるの?」

 フッ、と若菜ちゃんの笑ったような吐息が、ザッというノイズとともに受話器から漏れた。

『何故って……ずいぶんと、野暮なことを聞いてくれるじゃないの、凛?』

 それまで若菜ちゃんの口から紡がれていた関西弁訛りの言葉遣いはすっかり消え、代わりに彼女がめったに使用することのない流暢な標準語が聞こえてきた。

 その低い声は、感情のこもらない淡々とした口調は……どことなく、あの人のことを思い出させる。

 あの人との――今は亡き母と、かつて交わした無意味な言い争いを思い出して、吐く息が自然と震えた。

 そんなわたしに気付かないふりをしているのか、はたまた気付くほどの余裕など実は持ち合わせていないだけなのか……若菜ちゃんはもう一度、静かに口を開いた。

『悟はね、小さい頃からずっと私を……瀬戸(せと)若菜のことを、ある人間と重ね合わせて見ていたのよ』

「ある人間と、重ね合わせて……?」

 初耳だったその事実に驚きを隠せず、わたしはおうむ返しのように彼女の言葉を繰り返した。そして直後、その言葉の意味することに気付いてしまい、大きな失望を感じた。

 今まで兄が若菜ちゃんに接していた時の、あの見守るような優しい目も。遠慮のないようでいて、深い慈しみが込められていた柔らかなあの口調も。

 それらはすべて、若菜ちゃんに……瀬戸若菜という人間に、向けられたものではなかった。

 いくら兄にとっては本当の気持ちであったとしても……若菜ちゃんにとっては、価値なんてない偽物の気持ちでしかない。だって、向けている相手が根本的に違うのだから。

 やりきれない気持ちになって、わたしは唇を噛んだ。それを空気で察したのか、それともわたしの性格や癖を知ってのことか……若菜ちゃんが、苦笑交じりの声でたしなめる。

『あまり唇は噛まない方がいいよ。衛生的に良くない。また唇を切って、血でも出たらどうするの』

 若菜ちゃんのお見舞いに行ったときにも、唇を噛んで血を出してしまったことがある。おそらく彼女は、そのことを言っているのだろう。わたしもつられて苦笑しながら「そうだね」と答えた。何故だか、少しだけ空気が和らいだような気がした。

「……話はずれちゃったけど」

『うん』

 先ほどよりも出しやすくなった声で、尋ねる。

「お兄ちゃんが、若菜ちゃんを通して見ていた人のこと……若菜ちゃん自身は、それが誰だか知っているの?」

『まぁ、大体ね』

 彼女はあっさりと答えた。

『凛も、よく知っている人だと思う』

 わたしは目を見開いた。

「よく……知っている人?」

『そう』

「それっていったい、誰なの……?」

 若菜ちゃんが小さくクスリと笑う気配がした。茶化すような声が続ける。

『私からは、言えないよ。悟がせっかく隠していることなのに……それを私がバラしちゃ、悪いもの』

 けれどね、と言って、声を潜める。それから囁くように、彼女は続けた。

『今までの悟のことを、思い出してごらん。私に対するものと同じ……いいえ、それ以上に綺麗な目をアイツが向けている相手が、他にいるから』

 今までの、兄のことを……。

 目を閉じて、小さな頃の記憶を一生懸命手繰り寄せてみる。

 兄をずっと追いかけていた、あの頃のわたし。

 昔から大人びた精神を持っていた兄は、いつもどこか達観しているかのようで、いつだってわたしよりもずっと前方を歩いているような人だった。わたしはそんな兄の背中を見ながら、ずっとそれを目の前に置きながら、育ってきた。

 ――では、そんな兄の見ていたものとは?

 長男ゆえに、また元来の性格ゆえにずっと独り立ちしていて、誰にも甘えようとはしなかった――いや、誰にも甘えさせてなどもらえなかった彼が、唯一その心を年相応に戻した瞬間が、もしかしたらあったのではないか?

 彼にはわたしの知らないところで、甘えられる相手が……心を許せる相手が、いたのではないか?

 だったら……それは、誰だった?

 次々と浮かんでは消える疑問にまるで答えるかのように、幼き日に見た兄の姿が次々と思い出される。

 おおよそ子供っぽくない、今とさして変わらないような、どこか含みのあるような笑みを浮かべた兄。わたしの記憶の中にある彼は、ほとんどそうだ。

 けれど時々、それとは違う笑みをどこかに向けていることがあった。

 まるで気に入りの遊び道具でも与えられたかのように、嬉しそうな、幸せそうな……無邪気な、子供特有の笑顔。

 心から信頼を寄せているような、全神経を傾けているような、その表情。

 不器用で、最期まで明確な愛情を与えてはくれなかったわたしたち母親の代わりとして、いつだってそれを与えてくれていたのは。

 彼を唯一『子供』に戻した、その人は。

 記憶の中の兄が、声変わり前の今よりずっと高い声で、その人を呼ぶ。

『――さん!』

 やがて記憶の中の兄は、誰かの優しい手によって抱え上げられた。彼と同じ目線の高さで、穏やかな表情を浮かべ、その頭を慈しむように撫でているのは――……母とよく似た顔を持つ、あの人。

 いつだって優しかった、あの人。

「――……!」

 気づいてしまった。兄が、ずっと想い続けていた人の正体に。

 若菜ちゃんを通して、兄が誰を見つめていたのか。叶わぬ想いを、伝えることなど許されぬ想いを、誰に対して抱き続けてきたのか。

『わかったみたいね』

 息を多く含んだ声で、若菜ちゃんがささやいた。

「……うん」

 返事を返すと、若菜ちゃんはフッと笑った。

『これで、理解できたやろ? 私と悟の、本当の関係性が』

 関西弁混じりの口調に戻った彼女は、どこか自嘲気味に、投槍のように続けた。

『私らは互いに……報われへん想いを、未だに消化できんままでおる。門外不出の秘密を共有し合ってる、とでも言った方が正しいんかな』

 若菜ちゃんの言う『報われない想い』とはおそらく、新宮先生に向いた恋情とも親愛とも取れる感情のことだろう。

 そしてそれは兄にとっての、ずっと秘めていたあの人への想いのこと。

 二人は互いにそれを知りながら、わたしの知らないところでそれを共有し合いながら、ずっと何食わぬ顔で、ただの仲のいい従兄妹同士として過ごしてきたんだ。

 それを知ってしまったわたしは、やはり大きなショックを隠すことができずにいた。

 もうどうしたらいいのか、わからない。これから若菜ちゃんに対して……そして兄に対して、どんな顔を向けて接すればいいというのだろう。

 ぐるぐると頭の中で巡る考えに悩んでいると、唐突にチャイムの音が室内に響き渡った。思わず出そうになった悲鳴を、すんでのところで飲み込む。

 電話口でも聞こえたチャイムの音、そして隠しきれなかったわたしの動揺から、若菜ちゃんには何が起こったのかすぐに理解できたらしい。小さく笑って、落ち着いた声で囁いた。

『どうやら悟が、アンタの所に来たみたいやな。……ほな、そろそろ切るで。せっかくの兄妹水入らずの時間を、邪魔したらあかへん』

「……うん」

『せやけどその前に、悟に一つ伝えてほしいことがあんねん。凛、聞いてくれるか』

「……何を?」

 外にいるのであろう兄にはできるだけ聞こえないように、声を潜めて尋ねる。若菜ちゃんはもう一度小さく笑うと、いつもよりトーンを落とした、真剣な声で言った。

『私は、アンタのことを恨んでなんていない……って』

 何のことか、とわたしに尋ねる暇など与えることなく、ほなな、といういつもの軽い別れの言葉とともに、あっさりと電話は切れてしまった。

「……凛? いないの?」

 チャイムが鳴ってから長いことわたしが返事をしなかったからか、外から兄の不審そうな声が聞こえる。

「――っ、ごめん。今開けるね」

 フリーズしかけていた頭をどうにか働かせ、わたしは向こう側に兄が待っている玄関のドアの前まで、小走りで駆け寄っていった。


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