何をどう書くか
だいたいではあるけど自分自身の書きやすい方向というのか、変な力みが入らずに面白さを追っていける、そんなリラックス感と集中力のブレンドができるようになってきた。あとは単に、書くのが楽しくなってきた。書くという競技の中に、また新しい魅力を見つけられるようになったというか。
むつかしく、奥が深く、なのにダラーっとでも書けちゃったりもする。サッカーや野球で一切走らずにプレーしたら活躍不可能だしそれ以前にキレられるだろうけど、書くという競技では寝っころがっているくらいにフニャフニャな気分でも、かえって上手くいったりもする。ポイントをおさえていられれば。
物体的なカタチの運動ではなく、頭脳の中の微小な電気信号と薬理反応が、見えもしないカタチもない意識とスピリットの活動に影響を与え、営み、育む。脳は一番カロリーを消費する器官だそうです。だてに、偉そうに人体の一番高いところに鎮座しているわけではありませんね。
パンセという本は大変すごい。僕が、これまで触れてきた勉強と、興味を向けてきた思想や不思議を、どんどん言葉にして「それはそういうことだろ」とシンプルに説明しきってしまう。シンプルなので、読む人の頭の中の蓄積具合や、思考のスタイルによって受ける印象や意味まで大きく変わってしまいそうではあるけど、それはどんな著作物でも大なり小なり一緒じゃん、思えば。
できるだけシンプルに、でも、ちょっとでもシンプルすぎてはいけない。とアインシュタインは言った。
チキンレースみたいなことで、できるだけギリギリまでジャストを追及するのだけど、ドボンになっちゃだめだよ、ということかな。
パンセの中でパスカルはプレゼンテーションの極意みたいなことまで教えてくれる。
多めに書きたいところだが、短い部分だけにしておこう。
人に話を聞かせるには、人を楽しませるように話さなければならない。みたいなこと。
そこでの“楽しませる”とは、単に一元的に言葉そのままの意味だけでなく、人に入り込んでもらう、というニュアンスだろう。ユーモアの笑いや、作劇的な方法いろいろで先を見たい気にさせたり、共感を促したり、問いかけて返ってきた客な答えに頷く双方向性や、熱っぽく語りステージを温めたり。と、きりがない。
自分が話したい、ってだけで話してても、人に深く聞いてもらえる可能性は限りなく低い。
人が、進んで聴きたくなる、それくらいを目指せ。と、パスカルは言っている気配。
もちろんプレゼンテーションなんて言葉はパンセ自体に書いてなくて、そこでは、雄弁、という言葉を使っていた。言葉ひとつにはそこまで支配的な意味はなく、パンセを読んでいれば一語にも多義性を見出すように仕向け自らそれを実践しているように感じられる。
つまり雄弁はプレゼンテーションでもあり、そして小説ともとれると言いたかった。もっと言うと、人が人に伝えようとしたとき、その両者の間に生まれうるもののほとんど全てのことに当てはまるんだろう。
僕らが何かを話し出すとき、基本的には自分が話したいから話し出す。たまには「何であんなことをしたんだ」と怒られたときに仕方なく話すこともあるけど。子供の頃はほとんどそっちだったな。
で、聞いてくれる相手はどう思うのかという点については、あまり考えてもわかるものでもないし、愛想笑いをカンペキに見抜けるわけでもないし、でも、何かがなんとなくならわかる気がする。話して良かったかどうかは。
んー、こんがらがってきた。シンプルへ戻ろう。
人を楽しませる。
これができない小説はツライ。
作者としては、人にあんまり読まれないし、読まれたとしても評判が悪くてガックリとくる。
読んだ人は、単純に楽しめないのでガッカリする。
楽しめることは大事。でも、それだけでは外側だけじゃないか。
作者の伝えたいことがこもっていない、ただ人に楽しんでもらうことだけが主目的となっては道化でしかないだろう。そういう職業なのだろうか。
しかし現代の道化、お笑い芸人の漫才などを見てみる。
お笑いブームのおかげで、みんなネタの良し悪しについてずいぶん目が肥えてきただろう。上手になめらかにできる漫才師ならいくらでもいる。けどネタにパッとしたところがない。現代風に言うと、フツー、な感じ。
そこで思い出してもらいたいのは、過去のMー1などでの、素晴らしい名作と言えるような漫才、その内容と、様子をざっくりと。
…どうだろうか、チュートリアルの徳井が冷蔵庫の話に異常に食いついてことだろう。あ、それは僕の頭の中だけでした。
どうでしょう、その思い出したネタは、ただ、人を楽しませるだけ、という動機のみで作られたネタに見えるだろうか。むしろ、コンビの内の一人は相方の方に身体を向けていて、客席のことなんか忘れているかのように、熱っぽく異常な執着心に取り憑かれたかのように喋る、ブラックマヨネーズ吉田の姿が浮かばないだろうか。
「お前そんなことしたら〜やないか!」と執拗に小杉に食ってかかる吉田の、ある意味ボケには見えないボケに対して、小杉は声を張り上げてツッコミつつも、どこか楽しげな気配をにじませ、客席をチラ見する。吉田はそのツッコミの言葉に対してさらに執拗に掴みかかる、というやり取りが、目の前に浮かんだだろう。YouTubeで。
つまりは、人は、楽しみたい。できるだけ熱中して、没入して、深く楽しみたいのだ。
あるいは、どちらかと言えば、作者にあからさまに与えられた楽しみではなく、感情移入でもって、あたかも自分が楽しみを見つけて獲得したかのような感覚に浸りたいのだろう。
僕らは、優秀な作者を目指すなら、生粋の観客にも成りきれるようになるべきだ。観客として、何がどのように楽しめるのかを覚えておくと役に立つはずだ。そこに僕らは自らの好みという形で個性を発見して、その個性の属するジャンルについて精通していく。
歴女は歴史好きな女子。というように。(なんか別のニュアンスもある気がするけど…武将夢想フェチ?)
好きでもないことについてオタク的に追求している人なんていないだろう。
だからオタクと自覚した時点で、僕らは何か大きなものを得たと確信していい。(そして代わりに何かを失うのだろう…)
オタクって言葉では嫌なら、アマチュア研究者と言い換えてもいい。なんにせよ、何か熱中できることがあるなんて、誰もが本能的に共感できる楽しさ、嬉しさ、羨ましさだろう。
パスカルは尚も言っていたが、ただひとつの道を全て知ることよりも、全ての道をほんのすこしずつ知る普遍者の方が優れている。美しい、と。もちろん両方を兼ね備えているにこしたことはないが、と。
ここはまだ僕は素早く「そうそう、ホントそうだよねー」と頷けないのだが、いろんなことをすこしずつ知るのは、まあきっと結構役に立つだろうとは思う。
スポーツをイメージしてもらいたいが、どんなものでも、始めてすぐの頃が一番急激に上達する。最初こそ全くできなかったものが、だいたいはすぐその日の内に、教えてくれた人と一緒に楽しめるくらいにはなる。ボコボコに負けることは負けるだろうが。で、成長が遅くなってきたころに飽きる。
それが知識獲得についても当てはまるのなら、僕はゆっくりと頷ける。
好きでなければ到達できない深みというものはあるし、嫌いだったり合わなかったりしなければ経験できない三日坊主の浅さもある。
小説の中で繰り広げられる娯楽世界は、そこに深みだけしかなければ読む人にとっては落とし穴みたいなものに過ぎないだろうし、浅さだけでは広大なサバンナの真ん中にポツンと残されたかのように退屈だろう。どちらも、そこから逃げたくなって本を閉じる。
本を閉じられたら、その小説世界は一度死んだようなものだ。死、終わり。泣きながら読み終えてもらっても本を閉じられるのだが、そんな天寿のまっとうと、途中でヘラヘラと馬鹿にした顔で閉じられる死との差は、語るまでもないと思う。
また、そもそも開かれない本もある。僕の作品は幸い(あるいは読者にとっての不幸)それなりにみなさんに開いていただいているが、(そう、このタイミングで感謝したいのですが、えっと、僕の作品を、お気の毒登録、じゃなかった、お気に入り登録していただいている方! とてもありがとうございます。感想については返信もできますが、お気の毒、じゃなかった、お気に入りに関してはお礼が難しいので、この場を使い、頭を下げさせていただきます。貴方のお気の毒、じゃなかった、お気に入りに恥じないよう、後悔させぬよう、お気の毒にして良かったと思っていただけるよう精進します。お気の毒ならぬお気の薬か栄養になりたいものです。ポイズン)開かれない作品は、生まれなかった死と言えるだろう。いや、多生と無生に優劣をつける気はないけど。
ただ、僕らがどれだけ「世の中に多く生まれてほしい」と願うかどうか、そこにかかっている。
多く読まれたいと願ってるのに、少ないと不満顔の作者。逆に、多くなくてもいいよ数よりも一人の深さが大事、という作者もいる。
やっぱその両方っしょ! と、よくばりな僕もいる。
それで、願い通りには実情が伴わないのが悩みの種なのですよね。どんな悩みも、だいたいそんな構図だと思う。
多くの人に読まれて、多くの人に褒められたい!
→(で)読め! と叫ぶ。素直な訴えキャンペーン。(僕は素直を好ましく思う。僕に不足しているサプリメントだ)
→(すると)うるさがられて読まれない。
そんな場合は読む側の意識で考えた方が早い。どんなものなら読んで楽しめて、そしてまず読みたいと思えるのか。そして多くの人に読まれるとはどういうことなのか、多くの人に褒められるとはどういうものを提供すればいいのか、と。
恋愛でも、不慣れな最初の交際ではだいたい好き好きの一点張りになる。(よね? だよね?)が、案外うっとうしいとわかる。
どんなに絵が上手くてかっこよくても、最初から最後までずーっと黙って殴り合いしかしてないマンガだったら面白さもなんともないだろう。
相手が、とにかく相手が、どのような恋人を好ましく感じるのかを考え(あるいは聞き出したり読み取ったり)、どのような関係と空気感を作っていけばいいのかを考えだすと、ようやくスポーツでいうところのやり方を覚えたような段階だ。
「相手を倒せば勝ち」と聞いて、開始そうそう相手を銃殺したらボクサーとしてやっていけないのと、同じ。恋愛もただ好き好きとぶつけあえば心地よくなるとは限らないのです。ときに相手は自分を曲げるよう力をかけてきたり、いつ間にか自分も相手に力をかけてしまっていたりする。むつかしいね。スポーツ。
教える、というのは頭が高い。
気づかせる、というのが賢い。
誰が気づかせてくれたんだろう? と相手が首を傾げるくらいなら神ワザだ。かっこええ。
逆に、相手に気づかせてもらうことの多さに慄く。恋愛という至近距離に近づくことで始めて見える世界がある。そこで見るもの触れるもの全てに無限の叡智が潜んでいると見て間違いない。
そう思った頃、僕は相手に「ちょっと甘えすぎてた、しばらく一人になってみたい」と言わせることに成功した。彼女、何かを見つけたのだろう。(それは何なのか、教えてくれよ)
前半の甘えてたうんぬんは明らかに「こちらこそ」なのだが、また同じくらい明らかに優しさオブラートな表現だろうと思う。
より幸せになってもらえれば別にどうでもなんでも良いので、一時的な試練や苦労はむしろチャンスとしてギラリと観察して、その先に透けて見える“乗り越えたときの収穫•未来”
を基準に行動アクションと感情リアクションを動かせばいい。つまり、僕は泣いてない。
たぶん別の人と一緒になった方がいいだろうなとは勘で思う。僕は変に落ち着いてある意味ではもう変化しないし、必要な成長を提供できないだろう。僕の成長についても、冷蔵庫のあり合わせ料理で食いつなぐだけでも十分だ。しかも高級料理も楽しめる。真の雑食だ。でも面食いだ。高い知性にも憧れる。結局よくばりMAXだ。
機内アナウンス。
この中に、内外ともに美しい女性はいませんか? できるだけ、できるだけ美しい女性は? たぶん死なせてもいいようなお客様が、たかが切り傷ひとつで救急車を呼んだのです…
涙は心の汗だと言う。汗は血から作られている。結局、心が出血してますが。というか涙も血から作られていますけど。
人をよく知りたいなら人を好きになるのが早い。
でも逆に嫌いで、やっつけてやろうと悪だくみするのでも知れるかもしれない。
つくづくスポーツみたいな。
感情や思考や意識はカタチのないというところがホントにこの世界でのスペシャルで、だからこそ物体の拘束を受けずにネット通信で電子の早さで世界を飛び回れるようになった。
通信、肉体や物体ではない情報をやり取りする。
3Dプリンター! これがじわじわニュースされて来て、いよいよ21世紀丸出しになってきたなとニヤニヤする。家庭用ではせいぜいガサガサならフィギュア原型が目標だろうが、業務用となると相当滑らか。
だから、デジカメ以前の昔のフィルム現像屋さんみたいな感じで、3D印刷店舗が増えてくかもね。
〈機内アナウンス。この中で、美しい女性のデータをお持ちのお客様はいらっしゃいますでしょうか!? 本当は今すぐにでも空へ放り出したいような奴が、数バイトにしかならないような情報量の言葉をわめいているのです…〉
自分が人に求めるものと、自分が人に与えられるもの。
その交換が、より公平で美しい交換が、できないだろうかと考える。そのためには、自分が何を求めていて、自分が何を持っていて、その中で特に与えたいと思えるものを見つけて選び出さないといけない。
洗練。装飾。
そして自分だけのことではなく、相手あってのことだという点。交換は、一人ではできない。それはウソだと思うのなら、一人でジャンケンをお楽しみください。
僕はよくばりなので、フツーなんていうやたらにそこら中に転がっている価値は、通り過ぎながらチラ見すればもう飽きる。立ち止まって凝視せずにはいられないようなものを見たがる。そのために僕の目は開くのだと思っている。
フツーをすぐに瞬きで殺し、未知のすごいものを最期まで見届けたい。
仮にそれは完全には達成不可能だと知っても、僕はそのようにし続けるだろう。また、すごいものを引き立てるために、たまにはフツーを眺めて目を油断させる演出も忘れない。
つまらないものまで面白くなってきてしまった。手抜きではない、研ぎ澄まされたシンプルを知る人は、まだ少ない。
それを知りたいと無意識レベルだろうと常日頃から口で言っているような人にも、僕は、できるだけすみやかにそれを知れるようなルートを紹介できるようになりたい。そしてルートの情報をお互いに共有したいから。
好ましい人には、好ましいことをして、好かれたい。そのように、思える限りは。
手抜きのだらしなさに苦笑してても楽しめるのだから、僕らは困った雑食性のお客様である。
今日の目覚め方は最悪だった。
でかい羽音がして首筋のうしろあたりに何かカサカサふわふわしたでっかいものが止まった感触。遠のく意識、暗くなっていく視界。直後、近い回りにいた人々の中から特に女性の数人が「キャアアアアアア!!!」とクレッシェンドしていく大音量。壮絶!
起きたら、別に首筋に何もなかったし、目覚ましが鳴っていたわけでもない。無音。
おい、脳の創造性、このやろう、ばかやろう。と思った。
何のせいにもできないとき、初めてようやく自分自身のせいにするしかなくなるのだろう。
月曜の夜から睡眠時間をいきなり半減させてみて、三日たち、三度寝してみた今朝の挙句の果ての成れの果てである。
気づけは、三日坊主!
子供の頃は、そう言われるのが嫌だったので、本当に三日でやめたことは何ひとつなかったというのに。たいてい、三日より素早くあきらめていた。
しかし昨日は、朝四時半のランニングとゴルフ練習と日本酒約100mlいう言い訳がある。今夜はまた半減睡眠を再チャレンジしよう。眠いのは眠いけど、脳内麻薬で何とかやっていけます。働いてたら、絶対無理だ。僕は体力が少ない、だから鍛えよう。
スイングのコツも完璧に綺麗さっぱり忘れていた。泣けた。初動からすぐにヘッドと身体の軸との距離関係がブレブレだと気づくのに、無駄に手間取った。アホめ。
テニスのクセか、体重移動がどうにも顔を出す。ゴルフは棒が長いので、ムチを扱うように、とにかく先端のヘッドを加速させなければならない。なのについつい身体が、無駄に余計に振りかぶって、横移動して軸をブらし、ヘッドよりも腕を早く振ろうとしてしまう。身体なんて動かなくいいのだ。ヘッドさえ走ればいい。そしてまず、当てること。
みなさんは、プロのスイングの美しさをご覧ください。その前に、練習場でコミカルな個性溢れるフォームで一心に楽しんでいるおじさん達を見てみるのも、プロを引き立てる演出になるだろう。
その流れは、悪者が絶対的な権力で暗躍し、黄門様が手下に懲らしめさせたあげく「黙らっしゃい!」とぴしゃりと怒る痛快さに似ている。
僕はしかしまず、よくあんな振り方で当たるよな…と関心する。真似できないししたくないけど、すごいことはすごいのです。父はわりとフツーなフォームで、ひとつの会社に高卒から還暦まで勤め上げた一途さとともに、深く尊敬する。僕もフツーに上手くなりたい。
でも小説は、フツー以上プロ以上のよくばり以上。
両手にマメができると、シャンプーが苦行です。マメな男にはならなくてもいいな、と思った。




