運、不運+自作について
最近、ありがたいことに、偶然な情報サポートが頻発している。
例えば、文章を、何か不確かな記憶で適当に書いたりする。それでなんとなく(あれで合ってたかなー?)とほんのり不安がっていたりすると、すぐに本で正確な情報と出会えたり、とか。
具体例だと、インターネットは軍事目的で発明された、と書いたその日、本でCERN(素粒子の研究所)での情報共有の為にそこで働くエンジニアが開発し、特許も取らずフリーに出回っているのがwwwの起源なのだそう。今、笑ったと思ったでしょ。へへ〜ん、ワールドワイドウェブでした〜www
ネットは笑いで充満していますね。
ゼニの取れる笑いを思いつけるよう精進します。
人の自慢話というのは、最悪につまらない不愉快なものだという。話し方にもよるとは思うけど。
ほとんど本を読まなかった子供の頃、伝記だけは面白く読めた記憶がある。フィクションではなく事実だということで、そこがすごいと思ったし、信じることで内容にすんなり抵抗なく入り込めた。それまで楽しんでいた紙芝居とかとは違った魅力で、新鮮だったのだろう。ノンフィクションの強さが。
チャップリンの自伝(上)を読んだ。幼少よりドン底極まる貧乏暮らしをしていた彼が、十代前半からコメディの舞台に上がり、徐々に(当然のごとく)頭角を現し、収入は何十倍にも増えていき、やがて喜劇映画の業界に進む。そしてある日突然、あの帽子とチョビひげとステッキのスタイルを即興的にこしらえ、そのキャラクターに手応えを感じて続けていこうと決心し、直後、25歳でもう脚本•監督•主演で喜劇映画を成功させている。そしてもうヒットヒット、数週間に一本という、映画とは思えない早さで次々と作品を世に放つ。1910年代のことである。
チャップリンは、どうやら僕の99歳上らしい。惜しい。
それはさておき、1910年代なんて、どうよ。びっくりですよね。知らないですよね。
飛行機はまだあるかないか、通信手段は電話があるかないか。映画も本当に生まれたての新技術で、現在でいうニコニコ動画くらいか。
生まれたてなので、もちろんまだ古典的な名作もないです。そしてもちろんサイレント。
あの映画という娯楽にも、赤ん坊の時代があったのか、と思うとなんとなく感じいる。
で、若きチャップリンがまだフィーバーする前、友人と二人で養豚業を始めようかと計画を企て、勉強家のチャップリンは養豚業の本を仕入れ、そこに仔豚の去勢のやり方が図解してあったのを見て養豚を挫折したという。
今日、朝日新聞の朝刊の見出しは、ブタの体内でヒトのスペア内臓を培養する技術の話だった。IPS細胞どうのこうのです。
結構昔、攻殻機動隊のアニメでまさにやってたなあ、そういうブタ方式。先見性、すごい。
僕は特にブタさんに対して挫折するような野望は抱いていなかったが、ひとまず、これ以上別の方式でブタさんのお世話にならないよう、内臓を労わっていこうと思う。肉は、食べさせてもらう。どうか、ぶーぶー言わないでください。
さて、僕は一作書き終えて、図書館で目についた本の中に、まさにその自作の芯の部分というか、思考理念が共感できるというか、とにかく縁を感じずにはいられない文章を見つけた。あるいは「残念、こちらが正解でした〜」とダメ出しされた気分。ダメ出し、ありがたいけどね。
中公文庫、パスカルの『パンセ』その第一章の書き出しである。
ちょっと著作権時効的にコピぺませんから、脚色、要約します。
科学的な精神と、心理的な精神との違いについて。
前者は、数理的にくっきりと表すことができるが、現実での実用性は低く、日常からは離れている。なので、普段暮らしていてそうした思考は浮かびにくい。習熟しない限り。
しかし一度そうした考え方をすれば、数理的に原理は全てはっきりと見える。そうした記号的な粒の荒い原理たちに基づいて、見落とさずに推理を組み立てていける。
ところが、繊細な、心理的な精神は、その原理はいつでも日常的に活動していて、皆の目の前にある。近すぎて思考検証の対象にならず、普通に活動しているのだから無理に疑う必要もない。けど問題は、だからこそ見えにくく、特によい目をもって見るべきである。というのも、こちらの原理は超微妙であり、多数なので、見逃しがほぼ絶対に起こるから。
と、つまり、学術的なクールな“正解”のある世界へ向ける目と、心情的なウェットで曖昧な世界へ向ける目と、それぞれの違いとそこで起こるすれ違いについて書いている気がするのですが、どうでしょう。
頭で見るのと、心で感じるのと、両方の考え方があるんだぜ、ってことだろうか。それを両方、まんべんなく使えたら楽しそうですよね。
ともあれ思わず図書館から連れ帰ってしまったが、この文庫本、600ページくらいある大物です。ヘヴィー。無理して完食は狙わない。
そして“パンセ”でウィキってみたら、“7つの習慣”というワードを見つける。
このワードのウィキページは、非常にコンパクトに哲学的•成功論的なナイス文章が詰まっているので、とてもおすすめ。十分もかからずに、ゆっくり噛みしめて読みきれる。
十分かける価値は十分にある。(ややこしい)
囲碁の本もチラ見。
現代の大学生は左脳型学習に偏っているとか。そのせいか、子供に比べて囲碁を覚えるのが遅いんだそうな。でも逆を言えば、右脳に“効く”ってことだよね。
脳の片方だけムキムキにするのって、片腕だけムキムキにするみたいなことかな。腕よりも、ずっと脳は左右がダイレクトで繋がってるから、よりバランス大事だと思うけど。
小説とかチャップリンとかのおかげで、ちょっと古典というか、歴史方面も面白く感じてきた。
歴史が暴く過去の国家レベルの洗脳は、宗教だったりそれを下地に利用した独裁者だった。よね、確か。
で、考えてみれば当然だけど、“今やっている洗脳”がバレないようにするというのは、上の人たちの心理からすれば当たり前だよな、と。
戦時中、敵国を鬼や悪魔のように仕立てあげ、ぜいたくも敵にして、生きる命も死にゆく命も全て注ぎ込むように洗脳した。子供に対する学校教育でも。
かなり無茶に国民一丸に操作したために、おいそれと降伏できなくなった。降伏したら生き残って洗脳の解けた国民と、あと単に勝利国から断罪される為である。上が。
で、原爆の脅しに乗っかるようにして降伏し、黒塗り教科書となる。
こんなにもダイナミックに教育はひっくり返った。それが近代の歴史で、今の教科書が最後にサラッと流す箇所だ。日々の新聞やニュース、国際関係でいま問題として取り扱われている“現在進行形の生きた課題”の種について、サラッとである。
今に活かさず何に活かすというのか、歴史を。まあ、現代は教育が洗脳方法なので仕方ないですね。
バカな勉強の仕方で頑張るほど、知識は蓄えられてもバカになります。バカなやり方、というシステムも刷り込まれるから。
嫌いな食べ物ばかりをイヤイヤ食べてたら不幸で不健康になりそうなものですが、教育に関してはそのようになってるよね。
好きなこと、興味のあること、勉強したいと思える方向、それを軸にして全部の教科をやればいいのになあ。
例えば音楽が好きなら、音楽家の技法や彼らの半生、人となりを知って、その時代はどうで、どういう歴史の動きに影響されたか…と、ずんずん勝手に連鎖するのが、自然な知識の蓄え方かと思います。
ユニクロがあるのは素晴らしいことだけど、国民全員がそれで固定、となったらおかしい。
会話できないような方法で教える英語。(日本語よりシンプルで覚えやすい言語だという)教育テレビを見たら、アルファベットの単語内での読み方の変化など、システム的な教え方でナイスだった。
とにかく効率が悪い。学校という社会から切り離された擬似社会の中でガラパゴスな人間関係を学び、いきなり社会の伏せられていた裏ルールにさらされ、また染められ、とことん個が殺される。個が死ぬと困るのは、全体だ。当たり前。まさに心中社会。
全体のために、という強い動機で取り組む個まで殺される。
まず、自らの個を見つめて把握すること、それからそのスペシャルな個性をどう活かすかと考え、全体主義で個性を発揮するのが順当なサクセスルートだが、最初のステップこそが特に強く妨害されている。洗脳で。
数字で、社会という外部的な要因のみで、僕らは個性化される。それはただのバーコードタグのピアスだ。いまだにメンタリティを無視している。内省するやり方を教えろよ。外部だけじゃ内部は育ちきらない。
みんな、外側の世界に自分がいると思い込まされる。内側にこそ詰まってるってのに。
外側からどう見られるかを第一に考えるから、人の内側に届かない。結果、軽く、押し付けがましく自分をプッシュする形になる。表面だけの意識。
外側からどう見られるか、つまり周りの評価というのは、当然、直接自分で決められることじゃない。周りが見て、決めること。当たり前。
しかし内部を見て決めるのは、自分しかいない。他人が覗いてきて、ああここはこうしなよ、なんてエスパードクターはいない。
知らず知らず、自分の内部をお留守にしてるから、軽い。軽いから、人からのプッシュも受け止められない。風船のぶつかり合いで、嫌な音ばっかりである。
自分というものが良くわからないときは、ただただ周りの人の様子を観察して、吸収してみるのもいい。サンプルデータとしてドライに採集していって、内部の自分と比較するのだ。嫌な奴は真似しないように、いい奴はなぜいいのかを考えてシステムを真似る。表面の形だけ真似るとうまくいかないので。
自分の出来るように、無理せずに。できるだけ明確なヴィジョンを持って。
などと言うのは、高校の時は基本的に廊下を見ながら歩いてた僕ですけどね。昼食という習慣を放棄して、図書室で昼休みを消化してましたけどね。
えっと、文字の感じほどはグロくないですよ実際は。僕としてはわりと上々な時間でした。そこで立花隆やダン•ブラウンの本が好きになったなあ、あんま内容は頭入んなかったけど。
そして午後の体育は危ない。
ともあれ、学校で製造され、均一セールで叩き売られていく僕らである。
野菜もオーガニック流行ってるんだしさぁ、人間もオーガニックにデジタルな合理性を加えて能力を最大限引き出してみようよ。
その生物が、もっとも健康で強く美味しく育つ方法。生命力を活かそうぜ。
色々工夫できるくせに、自分たち自身の覚醒には手が届かないのか。変なの。お人好しめ。
そういやどこかで、歴史の勉強は、わけのわからん遠い昔の縄文時代なんかから始めるより、今現代からさかのぼって教えていけばいいのに、という意見を読んだことがある。その手があったか、と思った。まさに逆転の発想。わかりやすいかどうかは、あれだけど。
野村監督の本で読んだけど、人間のもっとも深い欲求は“自己重要感”だという。
自分が、重要な存在(だと周りから思われている)と感じたい。という欲求。
だもんで、まずストレートに自分を押し売りしたくなるところですが、そこを一回ぐっと堪えて、周りが重要だと評価する人材とは何か、自分の今ある個性でなら、どういうやり方、ルートでそこへ向かえばいいか。
と、ずる賢しこくエロかっこ良くプランニングするのが最初の一手だ。マップと目的地がわかれば、あとはそこへ向うだけ。
闇の中を手探りでふらついて、風船こすれ合いの音を鳴らしながらじゃ、身も心も保ちません。
と長々と書いたけど、先に書いた“7つの習慣”もだいたい似たことが書いてあります。
へへ〜、そっちに十分つかうのが正解でした〜www
今夜23時、自作の“コーヒーの夜”が完結投稿されますのでよろしく。
どうだ、このタイミングで言えば、絶対に読まれまい。へへへ、まいったか……自分。
と、そういえば青空文庫で、太宰治の“『晩年』に就いて”という短い文章がショッキングですごい。晩年と合わせて、オススメ。
よろしく。いろいろと、どうぞ寛大に。
と人に要求する前に自分が寛大にならないとなぁ。寛大って、どういう意味だっけ。阿部寛の寛だから、阿部寛のような大きさ、つまり阿部寛大、略して寛大。
そういうことなんだろうな。いろいろと。




