新世紀世代
世代のことをあれこれと気にし始めている。
四半世紀も生きてくると、そうなっちゃうんだろうよ。昭和の末に生まれた世代ということで、昭和にも気を配りつつ、平成とタメをはっていく感じです。この世代はなかなか黄金世代らしく、特に野球選手にスターが多い気がしてます。マー君とか、坂本とか、香川とか。
自分と違う世代の人とは、当然ながら、育ってきた環境が違うから、以下セロリ。まさよしの方でセロリ。
(最近チャレンジングなボケを試しているのは何故かというと、たぶん、理由なんてないんだろうと思う。スベりに対するワクチン摂取のつもりかもしれない)
何事も経験であり、経験が染み付いたのが自分であるとは思う。まっさらなまま生きるのは、良くも悪くもレアだろう。あるいはアレ。
中学の体育に、ダンスが組み込まれたのは、確か去年からだっけ?
厳めしいタイプの体育教師にとって、最大の試練が訪れた、と、そのとき僕は激しく心配した記憶がある。授業風景、気になる。
定年真近の旧陸軍の人みたいな体育教師が、ダンスの手本を生徒達の前で見せなければならない状況。すげえかわいそう。
体育教師に同情するのは気の毒(自分にとって)なのでこの辺までにしておき、ほとんど未知の世界、ダンスについてのイメージをしてみた。ダンスを授業でやるというのは、どういう効果を上げるのかと。
ダンスは全身運動であり、身体表現でもあると思う。クラス全体で統一的に同じフリをやるので、旧来のあらゆる授業と変わらないスタイルであるけど、やはり、個々で表現的にポーズをとっていく行為は、恥ずかしいと同時に、ある種の解放感が得られるだろう。
というのは、表現、=アウトプットであり、さらには運動としてのエネルギーの放出も伴うので。
絵を描いて、なんとなく充実感を覚えるタイプもいれば、いや、まあ、とにかく人それぞれか。
みんなで同時にやる、というのは良い部分だと思う。特に、ちょっと恥ずかしい、ダンスというものだからこそ。そのあたり、合唱とかと似てるかな。
みんなが踊るわけなので、自分が踊るのも正当化され、いずれは当たり前のように踊れるようになる、かも。
ちょっと分析が下手に濁ってきたので、ダッシュで脱出。
主観的にいこう。
なにしろ、身体表現、というもの自体、僕の世代からすると、非常に特殊技能な感じがするのです。というのも小学低学年の運動会に向けて、おゆうぎ的なものをやって以来、まったく離れきっている分野なので。
中学生というと、もう思春期の嵐まっただ中なので、そこにダンスを必修でねじ込むというのは、ショッキングとまで言っていいレベルなのでは。日本って、わりと攻めているな、とも思える。
ともあれ、このダンス必修世代に、どのような変化があるのか、とても興味しんしん丸です。
こういうことは絶対言わないが、ある種の大々的な人体実験みたいで、まあそういうマッドな意味でも面白そうですよね。絶対言わないけど。
身体表現に対する心理的抵抗が薄くなる、という効果は当たり前に現れてくると思う。
あとはストレスの低減。これは、単に、人はより多種多様な自己表現の方法を会得していくにつれ、いろんな抑圧をいろんな方法で放出できるようになるから。
恥ずかしい、という心理的抑圧は、実はかなり強い。集団的な&個人的な影響力がすごく強いと思う。
思春期というのは、恥ずかしいという感覚を先行的に獲得していく過程、とも言えるかもしれない。子供にはなかった、恥ずかしいという、強迫観念にも似た恐怖。恥ずかしい思いをしたくない、というのは誰しも感じるはず。大人になるほど、恥を恐れ、前もって前もって、そのようにならないよう予防線を張り、恥を全力で排除するように動く。という傾向があると、どこかで聞いた。
で、ティーンとなると、まだ大人と名乗れるほどにはそういう経験やずる賢い予防線テクなどないので、しばしば恥のハードルで大転倒を演じたりします。よね。
で、さらに、で、この恥ずかしいという集団妄想シンドロームを、すこし薄めた形でダンスとしてやらせ、慣れさせるというか、まあ恥ずかしいという思いというのは、案外、表現として表に出てきてしまえば大したことないな、と眺められたりもするので、きっと良いよな、良いようになればいいな、と思うのです。
まあ、もんもんとするのもある意味ではナイス成長を促すとは思うけど、それでダークサイドに取り込まれるティーンが増えても嬉しくないし。とにかく未来ある若者には、今までになかったようなアドバンスで斬新な方法を編み出していってもらいたい。その方が楽しそうだから。
僕らなどの、世紀をまたいで生きてきた世代の一番の大仕事は、きっと、そうした下の世代と上の世代とをどのように結ぶか、あるいは、その両方の世代の間に入って、どのようにバランスをとるか、というところではないだろうか。理想は、全世代大連立といった、ある種、全員野球みたいなこと。
混ざれ、ということではない。違うという力を分裂に使うのではなく、違いというものを、見事な分業連携プレイとして効果的に発揮させること。
野球である。打つのが上手い人はバッターになればいいし、投げるのが上手い人はピッチャーを任せればいい。
違い、というものに対して無意識レベルで無条件に抵抗を感じる。それが、昭和生まれ世代の受けてきた教育の成果だと感じている。
それが今後どこまでほぐれていくのか、ぬるめに期待している。
また、集団のスケールを上げると、簡単に国際的な話に発展できる。
いま何か知らんけど中国と仲が悪い感じらしい。新聞的な話でなく、ネット的な話です。
まあフィールドが違うだけですが、そこに住んでいる世代が結構違うと思うので。
ネットを思考の手本として染み込ませすぎる世代、つまり今若い人たちがネットに多いだろう。さらにもう半世代若い人は、逆にネットにそこまで入っていかない気もする。
生まれた時から無制限で、勝手にそこにある感じのネットに、わざわざ手を伸ばさないかもな、と。
スタンスが変わっていると思う。もっと直感的に、素直に接しているんだろう。
使いたい程度に使えばいいや、みたいな。
んー、言語化がかんばしくないですね。頑張れ、僕の脳のどこか。
まあ僕は基本的に、後に生まれた世代になるほど頭が良くなる傾向になるとは思う。でないとおかしいし、つまらないので。
未熟児の率が高まっているのと関連はあるだろうか、生まれつきの脳のサイズが進化してきていると。それはまああるいは現代病的なことなのか、産婦人科がコントロールしているのか、かもだけど。
ザッカーバーグは12歳からパソコン一直線だそうです。当時のパソコン事情と比べれば、今12歳の人はどのような目でネットを見るのか、と、なかなか面白いことは多いわけです。
あ、中国の話ね、中国はどう考えてもいずれ日本なんて相手にしないくらいに経済的には巨大化する。日本はここ50年でどのようにインフレーションしたか、それを考え、現代の中国の環境を加味し、やはりどう考えても一世代後には数字での勝負は完全にひっくり返るだろう。メイドインチャイナが、今のメイドインジャパンの感じになる。それって結構、すごいことになるね。でもそこまでには、20年はかからないかな。ヤバイね。
中国には土地も人も資源もあるので、日本よりもスタミナがあり、長く成長できる可能性がある。
なんだろう、血の気の多いマスコミショーでみんな怒ってるのかな。今の中国は、だいたい30年前くらいの日本と半分似てると勝手に思っているけど、逆算イメージで。戦後日本は、アメリカのコピー商品を乱発していたと教科書は言わない。
生きるか死ぬかを見てきた目を持っている人々の市場では、コピーなんて当然だろうと思う。何をそんなに面白く怒れるのかわからない。まあ、その大国の地域地域の現場をひとつとして知らないのだけどね僕は。
ただ秘境に近い村落は多いらしい、少なくとも日本よりははるかに。
全世界にある食糧の量自体は、楽勝で全人類を養えるが、行き渡らずに飢餓で死ぬ。つながっていない、離れていることが、何より苦境を生むのだろう。それは、物質的にも心理的にも言える。
なんでもかんでも混ざれ、とまでは言わないが。
さて、日本がどのように生きていくか、今の時期が注目だろう。将来、経済的な豊かさが全世界に行き渡った時がきたら、さあ何が次の豊かさの指標になるか。何を供給する国が、次の先進国、あるいは、世界から必要とされ、一目を置かれる国となるか。
石油でも武力でもないだろう。その時皆が欲しがるもの(おそらく幸福のモデルケース)を多種多様備えている国が、それを惜しげもなく提供して、普及に努める国が、手本として重宝されてくるはず。
今僕は、日本企業の海外進出の情報が好きで、見つけたら楽しくチェックしている。黒船をバンバン送り出すような心意気の話なので。
極端な話、この国にはミサイル撃たないでおくか…と思わせるような国になるのが、一番国として健康で長生きできる戦略なのでは、ということでした。
頭いい人が増えすぎたら、逆にバカが重宝されるのかな。無害なバカを目指そうかな。実はその両立を狙いつつ。




