ねこさまとぼくと山田
山田が初めて現れたのがいつだったかなんて、覚えていない。そもそもぼくは、時の流れを把握する必要なんてなかったから、大体の出来事をその前後関係のみで覚えている。
つまり、篠と出会ってから、ぼくが猫をやめるまでの間。その間に山田と出会ったのだ。当時は、何か別の名前だったはずだけど、これまた、覚えてはいない。
とにかく、奴は山でぼくを見つけて突然こう宣ったのだ。
「もう人として生きることは懲り懲りだ、もう人の身を捨てて、忠義深い犬になりたい。そのために仙人さまを探しているのだが、お前のご主人さまはどこにいる」
その頃の山田は単なる百姓だったので、もっと訛りだとかがあったはずだけど、大体そんなような主旨のことを言った。
ぼくはもちろん、ぼくの『ご主人さま』になんて心当たりがなくて、その日は無視してその場を去った。
次の日に、また男は現れて、ぼくの目の前にしゃがみこんで、懐に手を突っ込んだ。
「昨日は悪かった。いきなりぶしつけなことを申した。今日はほれ、にぼしがある。どうか、ご主人さまに渡りをつけてはくれぬか」
そのようなことを言って、言葉通りにぼしをばらばらと地面に撒いた。ぼくはそれを遠慮なくいただいて、帰った。
その次の日には、男は顔に大きな痣を作っていた。
「これか、気にするな。お前の主人にやられたのだ。いや、あの方が悪いのではない。……どうだ、今日はおかかを持ってきたぞ。渡りをつけるなぞという願いはもういい。ご主人さまに媚を売って、あの方を癒して差し上げてくれ」
そう言って、男は鰹節をひらひらと地面に落とした。ぼくはそれを平らげたあと、こいつはやはり何かを勘違いしているなと思った。いろいろうまいものをくれたことでもあるし、少しは話を聞いてやってもいいような気がしてくる。
篠は呼ばれてすぐに現れた。
「ねこさま、何か用か? 珍しいな、呼ぶなんて」
そう言ってから、篠は男に気がつき、思い切り顔をしかめた。
「……なんでこいつがここにいるんだ。お前! ねこさまに何をしようとしている」
「ね、ねこさま?」
男はたじろぎ、ぼくを見た。それから篠に視線を戻し、さっと跪く。
「仙人さま。申し訳ございません。あなたの猫に危害を与えようとしたわけではなくて……」
「篠の猫、だと! お前はどこまでも、不躾な奴だ! 帰れ!」
篠はなにやらえらく怒っていて、男を追い出そうとしている。ぼくはそのために篠を呼んだのではないので、篠のそばに行き、彼女をじっと見上げた。
「……ねこさま。どういうつもりで……」
まあまあ、話をしてみてやってくれよ。というような気持ちで尻尾を振る。しばらくぼくと篠は見つめ合っていたが、やはりというかなんというか、篠の方が折れた。
「…………ねこさまがそこまで言うなら、わかったよ」
そして男に向き直ると、厳しい顔つきで言った。
「人間。お前が探していたのはこの篠ではなく、ねこさまだ。人を犬に変えるなどというばかげた願いをよもやねこさまが叶えるとも思わんが、乞うだけ乞うてみろ」
しばらく惚けて篠を見上げていた男だったが、その後数分の問答の末、ぼくを見て土下座せんばかりに頭を下げた。
「あなたさまが仙人さまだとは、思いもよらず……! 大変失礼を致しました。しかしその見事な化身……やはり人は、人の身を捨てることもできるのですね」
今いち誤解は解けていなかった。
ともあれ、男はなんだかんだでぼくの生活にときどき入り込むようになるのだが、もちろんぼくに、ものの姿形を変えることができようはずもなく、それをいずれ男も悟った。数ヶ月後には、ぼくがちょっと変わっているだけのただの猫であることも知り、過剰にかしこまった態度も緩和された。どころか、
「お前のことを『ねこさま』と呼びたくはないし、どうだ、『シロ』なんて」
と勝手に名付けて呼んでいた。篠はそれがたいそう気に入らず、ますます男が嫌いになっていたようだ。
男はしかし犬になることをあきらめず、ぼくや篠と一緒に山を駆け回ってみたり、他の地に本物の仙人を探しに行ったり、いろいろ努力をしていたようだ。その間に、なぜ犬になりたいか、犬とはなんと素晴らしい生き物かということを滔々と語るので、ぼくも篠も内心ちょっとうんざりしていた(否、篠ははっきりとうんざりした態度を表していた)。
そしてぼくらが出会って数十年経った頃。
なぜ数十年経ったとわかったかというと、そのころぼくが寝床にしていた岩の近くの木が大きく成長し、日向だったそこが木陰になってしまったからだ。そろそろ違う場所を探そうとおもっているときに、男は現れた。
否、男の姿はそこにはなかった。
現れたのは犬だった。
『見ろ、シロ! とうとう、犬になることができた!』
灰色の犬がそこにいた。なかなか凛々しい顔立ちをしている。声を発しているが、人の声帯から出されたものではなく、篠が使う思念のようなもののようだった。
ぼくはそのとき、「そういえばこいつ、犬になりたかったんだっけ」程度の感想を抱いたような気がする。
『この立派な姿を見ろよ。かっこいいだろう。ほれぼれする。シロ、お前、鏡なんて持っていないか。いないよな。あれば、一日中眺めているかもしれない』
犬であれば一日中鏡を見ていたりはしないと思うけれど。
『そうだ、あとは、人の心を捨てるだけだ。そうすれば、完璧な犬になれる。この素晴らしい犬の姿に、この思考は邪魔なだけだ……』
犬はぼくに一旦背を向け、首だけで振り返った。
『旅に出ようと思う。犬の身体を手に入れたのは、シロのおかげがあったやもしれぬ。しかしいつまでも甘えてはいられないからな。これからは人の心を捨てる方法を探す間に、心が残っている限りこの身体を愛そうと思うのだ』
はあ、どうぞご随意に。多分ぼくは何もしていないけれど、お礼だというならもらえるものはもらっておこう。そう思って、ぼくは犬が置いて行った鮭を存分にいただいたのだった。
それが、あの男……山田を見た最後だった。
首を傾げながら倉吉は学校へ向かって行った。
何を気にしているかというと、『なぜあんなところに山田の犬がいたのか』ということだ。『なぜ電車から犬が出てきたのか』ではなく、『なぜ犬が痴漢を取り押さえたのか』でもない。『なぜ、電車で一緒になったのに小山を置いて一人登校しているのか』でももちろんなかった。そこは気にしないように、ぼくが念じたからだ。
ぼくはといえば、山田と一緒に痴漢を目撃した様子を報告したあと、ようやく学校へ向かうバスに乗っている。
山田は痴漢が連行されたあと、素早く人に戻り、しれっと駅員に名乗りを上げた。犬になることに成功したのは知っていたが、人と犬の身を行き来できることは知らなかった。だからこそ再会したとき、すぐに思い出すことができなかったし、犬としての生を全うしたものだと信じていたから生きているとさえ思っていなかったのだ(それ以前に存在を忘れていた、ということもまあ、あったかもしれないけれど)。
人の心を捨てるどころか、自分の犬の姿大好きがいっそう悪化していたし。何をやってたんだろう、山田。
「痴漢、捕まえさせて良かったのか?」
「逃がすとでも思ってたのかよ」
山田はそう答えた。いや、てっきり、自ら制裁を下すのかと思っていたから。山田もすぐぼくの言いたいことに気がついたようで、
「あいつの匂いは覚えた」
と歯を剥いて笑った。そこには純粋な人だったときにはなかった、とがった犬歯が見えた。
もう学校が始まっている時間で、ぼくらの他に生徒の姿はない。木谷先輩も、一本早いバスに乗ったから、一緒にはいなかった。
「木谷先輩はいいのか?」
「ああ。同じ場にいても、僕が僕であることは認識していないんだろう?」
そう言って山田はぼくを見た。うーん、厳密にはそれは違う。ぼくらと一緒に事情聴取を受けたことはきちんと認識しているのだが、それに対して気にしない、疑問に思わないようにしているのだ。
「まあ、どちらでも良い。あの人が、僕に気を使われたり、僕を見ていやなことを思い出されたりということがなければ」
そう、前から少し気になっていたけれど、山田は本人のいないところで先輩の話をするとき、尊敬語を使うのだ。
「なあ、結局、先輩はお前にとって何なんだ?」
とうとうそう尋ねると、山田は横目でぼくをじとりと見た。
「お前も倉吉も、何か勘違いしているな?」
気づいているか。まあ、あれだけ倉吉が分かりやすくにやにやしていたからなあ。山田は咳払いをして、視線を前に戻した。
「別に、下心や恋情であの人に近づいたわけじゃない。僕の、本来の目的のためだ」
「そう?」
山田は目を細めて呟いた。
「犬は忠義に厚いものだろ」
一体、山田のあの表情が恋であるのか、彼の言う通りそうでないのかぼくにはわからない。なんてったってまだ、人間は17年しかやっていないから、そういう機微には疎いんだ。
人間社会って複雑だな。そういう感想を抱きながらぼくは、バスに揺られるまま、いまだ遠い目でどこかを見ている山田を眺めていた。
第二部完、ということで、一旦完結とします。




