我が輩はねこさまである
俺はしっぽと手足を持った生き物である。白い毛並みは自分でも気に入っている。名前はまだない……わけではないが、なんとなくそう答えなくてはならない気がしたもので。実際、名前は俺にはよくわからないが、よく一定の音で呼ばれるので、それが俺の名前なのだろうと思っている。
俺は一人の二本足の生き物……人間と同居している。人間の雄、男だ。冴えない顔をしていて、いつも俺を抱き上げようとしてくる。抱かれるのはあまり好きではない。しかし、同居人であるこの男に情がないでもないので、何回かに一回はサービスをしてやることにしている。
男を見ているとときどき、俺は男の……人間の仲間だったような気がしてくる。厚い紙の冊子は読むと面白いものだったような気がするし、あの丸い筒の中の液体は、とてもおいしいものだったような気がする。猫の雌には興味がわかず、人間の女にばかり目がいってしまう。
「モモコサン」
人間が俺に向かって言う。それが俺の名前であると思う。
「モモコサンオイデ」
名前を呼ばれているらしいので近寄ると、撫でられる。男に触られても、あんまり嬉しくない。そりゃ確かに目は自然と細まるが、それは気持ちよいからではなく、なんとなく眠くなってしまうからで、別に関係ないのだ、こら、のどもとをくすぐるな。
まあ、人間だったような気はするが、今の俺は人間ではない。しっぽと手足を持った生き物としての本能に忠実に生きている。雌に興味がないのだけはあまり良くないような気がするのだが、あまり気にしていない。きっとそういう生き物なのだ、俺は。気にしないという意味でも、同種の雌に興味がないという意味でも。
我らは小さな家に住んでいる。小さい、というのは、以前の家に比べてという意味である。しばらく前は、我らは違ったところに住んでいた。そこにはあと二人の人間がいて、一人は俺にうまい飯をくれ、もう一人は俺が嫌がってもその臭い体臭で擦り寄ってくる奴だった。しかし今は男と家を変え、二人で住んでいる。男は臭くもないし、二人で住むようになってからうまい飯をくれるようになったから、それなりに認めてやっている。
さて二人きりだった我らの家に、近頃、人間の雌がやってくるようになった。俺を撫でたり、投げたり、一緒にごろごろごろと転がったりしている。
「オウ、モモコ」
ごろごろ転がっていた雌が、俺を見て声をかけた。男から話しかけられるときと音が一致している部分があるから、俺の名前を呼ばれたのだと判断する。近づくと、こてんと倒された。
「モモコハマヌケダナー」
女は声を上げる。それは笑っているのだと俺はわかる。俺と同種の奴は笑わない。人間は笑うものだと俺は知っている。女はしばらくけたけたと笑ったあと、俺の頭を撫ぜながら言う。
「オマエ、ハヤクネコサマニカラダヲカエシテヤレヨ」
やはり女の手の方が気持ち良い。俺は存分に目を細め、快感をアピールする。
「ソレトモ、ネコサマガオマエノカラダヲウバッテイルノカ?」
ああ、もう、これは、あれだ。伸びをしよう。寝返りを打ちたいほどに心地が良い。のどが鳴っているのを感じる。女がくすりと笑った。
俺の飯は、きまった時間に与えられる。よそで小動物を取ることもあるが、男があまり良い顔をしないので、持ち帰ることは少ない。外で食べてしまう。
今日は珍しく、魚の削ったのが飯の上に乗っていた。俺の好物だ。思わず男の足に擦り寄り、媚を売ってしまう。男はにやにやしながら、俺の目の前に皿を置いた。
腹が満たされて満足する。背中の方が何となく物足りないので、男の近くに寄って見上げた。奴は気がつかない。足元に擦り寄りながら、横になった。珍しく俺が男に撫でられてやっても良いと思い寝そべってやったのに、男は徐に立ち上がり追いすがる俺を無視して歩みさる。おい、待て。追いかけると、男は扉を開けてその向こうに消えた。この部屋のことは知っている。用を足すところだろう。それを見ると俺も尿意を覚えて、己のトイレへと向かった。女がそれを見て変な顔をしているが、俺には関係あるまい。
砂を存分にかけてトイレを出ると、男が女と話している。
「モモコサンモヒサシブリニキレイニシタインダヨナ」
「マカセロ」
女は俺の視線に気がつくとしゃべるのをやめ、俺に手を伸ばした。撫でられてやっても良い気分だったので俺はそれを甘んじて受ける。
「ナア、ネコサマ。イゼンハアアハイッタガ、ヤハリナワバリヲヒロゲテミテハドウダ」
「ナワバリッタッテナア。ナニカトクスルコトガアルデモナシ」
「ソンナコトハナイ……」
人間たちは話し込むが、俺にはその会話はまったくわからない、当然ながら。それはいいんだが、撫でる手が止まってるぞ。
「シカタナイナ」
話は終わったらしい。女がふうとため息をついて、小部屋に入っていく。寝そべったまま見送った俺は、その部屋のことも知っている気がした。体を洗うところだ。人間は己の体を舐めて洗ったりはしないのだ。……と俺の微かな記憶が言っている気がする。それを確かめたくて、女のあとをついて小部屋に侵入した。戸は閉まっていたがなんの問題もない。少しの隙間さえあれば、手で開けられる。
女はすでに風呂に入っているようだ。半透明な扉の向こうに影が動いているのが見える。ちらちらと動く影にうずうずするも、今回俺が興味を持っているのは何よりその風呂の中なのだ。扉の前で一声鳴くと、影が近づいてきて扉が開いた。部屋の中に興味津々で、はっと気がついたときには女は既に湯船に浸かってしまっている。風呂の蓋が半分かぶさったままで、その上であればまだ足が濡れなさそうだ。
ぽんと飛び上がり、風呂蓋に上がった。正面には、女が湯につかったまま俺を観察しているようだ。蓋に隠れて見えないが、その奥には女の裸体があるはずである。女が俺の名前を呼んだ。来い、と言っているのか。
お、おお、女体の神秘か。どきどきと歩を進める。女は挑戦的な目でこちらを見ている、ような気がする。
一瞬何が起こったのかわからなかった。ばしゃんと水音がして、衝撃。俺の体が水面に叩き付けられたのだということが、三拍おいてようやく飲み込めた。次いで俺の体はさらに水の中に押し込まれる。押し込んでいるのは他でもない、女の細腕であった。
「ワルイナモモコ、コレモネコサマノメイレイナノダ、シ、シノハワルクナイ、ゾ」
何を言っているのかもちろんわからないが、女の鳴き声は笑っている。つまりおもしろがっているな。おい、やめろ!一所懸命に四肢をばたつかせるが、女の力はものすごい。
変な液体で体中ごしごしとされ、温かい水の中に何度も押し込まれた俺は、二度と風呂場に近づかないことを誓ったのだった。
しかし俺の記憶力は、好奇心にいつも負けている。結局、ひどい目にあってから毎回、風呂場に近づかないことを誓い続けていることに、しばらく気がつかなかった。




