ぼくとテレパシー
ひどくいらいらしていた。
あんな軟弱ものに成り下がっているなんて思わなかった。ならただのお人好しなのかとしおらしい態度をとってみても、追ってくる様子はまるでない。
「ただの腑抜けか。しょうもない」
ここ数十年の渾身の演技だったというのに、一声もかけてこなかった。こちとら振り向くのをなんども我慢して歩き去ったのに。
今だって毎日出て行きたい気持ちを抑えて、「押してダメなら引いてみろ」を体現しているというのに、まったく効果がないじゃないか。恋愛雑誌なんかを参考にしたのが間違いだったか。
「もう篠は待てない。何百年待ったと思っているんだ」
年月の概念がなかったのは大きな戦が終わるまでのこと。人間に混じって生活するうちに、ねこさまと別れたのは「戦国時代」であるという知識が身に付いていた。現代は時間が凝縮されていて、特にねこさまを探し始めてからの時間はとても長かった。何百年も待ったのだからあと数日くらい待てるだろう、なんて言っていられない。もう何百年も待ったのだからこれ以上少しだって待てないのだ。
「ねえ、お姉さん」
しかし篠自身少し迷う。ねこさまの匂いを追い続けて、そうやって見つけたねこさま。本物以外に興味はないと思っていたが、あの艶やかな毛並みがないとなると、少しばかり魅力が半減というか……。実際今のねこさまは腑抜け以外の何者でもないし。
「ねえ、お姉さんってば」
「……あ?」
知らない男が数人、周りをうろうろしていた。ねこさまへの怒りが募って周りが見えていなかったらしい。
「なんだ、お前らは」
「さすが強気だねえ、お姉さん」
見た目の年齢的には男達より多分年下に見えるのだろうが、どうして「お姉さん」なのか。男達がにやにやしているのがひどく癇に障る。
「俺たちと遊ばない?」
「遊ばん」
「つれないなあ」
「俺らのダチはお姉さんとたっぷり遊んでもらったって言ってたぜ」
ダチとは友だちのことだ。この手の男達にとっての友だちとは大抵ろくでもないものだ。こんな奴らにも守るべき友やルールがあるのが面白い。こいつらは完全に自由にはなれないのだ。
と、いうのはどうでもいいが、この男達の友だちと遊んだ覚えは全くない。
「人違いだろう」
さっさと輪を抜けてその場を去ろうとするが、男の一人が目の前に立つ。
「いやいや間違いなくお姉さんだってよ。おかげさまで病院のお世話になっちまってよ」
「……ああ、四日ほど前に一人二人のしたような気もするな」
「二人だよごら! とぼけてんじゃねえぞ!!」
突然大声を出してこちらを恫喝しようとしてくる。
いらいらいらいら。
ねこさまは相手にしてくれないし、いらん奴らには相手にされるし。
……いいことを思いついた。
「ちょうど良い。いらいらしていたところだ」
「ああ? 俺らに勝てると思ってんのかこのくそ女!」
「相手してやろう」
一歩足を踏み出して、篠はにやりと笑った。
篠と会ったのはほんの四日前だし、過ごした時間は五時間にも満たないだろう。ただその常識はずれのキャラクターがぼくの印象に焼き付いてしまっていた。
だけど現れないならどうしようもないし、どうしたいわけでもない。
ただ最後の寂しそうな顔だけが、ちらちら脳裏に浮かぶだけだ。
寂しそうな……
「ああ、気になる!」
ぼくの独り言にももこさんが薄目を開けた。窓際でまどろんでいたところを邪魔してしまったらしい。
「……お前は、いつから生きてるんだ?」
ももこさんが子猫だった姿を、確かに見たことはないのだ。何年経っても毛並みはつややかで、身も軽い。一人暮らしについてきて、住み慣れた実家を出てもももこさんは全く憔悴した様子はない。ふつう、猫が家を移ると少なからずストレスを感じるらしい。段ボールに閉じこもって三日出てこないとか、ご飯を食べなくてげっそりするだとか、そういう症状が出るものらしいが、ももこさんは本当にいつも通りだった。部屋の中を一回りして、こんなものかと我がもので座り込み、毛繕いを始めたものだ。
ねこさまも、自分のことを知りたいと思わないか。この猫が、どうして長い間、若い姿で生きているのか、知りたくないか。
うう、とぼくはうなる。知りたくはないかと言われても、篠に言われるまで疑問に思ったこともなかったんだ。横槍でむちゃくちゃを言われているような気がしてならない。
……ねこさまは、人間になってしまったんだな……
「知るか。ぼくは人間だ」
最後にもう一言呟いてから布団に潜り込んだ。明日も学校だ。
すっきりした目覚めと、いつも通りの朝ご飯。今日は卵焼きとオクラ納豆、茄子のみそ汁。朝はしっかり食べるほうだ。
制服に袖を通して、ねこさまに声をかけ、靴を履く。
そうやっていつも通りに学校へ行こうと家を出た瞬間だった。
……
誰かが何かを言った気がしてぼくは辺りを見回した。
ももこさんは先に行って既に見えなくなっている。ゴミ出しの日だったので近くのゴミ捨て場の方から主婦たちの会話が聞こえてくる。隣の民家からテレビの声が聞こえてくる。サラリーマンが電話をしながら目の前を歩き去っていった。
なんだかぼくに話しかけられたような気がするけど、気のせいかな。
…………
あ、そうだ、ゴミ出さなきゃ。
一旦かけた鍵を解錠して、ゴミを取りにもう一度部屋に入る。
周囲の雑踏が少し遠ざかった。
……ま
ねこさま!
「……篠?」
はっきりとした声が聞こえたわけじゃない。そういうふうに呼ばれた気がしただけだ。
ねこさまなんて呼ぶのは篠しかいないし。
ねこさま。篠は捕まってしまった
そんなような感じのことを篠はぼくに伝えてきた。耳がおかしくなったんじゃないかとは思わない。耳に届くような音声じゃなかったんだ。説明がちょっと難しいけれど、これってテレパシーってものなんだろうか。
って、捕まったってどういうことだ?
遊び半分でけんかを売ったらやられてしまったんだ。もしかしたらねこさまも襲われてしまうかもしれない
「はあ?」
なんで篠のけんかにぼくが巻き込まれなきゃいけない?
一方通行なのか、無視しているのか、篠はぼくの疑問には答えない。
本当に済まない。ねこさまは篠に構わず逃げてくれ。駅向こうのボーリング場跡地には絶対来ちゃいけないぞ
……妙に具体的だな。ええと、ゴミ、ゴミ。
本当に、これっぽっちも、篠に構う必要はないぞ
ぼくはゴミを掴んで部屋を出た。鍵を閉めて、ゴミ捨て場にゴミを捨てて、学校へ向かう。
再び雑踏に紛れて声は聞こえなくなったけれど、頭の奥の方でずっと篠が呼んでいるのだけは感じていた。ずっと聞いていたらノイローゼになりそう。
絶対に、来ちゃいけないぞ
はいはい。行かないよ。
まあ、こんな構って攻撃ができるようなら、元気なんだろう。




